社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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朗読の形而上学(第三回)序章(3)

 
演技と同じように、朗読もまた、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきなのか。テキストの文章を自らの肉体に定着させなければならないものなのか。

朗読における「書かれた他人の文章」と「それを読む主体」との間に横たわる断層は、「戯曲」と「役者」のそれとは全く異質なものである。
演劇の場合、他人が書いた台詞を自分の言葉にしようとする時にまず拒否反応が起こるのであるが、だとすれば、朗読の拒否反応に演劇のような必然性はない。朗読が、単に文章を「読む」ことである限り、他人の言葉を自分の肉体に取り込んでまで別の人格に「なる」という必要はないからである。
つまり、拒否反応を乗り越えてテキストの文章を自らの肉体に定着させる朗読というものが存在していようがいまいが、朗読の形而上学においては関心のない問題である。朗読の本質は、ここにはない。

しかし、「拒否反応を乗り越えてテキストを自分の言葉にして語る朗読」というものについて、この序章において考察しておくのは、それなりに意味のあることのように思われる。

拒否反応を乗り越えることはそう簡単な作業でない。しかし、朗読を趣味とするオバサマたちは、その困難をどれほど理解しておられるのだろうか。気持ちよさそうに朗読するオバサマを見るにつけ、そう思うのである。
台詞が自分の言葉となっていない役者の演技など見たくはない。逆に、オバサマたちには申し訳ないのだが、演者が自ら読んで声に出した言葉が、自分の肉体から出たものだと能天気に信じている朗読など、もっと聞きたくない。そうした朗読は往々にして陳腐である。

そうなる原因のひとつは、自分の能力では消化しきれないテキストなのに、それでも自らの血管に取り込むことができると思う甘い考えにある。五合枡に一升の酒を注ぐことは不可能である。許容量が足りないのに、無理に詰め込もうとすれば、テキストを矮小化する以外にない。朗読が陳腐となる原因の多くはそれである。

作家の言葉が自分の血に流れ込んできて気持ちよく語れたと思ったら、それは勘違いではないかと、まず疑ってみた方がよい。作家が偉大であれば、その拒絶反応は激しく、一生一作品と格闘しても、自分の血となることはまずないと断言する。どうやら朗読する演者の多くは、都合よく作家の血を薄めてしまったことに気づかないらしい。
勘違いした朗読を聞かされて、テキストの世界から断絶させられてしまった観客は、たまったものではない。こうした朗読の氾濫は、本来朗読に関心を持ってくれるはずの、原典を重視する観客を、朗読が行われる会場から遠ざけることになるだろう。それは不幸である。

さらに別の例を挙げてみる。
僕は、宮沢賢治のテキストを題材にして音楽家と共演している。宮沢賢治を原文のまま読む。しかし我々は、宮沢賢治のテキストは自分たちの世界を表出するための単なる素材でしかないと宣言している。この作品で表現したいものは「宮澤賢治」ではなく、我々が創造した新たな世界なのだ。つまり、「本から一歩も出ない」という形而上学的朗読の戒律を初めから破っている。それはもう「朗読」とは違うものであるし、そして我々の公演に訪れる観客も、「朗読」を聞きに来るわけではない。我々の表現は、朗読の形而上的考察の対象から逸脱している。この場合のテキストと演者の関係を、ここでは敢えて恣意的であるとする。

要するに、我々は「宮沢賢治」から開放されているのである。そのことによって、逆説的に聞こえるかもしれないが、演者がテキストを自らの言葉にして語ることも可能となる。
我々が伝えようとしているものは宮沢賢治ではない。語られる言葉は賢治の創作した言葉であるが、我々にとって、それが賢治の声である必要は無い。我々は賢治のテキストを借りて、自らの声を伝えているのである。たとえ原作者賢治が、悲しみを伝えるために紡ぎだした言葉だとしても、我々はその言葉に最大限の喜びを被せて叫んでもかまわないのである。
そのようにして創作された我々の表現が、はたして「陳腐」から逃れられているのかどうかの判断は観客に委ねるしかないし、また、具体的事例の美学的批評は形而上学の範疇ではない。ただ、我々の表現は、宮沢賢治との関係で判断されるものではなく、ただその独自性において批判されるべきものであるということが、論理的な解である。
(ただ、これもあくまで「恣意的」な選択である。このことについては、後に述べることにしよう。)

