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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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曖昧な日もある、という話

 
例えば政治家は「国益」とか言う。国家を守るためにと。ただそんな施政者たちの尤もらしい言葉を、革新的な運動家たちは信じていない。実はそれこそが問題なのだ。いったんともかく信じてみればいいのにと思うのだが、ともかく政治家は、確かに国のためという理由でもって国家の構成員たちを壊していく。どうやらそのことは事実らしい。その中で、いまだ壊されていない者たちは、だから自分たちを壊そうとする国家に対して決然と闘いを挑み、その国家を崩壊させて新たな国家を構築しようとするのである。一方、すでに壊されてしまった人間たちは、もはや国家を壊すどころか、国家に立ち向かう力すら失っている。一番問題なのは、当のその壊れた人間たちが、そのことに気が付いていないということなのである。
さて、この文脈で、沖縄の独立を考えてみるとどうなるのか…

と、ここまで書いて、ひどくつまらなくなった。なぜつまらなくなったのか、つまらなくなった理由がつまらない場合、このままつまらなくなったことを続けているとろくなことにならないので、その時はつまらないことを考えるのをやめるに限るのである。

唐突だが…
Lisaは、国家は土地だと思うの、などと言い出す。当たり前のようだが、考えるとよくわからなかったりする。もしも本当に国家が土地ならば、この土地に新たな国を構築するとはいかなることなのか。これはきっと、罠だ。なんというか、ホントは罠ではないのに、それを罠だと思い込んでみると、俄然つまらないことが面白くなったりする。だから罠なのだが、その時は「革新的な運動家」のように視野狭窄に陥って、それでなかなか落ち着いているのだ。

つまり、そういう日もある、という話。

京都を襲った大地震、平家の怨霊の所為しなければ、民は何をしでかすかわからない危険な状態だった。そもそも、地霊を鎮めるというのが仕事だった琵琶法師に、平家の怨霊をこそ鎮めて乱れた民の心を整えるという役割を与えた源氏という「時の政府」。連想ゲームの始まりである。現代に連なる農業の話。
「農業は環境破壊さ」
土地に鍬を入れることは土地を傷つけることに他ならない。
「スローライフ? 笑わせちゃあいけない」
豊作を祝う歌は豊作を願う歌なのであり、その、いわば過去と未来の逆転は、Lisaが持ちこんだ「未来へのノスタルジー」に似ていると思えばなかなか面白い。
「これ、中沢新一風に言うならば、類化性能ってやつだ、きっと」
だいたい小さな悪いことを積み重ねて国家を守ろうとするのは別化性能だけで生きているつまらない連中で、そんな彼らは類化性能の効能というものを全く理解することができない。でもさ、でっかい悪さをするのは、類化性能人間なのだよ。
連想は、さらに原始共産制とベーシックインカムへ。

でも、昨夜はそこまで話すことはなかったのだ。
しかし、罠の彼方にある小宇宙の連なりが、このボクには確かに見えていたのである。狐火のように。

さてLisaは、本当に狐なのかどうか。
彼女の「日本」は曖昧。だが、その曖昧こそが、この小宇宙へ足を踏み入れることを容易にするかもしれない。だから、ちょいと彼女を、僕自身が抱えている闇へと、しばらく巻き込んでみたくなったのである。

だからさ
そんな日もあった
という話
 

個人的な理由

 
暮れの、一度きりの不摂生。元日から目眩と頭痛が治まらず、声も掠れて出やしない。昔は毎晩午前様、朝から移動して、仕込んで2ステージ、バラして宿で遅い飯を食い、それからまた飲みに出る、それを何日続けても、声だけは健在だったのに。

何故か、3.11の年にあったことを、あれこれ思い浮かべている。
家族のこと。つまりそれは、身勝手で個人的なこと。

寝ていると増々具合が悪くなる。
だから這ってでも事務所へ行くのである。仕事があるからではない。何度でも言う。寝ていると具合が悪くなるから。身勝手な、個人的な理由。
 

上滑りした慣習

 
朝から酷い目眩。
PCのトラブル。

久しぶりに自宅に帰って蕎麦を食うのだが、もう何年も前から、暮れと正月を結ぶ上滑りした慣習にイラつくようになった。
(目眩が習慣になる? 勘弁してくれ…)

すっかり年が明けるまで、どこかに身を隠していたい。
 

どっちが性に合っているかなんてどうでもいいこと

 
ツイッターとやらの話。

呟きたいことは呟いてはいけないらしい。それでもやっぱりなんとかして呟きたくて、謎めいた文章を捻くり出して、敢えてタイミングを外して投稿してみる。それでも、というか、それだからというか、思わぬところで
「俺のことか?」
みたいな、訝しげな反応が起こる。たいがいそれだけ、問いただしてくる者がいるわけもなく。問われなければ、否定することもできないわけで、放っておくしかない。
でもこれこそ文学的普遍性の源なのである。つまり、ペテン。

