社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1983年7月14日のノート》

 
「作品はあるがままに額面どおり受けとるべきで、デカルト流の機械的論理の適用はあきらめた方がよい。その直接的な映像は合理的裏付けなしに、映像自体が、十分語るのである。」
(ミシェル・コルヴァン)
「まぎれもない象徴は、むろん形象される思想の形態に対する、そのものずばりの精神の執着から生じる。それは断じて解釈ではないのだ。また解釈されることも断じてありえない。」
(マルセル・レイモン)

岩淵達治氏は不条理演劇の作家たちについて「存在の不条理を、条理や論理的思考を意識的に放棄することによって表現する」という。
意識的に放棄しようとする主体は、はたして論理なのか、あるいは分裂以前の存在なのか。
「意識的に放棄する」ことと「無意識のうちに放棄している」ことの違いは何なのか。 演劇は、結局のところ「言葉」の呪縛から逃れられないということの表現なのか。

あるいはまた、音楽家や画家の意識は、言語から解放されているのだろうか。

《統一の意思のために》
ある対象に対して、あるいはある状況に対して、概念であるはずの「美」や「愛」を、実体あるものとして感じるためには「知的能力」が必要である。《統一の意思》の論理に照らしていえば、「美」及び「愛」を感知する「知的能力」が、他の「知的能力」によって妨げられない(否定されない)ことが、「美」「愛」の顕在化の条件である。結局のところ、「美」や「愛」だからといって特権を与えられているわけではなく、各々の「知的能力」の相対性に影響されるという一般的な法則に支配されているということである。 《統一の意思》の論理でいえば、「その場に応じた価値観」を敢えて比較の俎上に乗せて、さらに高い知的レベルの形成を目指す。つまり相対的でしかない「知性」を、知性の総体=絶対的知性に構築することが可能なのだという理念を、原初的欲求群もまた信じているのである。
しかし、現実的な問題点として、具体的場面においては、「知性(欲求)」の対立は、「折り合い」をつけられればそれでいいというような対処療法的な解決を期待される課題として立ち現れてくるために、結果、「知性・感情・欲求」の構成要素の一部が抑圧され、無意識の領域へ隠されてしまうことであった。本来、理念としては、「知性・感情・欲求」は分析細分化され、そして全ての要素は再構築されることを期待されていたはずなのである。
その解決は、抑圧された要素を、何度でも再認識し、様々な対立を作り出し、そして再構築作業を無限に繰り返すことで、限りなく「絶対的知性」へ志向する以外に方途はない。確かにそれはひとつの絶望の認識ではあるが、中間者としての人間という現実を受け入れれば、理念として機能するのである。
理念として、最終的にたどり着くであろう状態こそ、あらゆる身体器官、さらに「第一物理」における「知的混沌」である。
「美」および「愛」は、だが特別である。
「美」および「愛」は、「知的混沌」への道程における個人的限界(あるいはその類似状況)の昇華的表象なのである。
但し、「美」や「愛」に関係する対立は、往々にして「欲求」対「理性」(無意識であれば「リビドー」対「超自我」)という単純な形で現れるであろうということである。
その時、「欲求(リビドー)」を純粋に(無条件)に、あらゆる対立から解放することによって、言い換えれば「統一の意思」による盲目的全面的「人格」の付与によって、「第一物理」の「知的混沌」という最終的状況が啓示されうる場合があるのだ。まさに「不条理」である。
ただ、いつでも我々は、次のことを認識していなければならない。
「啓示」は、たとえ「知的混沌」の鏡であったとしても、常にその一要素でしかないということ。また、無条件的な解放を前提にしているために、対立を内包せず、また表現もされていないということである。これらは、極めて「モラル」の問題でもある。つまり、理性の抑圧である。
(1983/7/14)
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(再掲)《1983年7月9日の愛しいノート》

 
山積みされた課題。
解放の時代から、解放されたものによる思考の時代へ。だが「身体的知力」は「言葉」に匹敵する言語を持ち得るのか。
一週間前の自分に言ってやりたい事がたくさんある。しかし奴は聞く耳を持たず、今の俺の言葉のほとんどを理解しないだろう。
(しかし本当のところどちらが正しいのか、それが判然としないということも問題なのだが。)
“He is not what he was.”(「彼は昔の彼ならず」太宰治)

ある事柄に関する〈センス〉に就いて。それは真理認識の為の有利な条件だが、同時に重大な誤謬を犯す危険の種でもある。

書けば書くほど嘘になる。嘘を書きたくはないく。だから捻り出してまで書こうとは思わぬ。
絶望、デカダンスの誘惑、そいつを振り切って「まだ自分のものであるはずの高潔さにとどまるために」
…それこそ嘘っぱちだ。
絶望に見合った「深さ」から、未だ僕は遥か遠い所にいる。あいも変わらぬ「深奥さ」に対する憧憬。

〈統一の意志〉のためのメモ。
“本質的発見”への道程
[精神(精霊)《混沌》]→[中間項《統一への過程》]→[《統一》=《知的混沌》]
中間項におけるバランス=個性。
「あまりに多く経験し過ぎる事」の【絶望】を超えて。
(1983/7/9)

 

(再掲)《83/7/19のノート》「統一の意思」のメモ

 
「物質から精神が生まれそしてそれは混沌である」
この一節の中に全ての誤謬の萌芽がある。だがそれは、論理の誤謬を意味しない。人間の逃れられない誤謬の原因を正確に表現しているに過ぎない。ただ、虚無と無限という対極の要素を内包した定理を始原として、その上に構築される《統一の意思》は、その論理の末に再び混沌が立ち現れることを示すこと以外に矛盾から逃れる道はない。
しかしそれは、虚無と無限との間の世界で、パスカルの言うところの中間者としての人間が、理念としての「始まり」から、やはり理念としての「終わり」へ向けて、非可逆的に歩む行程を、ひとつの弁証法的な実存のあり方として示唆することに他ならない。

僕は僕の感情を、片付けてしまいたいと望んでいる。
一方で、決して片付けてはならないと考えている。
深奥さへの憧憬を、絶対に失ってはならないと考えている。
(1983/7/19)
 

1983年以前のノート《統一の意思》のこと

 
1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。

僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。

ただ、捨てずに残したものがあった。

レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。

身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。

大袈裟な話しだ。

ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。

少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。

至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。

分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。

君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。

「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。

その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。

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