しかし、朗読はそうではない。朗読が朗読である限り、常に原典との関係において批評される宿命を背負っているのだ。BGMや気の利いた映像などによっていくら補足してみても、朗読そのものの出来不出来に影響を与えるものではない。
確かに、どれほど朗読が陳腐であっても、テキストそのものの存在が朗読の技術を越えて余りあるほどに強かったり、流される音楽が極めて優れていたりすることによって、高い価値を有する朗読的作品もあるだろう。しかし、当然ながらそれは朗読そのものとは無関係である。そこを切り分けて考察することが、「形而上学」たる所以である。

さらに。
演劇の世界にリーディングという表現形態がある。本来、暗記して語られるべき戯曲の台詞を、台本を持って読むのである。結果、演者は朗読とかなり近しい作業をすることになるのだが、しかしリーディングは、朗読とは似て非なるものである。 なぜなら、リーディングで読むのは、もともと役者がしゃべることを目的にして書かれた台詞であって、自分自身の言葉に消化して読むか否かは、できるかどうかの可能性の問題ではなく、どれだけ演劇的な完成に近づけるかという演出方針に全てかかっている。従ってここでの演者とテキストの関係も、やはり「恣意的」な事例となる。

さて、「テキストを自分の言葉にする」という演劇における基本的な作業が、朗読ではかなり困難らしいのはいったい何故なのか。その理由は、原典との関係性において説明がつくように思われる。演劇の場合、原典(つまり戯曲)は、最終的には観客の目から消え去らなければならないものである。台詞を自分の言葉にしていない俳優がいると、そこから戯曲が透けて見えてくる。それは演劇的には瑕(きず)でしかない。ここに、「テキストを自分の言葉にする朗読」の困難さの鍵がある。朗読は、演劇とは逆に、原典のテキストが見えるべきものなのだから、テキストを自分の言葉にすることで原典を消してしまってはならないのだ。テキストを自分の言葉にして唯一許されるのは、作者の言葉と演者の言葉がピッタリと重なる場合のみであるが、その実現は限りなく不可能に近い。

テキストと演者との断層は、演劇の場合は同一になろうとする過程において強烈な拒否反応として現われ、それはやがて克服されなければならない。しかし朗読における断層は、今まで述べてきたように、同一になることのないテキスト(作者)と自分(読み手)との人格的差異である。同一になる必要が無ければ、強烈な拒否反応などは起こることはない。しかしこの差異は、微妙な違和感として消えることはない。
演じることにおいて、拒絶反応はその出発点であった。しかし、朗読において、この違和感は、出発点ではなくひとつの到達点なのである。

そろそろ「序章」を切り上げよう。
本編では、元来声に出して読まれることを想定せずに創作されたテキストを、音だけで如何に観客に伝えるのか、その方法論について考えてみようと思っている。
まずは日本語における書き言葉と話し言葉の差異について。

しかし、その日本の常識を覆す天才バカボンのパパ。書き言葉で話すバカボンパパ。
「パパは何者なのだ?」
「それでいいのだ」

朗読の形而上学の本編へ続く。

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朗読の形而上学(第二回)序章(2)

 
さて、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を考えていく前に、ちょっと役者の話をしたい。

すまけい という名優が語った言葉。
台本を貰ってセリフを読む。他人の言葉は、臓器移植をした時のように、彼の中で拒絶反応を起こす。他人様の書いた言葉なのだから、拒否反応が起こるのがあたりまえ、むしろ拒否反応が起きない方がおかしいというのだ。それを克服し、他者のセリフが肉体に定着した時、初めて舞台に立てるのだ、つまり、台本の言葉を真に自分のものにすること、それが役者の作業であると。
これは、拒絶反応を起こさない安易な役者が多すぎることへの苦言でもある。

でも、これは役者の事情であって、はたして朗読にも当てはまることなのだろうか。「朗読の形而上学」で考えたいのはここのところである。
朗読でも拒否反応は避けがたい。ただ役者ほど切実に感じることはない。だからこそ、朗読する者には、微かな拒否反応も見逃さない鋭敏なアンテナが、役者よりもずっと必要なのかもしれない。そしてその拒否反応をどう扱うのか、ここからが問題なのである。役者は乗り越えるが、はたして朗読はどうなのだろうか。