リアルな知り合いのフォロワーは、黙って去っていく。

フェイスブックとやらの方は、そのまま何もなかったかのように繋がったママ。いったいどっちの方が性に合っているのかなんて、どうでもいいことを考えている。
 

傾いた隊列の行進

 
ふた月ほど前のこと…
「知らず知らずスケープゴードが作られてしまう」
そんな話をしてみたのだが。

弁護するつもりはない。しかし小さな町、もう致命傷かもしれない。どうしてこんなことになったのか、どれもこれも憶測に過ぎないが、貧して鈍したのが発端に違いないと、僕はそう思っていた。

心から思う。切実に思う。
「子供には罪はない」
昔なら親は親、子は子、助けてくれるおせっかいがいた。しかし、今やそれは悪でさえあるらしい。親がダメだとその子供まで虐められるのか。子供たちに差し伸べる手などどこにもなく、陰からはいくつもの光った目が、ジッとこちらを伺っている。卑猥なヒソヒソ話。

当たり前と言う貴方たちは、ひたすらに悲しくないのかと問うてみるのだが。

子供たちとはとことん仲良くすると俺は言う。すると鬼になれと叱る「良心」とやら。
鬼というものを取り違えている…そう思ったが、黙っていた。

この小さな町の正しさは、目を覆うばかりの明るい正しさ。

それから積み重なっての今日。
みんなに嫌われているんだよ、ね、と、数少ない友だちが言う。
「なんで」
「貧乏だから」
それを黙って曇った表情が聞いている。虚ろが襲って来る。
「関係ないのに、かわいそうだよ」
子供たちの世界はひたすらに惨く。

種を撒いたのは大人。自分の子供たちの前で、その芽に水を遣るたくさんの親が、コクトーの子供たちを育てていく。
このおぞましく傾いた道徳は、あの狂った宰相と無関係ではないと、俺は確信している。傾いた隊列の行進。兵士のだれもがその傾きに気づかない。自分が兵士であることすら忘れてしまったくるみ割り人形たち。

insanus!
murderous ásetningi

俺はといえば、堆く積まれたラテン語で書かれた古書のある部屋から、子供たちを置き去りにしたその光景を、強烈な目眩とともに眺めていた。
 

「書斎で怒鳴ること」

 
表の夜から言葉を強奪して来る。

考え方を同じくする人にしか通じない言葉を、敵地で闇雲に叫んでも、本当に聞いて欲しい人には届かない。だからこそ右でも左でも、思慮深い人は悩み、対話できる言葉を探す。しかしきっと、時には怒鳴らなければならない。そして礫を投げつけられるのだ。例えば、梨の礫を。

そうして「対話」というやつを求めて、去年の暮あたりから僕は「いい人」になってみた。

デジタルマンモグラフィーとやらで調べられたら、癌のひとつやふたつ見つかるに違いない。断固そんな気がしている。問題はそいつらが暴れだすかどうかなのだと。といって、笑っていたって何の効果もなく、どうやら神様はサイコロを振るのである。そんな神など、人にとって木偶である。僕は天に向かって唾を吐く。
原発は、不要である。

天に向かって吐いた唾が神に届くわけもなく、降ってきた礫に、僕はしたたかやられているらしい。だから仕方がなくて、深夜、無性に怒鳴っている。「いいね!」とは何のことだ? いったい何処がいいというのか!!…と。

さあ、もう詮無いことは放りだして、眠れぬ夜を眠るのだ…
 

「不在」のありか

 
母親も弟も、抗うつ剤を飲んでいた。今も飲んでいるのだろうか、知らないし興味もない。
朝方ふと、ひどく沈んでいる自分に出会う。違う違うと無理に口角を上げてみたり、再び目を閉じてそのまま夢の名残に身を任せてみたり、数十年間、何とか書くことで踏みとどまってきた。それなのにどうしたことだろう、今朝の僕は、眠りと覚醒の狭間で、「何か」の不在に脅かされている。その「何か」を、あれほど恐れていたのに。

起きて数分も立てば、FBとやらでイベントに招待する「友達」を選択し、「送信」ボタンをクリックしている。反応のないことを知りつつ、僕はそうしたある意味で絶望的なことどもに平然としていられるほど無神経な男に変貌してしまったらしいのだ。一歩踏み出せば、そこには新しいたくさんの顔が見える。だが振り返れば、置き去りにした僕自身の思いと、大切であったはずの人たちの後姿と、あの「何か」。かの「何か」を、今一度確認するために、僕はまた書き始める。
 

