社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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2008年5月23日のこと

 
今から30年ほど前に書き連ねていたノート。そしてそれから10年後、腎臓ガンに冒され死を覚悟した時に、改めてデータとして残しておきたいと考えたノート。そのノートを、“社長とは呼ばないで”というブログに、埋め草として、2008年5月23日からランダムに公開を始めました。

でも、ランダムとはいっても、アップする順番に全く意味が無かったわけではありません。時には密かに、表のブログでは書けない裏の気分を、「過去のノート」に託していたのです。つまり、旧ブログ記事には二重の日付が付されていました。遠い昔、その文章を書いた日の本来の日付と、過去の記事に気持ちを託した日の日付。

しかし、あくまで「裏」なのだから、露骨であることは避けたいと思いました。だから、「過去のノート」というカテゴリの記事は、第二の日付を付した後、しばらく公開せずに、対応する表のブログと間を置いてアップすることが多かったのです。

このたび、新ブログへと引っ越すにあたり、「過去のノート」は、実際にそれを書いた昔の本来の日付で並べることにしました。これで、表と裏の密かな関連は見えなくなりました。それでいい、それがいいと考えたのです。

けれど……。
ああ、どうやら僕は極めて女々しい男であるらしい。
踏ん切りのつけられない僕は、時々表のブログに(裏を読む)などという思わせぶりなリンクを残すことにしました。よほど暇で物好きな方でない限り、今更わざわざ古い記事を読み返し、(裏を読む)をクリックするような御仁はおいでにならないでしょうから。
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1985年《旅のノート》の続きについて

 
1985年の夏の《旅のノート》を、二風谷の手前まで公開してきて、そこですっかり止まってしまっている。この先をどのように続けようか、ずっと迷っていたのである。

たった一日の二風谷の事を、僕は今でも鮮やかに思い出すことができる。しかし当時の僕は、その日の出来事を具体的に書き記しておくことができなかった。それから四半世紀を隔てて、怪しげなブログなるものでその日のことを書こうとしているわけなのだが、さてどうしよう、当時のノートをそのまま公開するのか、あるいは今も鮮やかに残る記憶を元に、改めて書き綴るほうがいいのか。

アイヌの芝居の初演は翌年の1月、そして夏には、二風谷公演を行うことになる。それまで、さらにはその翌年の87年まで、僕は延々とアイヌについて書き続けている。しかし、その殆どが詰まらぬ観念ばかりで、やはり具体的なことは至極簡単にしか書き残していない。出会った現実を、ことさらにちっぽけなこととして処理してしまおう、それによってそれまでの自分が傷つけられないようにというような、当時の僕の「あり方」が見えてくる。だが、今振り返って考えるに、やはり重要だったのは、僕が実際に経験したひとつひとつの具体的な「現実たち」であったはずなのだ。

もうそろそろ、始めなければならない。
とりあえず、無味乾燥な当時のノートを、そのまま転記してはみるが、記憶の中の現実も、できる限り、書き添えてみようと思う。

沖縄へたどり着くまでには、まだ一年半の時間が必要なのである。

 

1983年以前のノート《統一の意思》のこと

 
1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。

僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。

ただ、捨てずに残したものがあった。

レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。

身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。

大袈裟な話しだ。

ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。

少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。

至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。

分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。

君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。

「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。

その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。

 

《1994年の僕を自己解釈する》

 
生きているうちに〈何か〉を残しておきたいと思った。1994年の春のことである。退院して自宅に戻った僕は、まっすぐに書庫へと向かった。薄暗い三畳ほどの小部屋の、将棋倒しの駒のように危なっかしく並べられた本棚。
「どこかに、昔のノートが収まってあるはずだ」
そして一番奥の錆びたスチール製の本棚から、黄ばんだ大学ノートを見つけ出した。

その日から僕は、そのノートに書きなぐられた一字一字を、遺書を認めるかのようにワープロで打ち始めたのである。毎日毎日、何かにとり憑かれたかのように。
やがて僕は、ワープロの文章の冒頭に「前書き」を付け足してみた。〈子供たちへの手紙、そのプロローグ〉という表題つきの「前書き」。

その時から、もう僕は6年も生き延びたのだが、古いノートを新たな〈ノート〉としてテキストデータに起こす作業は、「死」に捉えられて切迫した気持ちが薄れてしまった今も、何故かやめる事ができずにいる。ただ、今の僕は、この〈ノート〉を「子供たちへの手紙」という呪縛から解放してやろうと考えはじめている。
〈ノート〉から、「子供たちへの手紙」という意味合いがなくなったということではない。未完のものに表題をつけることに嫌気がさしたのだ。

そうなのだ、確かに呪縛から解放されたいのだ。どうやら僕は、少しばかり未来があると勘違いできるほどには回復したということらしい。まだまだ総括するには早すぎる。そして急いでいる。今までにはなかったほどに。

僕は〈子供たちへの手紙のプロローグ〉を一括削除しようと考えたのだ。だが、そういうことなのだろうか、僕が削除したいのは「子供たちへの手紙」という「表題」であって、子供たちに向けて「遺書」を残しておきたいと、六年前の僕が切実に思ったという過去の事実を消したいわけではない。

「今」とは、連続した過去の延長にしかない。[A]から[B]へ。何故[B]に到ったのか、その理由は[A]を削除してしまっては見えなくなる。[B]へと向かうことにした必然性を常に自分に納得させること、それは[A]という〈過去〉を削除してしまってはきっと叶わない。「過去」を知らなければ「今」を理解することなど決して出来ない。急いでいるのに、いや急いでいるからこそ過去を捨ててはならないのだ、と思い込んでいる。