言葉は、その性質上、あくまでも「道具」であり、それ自体が目的には成り難い。文体というものがあるにしても、それは「内容にとって」という但し書きがいつでもつきまとう。
朗読は、さらにその言葉の下僕である。テキストという具体的な言葉を抜きにして、朗読を語ることは、本来はできないはずなのである。あくまでも朗読は、テキストとの関係においてのみ論じられるべきものなのだ。
だが、それを言うならば演劇も同じことではないか。演技は、戯曲の世界を具現化するための「道具」にしか過ぎず、戯曲から離れて演技の良し悪しを語ることは虚しい議論ではないのか。
しかし、多分これは間違っている。演劇で語られる言葉は、初めから語られることを想定して構築された言葉なのであり、演劇台本の中には、特定の役者を生かすためだけに書かれるものもあるくらいなのである。時に台本は、役者の下僕である。そうではないにしても、芝居の台本は、役者の言葉とならなければ、その存在価値はない。
ところが、朗読のテキストはそうではない。その多くは、最初から文章だけで完結することを前提として創造されたテキストである。だからこそ「作者の意図をはずれない」とか、「本から一歩も出ない」というような金言が、演劇より遥かに重要事として顔を出してくるのだ。
「朗読」が、表現の世界で確固たる地位を得るためには、この問題を一度徹底的に考えてみる必要がある。

従って、この「朗読の形而上学」は、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」ということを100%受け入れるところから始めなければならないのである。そしてその上で、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を、完璧に実現するとは、いったいどういうことなのかを、敢えて厳密に思考するのである。オバサマ方の井戸端会議的な感覚的論理は、決してあってはならない。
そのために、ここでは「言葉」からは具体的な要素の全てが排除され、その結果「言葉」という概念は、「質量」のない単なる「形式」として扱われることになる。

ここでひとつ押さえておかなけらばならないことがある。
「本から一歩も出ない」ような朗読のどこがおもしろいのかという議論。それに対して、「だってこんなことが…」というようなオバサマ的発言には、一切耳を閉ざすことである。これを許すと論理とはいえない感覚的な議論に落ち込み、マンマとオバサマの思う壺、これより先へは進めなくなる。だからここでは、「本から一歩も出ない」ような朗読は、全く価値がないということを、甘んじて受け入れた上で論を進めたいと思う。というより、「本から一歩も出ない」朗読に価値があるかないかを、ここで問題にする必要はないのである。

そこで、あらためて問う。「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」朗読は、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきものなのだろうか。
 

朗読の形而上学(第一回)序章(1)

 
今、密かな朗読ブームらしい。カルチャーセンターにもちょこちょこと朗読教室なるものが現れてきた。僕の親戚のおばちゃんも、何をとっちらかったのか、「お茶」をやめて朗読教室に通おうかしらなどと言い出した。お金がかからないというのがその理由。声を出すから健康にもいい。編み物が流行ろうが、絵手紙に人気が出ようが、いっこうに関係ないが、小さな朗読会があちこちで開かれるに到って、喋ることを生業にしてきた僕としては、この朗読ブームはいったいどういうことか、ちょいと気になってきた。

だからというわけではないのだが、僕は、ある場所で、こんな問いかけをしてみた。

 日本には話芸がたくさんあります。
 落語・講談・浪曲・浄瑠璃、活動写真の弁士とか説教節やごぜ歌など。
 それらと「朗読」と、いったい何が違うのでしょうか。

この僕の問いかけに、ある人が答えてくれた。

 文章や文字を目でみることを前提として表現されたものを、声にする。 
 ここが、落語、浪曲などとは決定的に違うところ。
 だから、作者の意図するところをはずれてはいけない。

なるほど、しかし「作者の意図するところ」に触れたいならば、原作を読むのが一番、それなのに、それをわざわざ「朗読」するのは、いったいどうしてなのか。
どう考えても、作品を朗読することによって、「作者の意図するところ」に付け加わる何ものか(+α)を期待しているに違いなく、お客さんは、《「作者の意図するところ」+α》の総体を聴かされているはずなのである。

にも関わらず、「朗読は本から一歩も出てはいけないのです」と、まことしやかに語る朗読界の大御所のオバサマたちがいるらしい。そういうオバサマ方は、お客さんが「朗読会」に求めているものをいったい何だとお考えなのだろうか。