具体を欠けば甘美である

 
何万人もフォロワーとやらを引き連れている素性の分からない人が、こんなことを呟いていた。

「夏目漱石や中島敦好きな男は兎に角理屈っぽくて面倒臭い。谷崎好きな男は性癖が面倒臭い。太宰や安吾好きな男は何かと女々しくて面倒臭い。芥川好きな男はメンヘラで面倒臭い。川端康成好きな男は本物の変態で面倒臭い。三島やブコウスキー系好きな男はナルシストで面倒臭い。結果、全ての男は面倒臭い」

深夜、日が変わるころである。沖縄や福島のことで、頭が煮詰まっていたので、なんだかこの浮世離れした考察が、懐かしく、かつそして新鮮だったので、ちょっと遊んでみる気になった。

「夏目漱石・谷崎潤一郎・太宰治・坂口安吾・芥川龍之介・川端康成・三島由紀夫・・みんな読んでいます。加えて大江健三郎、埴谷雄高・・、なるほど、ようやく何故自分で自分が理解しがたいのか、それだけは理解できました」

数万人からフォローされているその得体のしれない人から、何の反応もあるわけもなく、でも数千人にフォローされている人が反応した。
「豊かな読書体験で培われた、多面的な魅力!とアピール可能ですね」

何処のどなたかは存じ上げぬが、そういわれれば、こちらもお答えするのがSNSとやらの礼儀だろう。

「いえ、めんどくささの極みであります。他人様に言わせると、小生と付き合うのは三日が限度らしい」

めんどくさいやつだと思われたのか、それで終わりである。
こんなやりとり、捨ててしまっていっこうに構わないのだが、あの頃の思考が、いかに具体を欠いていたか、だからこそどこか甘美であったということを、せめて曼荼羅には刻んでおこうと思った。
まさに、めんどくさいはなしなのである。
 

象徴でないのであるのなら…

 
ツイッターの、表にはふさわしくない言葉を消し去り、少しづつ裏へと強奪してくる。

「僕はTV版の方が好きだった、と言えない空気」
表の、昨日のブログから、この呟きを抹殺した。

今日もまた呟きたくなったのを、なんとかこらえて沈殿させ、なお残ったウワズミを、今この深夜の密室で語ろうとしている。

監督が、というのが少し憚られて、彼女が、登場する人たちを「主演男優」と称して燥いでいる。その文言と、それに添えられた画像の違和感。違和感といえば、ナレーションが僕には全くダメであった。前は気にならなかったのに、それがひどく鼻についた。

「沖縄の、男の俳優に代えて録音し直せばよかったのに…」
「わかるわかる」

そんなふうに同意もあったが、みんな大人だから、誰も公言などするはずもなく、大人になりきれぬ天邪鬼だけがこうして時間を費やしている。

同じ感覚が、あの“抵抗の唄”の場面でもやってきた。番組という枠に押し込められていた時は、怒りを共感し、涙も溢れたのだが、何故か劇場の椅子の僕は腹立たしささえ覚え、そして自分でも驚くほどすっかり醒めていったのだ。
「大和の女性」…、それも感性豊かな、と、後で括ってみた。素朴を敬愛するが、凡庸なら見向きもしないという感性に、散在する苦悩は見えないだろうと食ってかかる妄想を育ててみた。

根拠のない予感があった。根拠のない、ということは、僕の審美眼こそがきっと怪しいのである。
しかし、芸術作品を見せられたわけではあるまい。ならば、僕の予感の根っこが、「傑作」と評されだした「作品」と無関係だから、と、無視するわけもいくまいし、せめて裏でこっそり語るくらいは許されていいだろうと、僕は咎められる前に言い訳を準備した。

「主演」ばかりではなく、会場には次々と、いまが旬のゲストがやってくるというニュース。「なんと!」という小見出し。いったい彼にどんな関係があるのだろう、いったいどこまで燥げば気が済むのだろう…
まだまだ尽きぬといちいち事例を論おうかとも思ったのだが。

「言い訳」は、言い訳と言わせぬための方便。

かの土地が仮に心正しき感性豊かな自由人たちにとっての象徴なのだとして、僕にとっても同様であるなら、ふと彼女が漏らしたように、僕もまた、あの場所へ二度と足を運びはしないだろう。
しかしながら僕には象徴などではなく、そうであってはならないのだから、できることなら知った人に誰にも会わず、機会を作って一日でも二日でも、ひっそり座りに行こうと決めているのである。

他に見つめるべき場所がないならば、という条件付で。

そのうちに、数年の時を遡って、もう少しはっきりと書くつもりでいる。
 

ここは大切な場所だから…

 
3.11以来、表のブログでも無遠慮に書き綴るようになった。だが、だんだんと知られるようになってくると、なかなか語れないことも増えてくる。

しばらく置き去りにしていたが、ここはボクのノートを認める大切な場所である。

また少し、向き合ってみようかと思い始めた。
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