削除しようと考えたのは〈プロローグ〉だけではない。「昔のノート」を新しい〈ノート〉に移行しながら、1994年の僕は居たたまれなくなって、いくつかの〈自己解釈〉を〈ノート〉に付け加えてみたのだが、そんな〈自己解釈〉こそ不要な装飾物だと思った。だから、過去だけを語る死んだ〈自己解釈〉のすべてをいったん消去した。そうして、あらためて「昔のノート」を読み返してみた。すると、1994年の僕は消え去り、そして、「昔のノート」に残された「過古」も、ひどく朧であった。

結局、〈自己解釈〉も、〈プロローグ〉と同様に削除しないことに決めた。だがそれは、〈自己解釈〉が「過去の自分」を正しく説明しているからではない。「今」と「未来」が「過去」によって補完されているように、「過去(過古)」もまた、より新しい「過去」によって彩られているものなのだということに気づいたからだ。それは、時代の権力者が歴史の真実を都合よく書き変えてしまうというような話しとは全く無関係な、「過去」と「未来」の区別が無意味となった彼岸の、時間の概念を空間に取り込んだ「想念の森」のことなのである。
(2000/3/24)
 

《1984年の僕を自己解釈する:2》

 
愛する子供たちへ
ずっと父さんは穴ぼこに落ち込んでいました。
毎日、お芝居という仕事はしていたけれど、現実は夢のようでした。
ただただ書物とだけ交渉をもち、自分の心の中だけを覗いて過ごしていました。
もちろん好き好んでそうしていたわけではありません。そんな自分に嫌気がさしてもいました。早く穴ぼこから抜け出したかった。そのためにこそ書物が必要だとも思っていたのです。しかし読めば読むほど、蟻地獄のように逆にその穴ぼこに捕らえられてゆきました。
そんな父さんを救ってくれたのが「おきなわ」なのです。

このノートは、父さんがどうやって「おきなわ」に導かれて穴ぼこから出て行ったかの記録でもあります。読んで、君たちはどう思うのだろう。「おきなわ」を知ってもなお、グルグルと迷い続ける父さんについて、でも弁解するつもりはない。ただ父さんは、きっと心から感謝していたのです。
(1994/6/11)
 

《1984年の僕を自己解釈する》

 
何かの〈きっかけ〉があって〈傍観者〉になったのではない。だいたいが〈傍観者〉になったのかどうか、それが定かでないし、それまで〈傍観者〉でなかったのかというと、それもよくわからない。つまり、何が変わったというわけではないのだ。きっと、〈傍観者〉という〈言葉〉をどこからか拾ってきて、いいもの見つけたとばかりに、都合よく使い始めただけのことなのだ。確かに、直截的に語ろうとすると、いらつく現実が〈谷底〉にはたくさんあったから、〈傍観者〉というレッテルを自らに貼りつけて、〈山のてっぺん〉で蟄居した振りをして、読書三昧の生活を正当化することができれば、すこぶる楽だったに違いない。少なくとも表面的には。

 

《1983年の僕を自己解釈する:6》

 
「愛について、決して急がぬ事。」
そうではない。どんなに急ごうにも、どうにも急げなかった。僕を取り巻く世界の、どこを凝視しても、「愛」など、存在してはいなかった。
お前は、急ぐべきだったのだ。こうなる前に。
(1994/5/28)
 

《1983年の僕を自己解釈する:5》

 
もはや〈本郷〉にも学生運動など無く、ましてや〈駒場〉の近くの高校に〈政治的〉な何かがあろうはずもなかった。ただ民青の残党がどぶ鼠のように活動しているだけ、だが、というより、だからこそ、《サークル》のような〈甘ったるい〉ものじゃなく、〈尖った〉《徒党》を組まねばならぬと思った。しかし挫折した。僕らの〈主張〉に「君たちの言う事はよく分かるが、受験が近いからね」と答える連中、こいつらに〈過激な〉政治的言葉など無力だと思った。だが、〈主張〉などあったのだろうか。「僕らのやるべき事は政治ではない」と僕は言った。挫折したからそう言ったのではない。こんなこと、はじめからわかっていたはずだ、と僕は思っていた。
(1994/5/28)

 

《1983年の僕を自己解釈する:4》

 
「愛」など、どこにも無かった。だから、「苦しさ」の感覚だけが辛うじて僕の「精神」を「肉体」につなぎ止めていたものだった。その「苦しさ-肉体」を媒介として、「風景-外界」と交信し得る可能性が僕にもあった。しかし、「苦しさ」までも手放してしまった僕は、外部との通路を、完全に失ったのである。僕はそれに気づいていたのか。いや、そうではない。「愛」や「苦しさ」以外にも、世界と交渉する手段はいくらでもあるのだという事を、僕は知っていたのか。きっと気づこうとせず、知ろうとせず、甘えていたのではなかったか。
 

《1983年の僕を自己解釈する:3》

 
考えれば考えるほど苦しくなった。問題は、ユートピアの無い事ではなく、どうやってこの苦しみから逃れるかということだった。
「もはや普遍的な真理などどうでもよい、僕は、僕自身が救われることのみを切実に望んでいる。そして、もしかすると、あらゆる哲人が求めていたものも、結局のところ、自らの救済でしかなかったのではないのか」
思索の森へ続く道は、迷宮の入り口に思えた。しかし、辛うじて生きて歩ける道らしきものも、そこ以外には見つからなかった。

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