社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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宣伝対策さ…

 
・・
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夜が昼を侵食する

 
「昨夜からずっと、この件に関して、神様が下りて来るのを待っておるところであります。」

そんなメッセージを送ってみた。
それはそうなのだけれど、なんだかしっくりこない。

「たぶんターゲットはコアな人ではなく、もうちょっと開かれた普通の人たちではないかと思っております。そういう意味でいうと…」云々。

午前中のやり取り。「開かれた普通の人」なんて、至極つまらないことを考えついたのは、たぶん朝の明るい日差しの所為だ。きっと、それがよろしくなかったのだと、夜になってギクシャクしている。

長い会議をようやく終えて、まだまだ健康的な明るさに満たされた時間に、慌てて呟いた呟きがどうもおかしい。
「衆議院法務委員会で、テロ等準備罪新設法案が強行採決によって可決された日に、6時間もの間、全ての人と楽しむことを企てる組織を立ち上げるための会議で、俺は“共謀”を画策しながら、そして疲弊していったのである」

どうも近頃、昼と夜が逆転している。…というか、夜が昼を侵食し始めたようで、これは実に危なっかしいことだと思っている。だが、夜から昼への通路を確保しておかなければならないことも事実なのであって、しかしながら、夜の神と昼の神は全く相いれないということを忘れてしまうほどの異常な精神を、今の日常の中で抱え込むなど、たぶん今の自分は耐えられない。深夜ぼんやりと待ち続けていた神を、翌朝の頭脳で無自覚に解釈しようなどという間違いを知らず知らずに犯してしまうというのは、これはかなり厄介な状態であって、そんなことだから、思わぬところで、夜はここぞとばかりに昼を侵食し始めるのである。

ターゲットなどというつまらない広告代理店の発想はきっぱりと捨てて、その上で冷静な独りよがりの戦略をもって、夜の怪物を利用しなければならない。

俺の昼は、夜に浸食されたフリをしている。
 

個人的な理由

 
暮れの、一度きりの不摂生。元日から目眩と頭痛が治まらず、声も掠れて出やしない。昔は毎晩午前様、朝から移動して、仕込んで2ステージ、バラして宿で遅い飯を食い、それからまた飲みに出る、それを何日続けても、声だけは健在だったのに。

何故か、3.11の年にあったことを、あれこれ思い浮かべている。
家族のこと。つまりそれは、身勝手で個人的なこと。

寝ていると増々具合が悪くなる。
だから這ってでも事務所へ行くのである。仕事があるからではない。何度でも言う。寝ていると具合が悪くなるから。身勝手な、個人的な理由。
 

上滑りした慣習

 
朝から酷い目眩。
PCのトラブル。

久しぶりに自宅に帰って蕎麦を食うのだが、もう何年も前から、暮れと正月を結ぶ上滑りした慣習にイラつくようになった。
(目眩が習慣になる? 勘弁してくれ…)

すっかり年が明けるまで、どこかに身を隠していたい。
 

どっちが性に合っているかなんてどうでもいいこと

 
ツイッターとやらの話。

呟きたいことは呟いてはいけないらしい。それでもやっぱりなんとかして呟きたくて、謎めいた文章を捻くり出して、敢えてタイミングを外して投稿してみる。それでも、というか、それだからというか、思わぬところで
「俺のことか?」
みたいな、訝しげな反応が起こる。たいがいそれだけ、問いただしてくる者がいるわけもなく。問われなければ、否定することもできないわけで、放っておくしかない。
でもこれこそ文学的普遍性の源なのである。つまり、ペテン。

リアルな知り合いのフォロワーは、黙って去っていく。

フェイスブックとやらの方は、そのまま何もなかったかのように繋がったママ。いったいどっちの方が性に合っているのかなんて、どうでもいいことを考えている。
 

傾いた隊列の行進

 
ふた月ほど前のこと…
「知らず知らずスケープゴードが作られてしまう」
そんな話をしてみたのだが。

弁護するつもりはない。しかし小さな町、もう致命傷かもしれない。どうしてこんなことになったのか、どれもこれも憶測に過ぎないが、貧して鈍したのが発端に違いないと、僕はそう思っていた。