“作品を忠実に再現する(だけの)朗読の価値”について、最初のある人とは別の、あるオバサマが語ってくてた。

 知らない作品と出会いたい人のために
 自分で読むのは好きじゃない人のために
 想像力・理解力・音感が足りない人のために

僕は考えてみた。まず、「知らない作品との出会いたい」について。
わからないでもないが、これでは書籍の販促活動と区別ない。知らない作品に出会うためだけに朗読会へ足を運ぶ人がいるとは考えられない。それなら書店に行って背表紙を眺めていれば済むこと。書評、電車の中吊り、なんでもある。情報が多くて何を選べばいいのかわからないというならば、信頼できる友人にでも聞けばいい。たとえ「知らない作品に出会えてよかった」という人がいるとしても、これはあくまでも「おまけ」としか思えない。朗読会を、文学的サロンの集まりのように使われているのなら別だが、しかしそれは朗読の楽しみではなく、サロンの楽しみである。

お次の「自分で読むのは好きじゃない」、ということは、読んでくれるなら誰でもいいということなのか。「自分で読むのは好きじゃないが聞けるなら聞きたい」ということは、要するに「読みたいけれど読めない」ということだ。今はね、テキストデータと音声変換ソフトがあれば、読まずに聞くことが出来ますよとお教えしたいのだが、しかしそんなことを言おうものなら、「私たちの朗読と、視覚障害者への朗読を一緒してはいけません」なんてことになる。ということは、やっぱり作品を忠実に再現しているだけではなく、別の要素があるということでしょう。
(ちなみにある視覚障碍者のお話をご紹介したいと思う。その方は、通常、雑誌の記事などは、テキストを音声データに変換して8倍速で聞いているという。いわゆる斜め読みならぬ斜め聞き。一般の人には全く不可能な神業。そしてきちんと読みたい(?)場合は3倍速。さらに小説など、雰囲気を楽しみたい場合は2倍速で聞く。
つまり、音声の送り側が雰囲気を付け加えなくても、聞き手の頭の中で、世界は奔放に作られるということを、オバサマ方に伝えたいのだ。シンプルな朗読などというけれど、テキストから機械的に変換された音声データほどシンプルなものはない。オバサマたちは「本から一歩も出てはいけない」といいながら「視覚障害者への朗読と一緒にするな」ともおっしゃる。なにか勘違いされてはいませんか?)

さて、どうやら厄介なのが最後の「想像力・理解力・音感が足りない人のために」ということ。つまり、本来、優秀な読者ならば黙読していても沸きあがってくるものを、読書力のない方々は感じることが出来ないのだから、それを朗読によって補ってやるのだという理屈。
確かにこれならば「本から一歩も出てはいけない」という戒めを破る事もない。
(とはいえ、読書力のない方々のためだけに朗読があるというのはなんともお客様に失礼な話ではあるが。)
しかし、ならばどうして、同じものを読んでも、読む人によってまったく違うものになるのか。「人それぞれ声が違うのだから当たり前でしょう」というオバサンの御意見が聞こえてきそうではある。この「声」のことは重要なので後で触れるけれど、今ここでそれを持ち出しては今までの論理の展開が全てズレてしまうのでいったん無視させていただくとして、さらに表現力という最も重要な問題をも棚に上げて、さてそうすると、残された要素は、どうやら読み手によって作品に対する理解が違うからこそ音が違ってくるのだとしかいえないのである。(何度でもいうが、オバサマ方が、理解をそのまま表出できるだけの表現力をお持ちであるということを前提とした上での論理的な話である。)
では、そういう「個性」と、「本から一歩も出ていない」という戒律との間に、オバサマ方はどのような整合性をおとりになるおつもりなのだろうか。

どうやら、「作者の意図するところをはずれない」とか、「本から一歩も出ていない」とか「シンプルな朗読」とか、分かりやすそうで実際ちっとも分かりやすくないものを、もっともっと考えて見る必要がありそうである。

趣味で楽しんでいるオバサマたちに喧嘩を売るつもりは全くないのだが、あまりに根の浅いことを、さも分かったように語られる向きもあり、ちょっと冷や水をふりかけてみたくなったのである。他意はない。
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