心から思う。切実に思う。
「子供には罪はない」
昔なら親は親、子は子、助けてくれるおせっかいがいた。しかし、今やそれは悪でさえあるらしい。親がダメだとその子供まで虐められるのか。子供たちに差し伸べる手などどこにもなく、陰からはいくつもの光った目が、ジッとこちらを伺っている。卑猥なヒソヒソ話。

当たり前と言う貴方たちは、ひたすらに悲しくないのかと問うてみるのだが。

子供たちとはとことん仲良くすると俺は言う。すると鬼になれと叱る「良心」とやら。
鬼というものを取り違えている…そう思ったが、黙っていた。

この小さな町の正しさは、目を覆うばかりの明るい正しさ。

それから積み重なっての今日。
みんなに嫌われているんだよ、ね、と、数少ない友だちが言う。
「なんで」
「貧乏だから」
それを黙って曇った表情が聞いている。虚ろが襲って来る。
「関係ないのに、かわいそうだよ」
子供たちの世界はひたすらに惨く。

種を撒いたのは大人。自分の子供たちの前で、その芽に水を遣るたくさんの親が、コクトーの子供たちを育てていく。
このおぞましく傾いた道徳は、あの狂った宰相と無関係ではないと、俺は確信している。傾いた隊列の行進。兵士のだれもがその傾きに気づかない。自分が兵士であることすら忘れてしまったくるみ割り人形たち。

insanus!
murderous ásetningi

俺はといえば、堆く積まれたラテン語で書かれた古書のある部屋から、子供たちを置き去りにしたその光景を、強烈な目眩とともに眺めていた。
 

「不在」のありか

 
母親も弟も、抗うつ剤を飲んでいた。今も飲んでいるのだろうか、知らないし興味もない。
朝方ふと、ひどく沈んでいる自分に出会う。違う違うと無理に口角を上げてみたり、再び目を閉じてそのまま夢の名残に身を任せてみたり、数十年間、何とか書くことで踏みとどまってきた。それなのにどうしたことだろう、今朝の僕は、眠りと覚醒の狭間で、「何か」の不在に脅かされている。その「何か」を、あれほど恐れていたのに。

起きて数分も立てば、FBとやらでイベントに招待する「友達」を選択し、「送信」ボタンをクリックしている。反応のないことを知りつつ、僕はそうしたある意味で絶望的なことどもに平然としていられるほど無神経な男に変貌してしまったらしいのだ。一歩踏み出せば、そこには新しいたくさんの顔が見える。だが振り返れば、置き去りにした僕自身の思いと、大切であったはずの人たちの後姿と、あの「何か」。かの「何か」を、今一度確認するために、僕はまた書き始める。
 

何が表で何が裏なのか。

 
会社でCDを作って売ったり、公演をプロデュースするようになってから、ハッタリかまさざるを得なくなった。ハッタリのメッキはアッという間に剥がれるが、剥がれるまでのちょっとのスキに、きちんとこちらをあちらに見せられるかが勝負である。詰まらない。しかし悪いのはどっちなのか、定かでない。

ハッタリが効かない方が多くて困る。ハッタリは諸刃の剣で、失敗すると取り返しがつかない。しかし信頼ある看板の力は絶大。つまり、ハッタリにもどんな看板にも関係なく相手が見れる人は、場末の飲み屋以外では滅多に出会わない。さてそういう僕はと振り返る癖がついてから、どうも寝つきが悪い。

昨夜呟いた呟き。真意は、結局呟いた僕自身にしか分からないのであって、そんなものを表のブログにイケシャアシャアと並べておく必要もないだろう。ただただ俺は、10年も前の俺なら江古田まで出向いて行くことなんぞ決してしなかっただろうし、ましてやそこでハッタリかましたりなんて絶対にしなかったはずだということを、主張しておきたかったらしいのだ。

日が変わって、俺は自分が納得する理由をでっち上げたのである。

見慣れた風景の中で山菜採りのために散策する趣味はない。この場所に立ち続け、目を凝らし耳を澄ましている。突如見切ったと歓喜する。
「あの、これ、落としましたよ」
「いえ、捨てたのです」
明朝、新しい画像を3枚、FBに投稿してみることにして、やっと眠れそうになった。

その3枚の画像はすべてハッタリ。3.11直後のNHKを語ってくれた若き女性と、福島に行ったという証拠写真と、そしてかの先輩とのツーショット。

ツイッターなんてものを始めて、その「呟き」とやらをブログで拾っているうちに、表と裏の区別がつかなくなった。さらにそこにFBが加わったりして、こうなると、今まで表だと思っていたものが実は裏なのかもしれないという気までしてきた。

つまらないことを書いた。弁解ばかり。こんなもの、裏でも何でもない。
 

20年来の夏の記憶が消えるときを待つ

 
誰もいない事務所で、熊のように当てなく、蝸牛のように愚鈍に、僕は裸足で歩き回っている。外はひんやりとしてるが、10月だというのに、このガランとした室内は、暑すぎた昨日までの熱気から、いまだ解放されずにいるのである。

無駄な熱も熱に変わりなく、冷ますにしろ保つにしろ、自分で決断するしかないのだと、僕は絶望的に裸足で歩き回っている。

ふと、足の裏が汚れている。足を洗いたいと切実に思う。だが、流しの高さまで足を持ち上げる柔軟性に欠け、だからせめて頭を洗おうと思いたつ。身体を前屈みにする柔らかさなら、まで失ってはいない。そう思うと、もう足の汚れのことなど忘れてしまった。

この汗ばんだ不快な感触から逃れたい。
まもなく、屋外の冷気がこの部屋の空間を侵食してしまう。そうなれば、汗をかく能力がこの僕にも備わっていたという曖昧な記憶も、きっと跡形なく頭蓋骨から消え失せるだろう。

それまでの、もう少しの辛抱である。
 

象徴でないのであるのなら…

 
ツイッターの、表にはふさわしくない言葉を消し去り、少しづつ裏へと強奪してくる。

「僕はTV版の方が好きだった、と言えない空気」
表の、昨日のブログから、この呟きを抹殺した。

今日もまた呟きたくなったのを、なんとかこらえて沈殿させ、なお残ったウワズミを、今この深夜の密室で語ろうとしている。

監督が、というのが少し憚られて、彼女が、登場する人たちを「主演男優」と称して燥いでいる。その文言と、それに添えられた画像の違和感。違和感といえば、ナレーションが僕には全くダメであった。前は気にならなかったのに、それがひどく鼻についた。

「沖縄の、男の俳優に代えて録音し直せばよかったのに…」
「わかるわかる」

そんなふうに同意もあったが、みんな大人だから、誰も公言などするはずもなく、大人になりきれぬ天邪鬼だけがこうして時間を費やしている。

同じ感覚が、あの“抵抗の唄”の場面でもやってきた。番組という枠に押し込められていた時は、怒りを共感し、涙も溢れたのだが、何故か劇場の椅子の僕は腹立たしささえ覚え、そして自分でも驚くほどすっかり醒めていったのだ。
「大和の女性」…、それも感性豊かな、と、後で括ってみた。素朴を敬愛するが、凡庸なら見向きもしないという感性に、散在する苦悩は見えないだろうと食ってかかる妄想を育ててみた。

根拠のない予感があった。根拠のない、ということは、僕の審美眼こそがきっと怪しいのである。
しかし、芸術作品を見せられたわけではあるまい。ならば、僕の予感の根っこが、「傑作」と評されだした「作品」と無関係だから、と、無視するわけもいくまいし、せめて裏でこっそり語るくらいは許されていいだろうと、僕は咎められる前に言い訳を準備した。

「主演」ばかりではなく、会場には次々と、いまが旬のゲストがやってくるというニュース。「なんと!」という小見出し。いったい彼にどんな関係があるのだろう、いったいどこまで燥げば気が済むのだろう…
まだまだ尽きぬといちいち事例を論おうかとも思ったのだが。

「言い訳」は、言い訳と言わせぬための方便。

かの土地が仮に心正しき感性豊かな自由人たちにとっての象徴なのだとして、僕にとっても同様であるなら、ふと彼女が漏らしたように、僕もまた、あの場所へ二度と足を運びはしないだろう。
しかしながら僕には象徴などではなく、そうであってはならないのだから、できることなら知った人に誰にも会わず、機会を作って一日でも二日でも、ひっそり座りに行こうと決めているのである。

他に見つめるべき場所がないならば、という条件付で。

そのうちに、数年の時を遡って、もう少しはっきりと書くつもりでいる。
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