社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

スポンサーサイト

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

何が表で何が裏なのか。

 
会社でCDを作って売ったり、公演をプロデュースするようになってから、ハッタリかまさざるを得なくなった。ハッタリのメッキはアッという間に剥がれるが、剥がれるまでのちょっとのスキに、きちんとこちらをあちらに見せられるかが勝負である。詰まらない。しかし悪いのはどっちなのか、定かでない。

ハッタリが効かない方が多くて困る。ハッタリは諸刃の剣で、失敗すると取り返しがつかない。しかし信頼ある看板の力は絶大。つまり、ハッタリにもどんな看板にも関係なく相手が見れる人は、場末の飲み屋以外では滅多に出会わない。さてそういう僕はと振り返る癖がついてから、どうも寝つきが悪い。

昨夜呟いた呟き。真意は、結局呟いた僕自身にしか分からないのであって、そんなものを表のブログにイケシャアシャアと並べておく必要もないだろう。ただただ俺は、10年も前の俺なら江古田まで出向いて行くことなんぞ決してしなかっただろうし、ましてやそこでハッタリかましたりなんて絶対にしなかったはずだということを、主張しておきたかったらしいのだ。

日が変わって、俺は自分が納得する理由をでっち上げたのである。

見慣れた風景の中で山菜採りのために散策する趣味はない。この場所に立ち続け、目を凝らし耳を澄ましている。突如見切ったと歓喜する。
「あの、これ、落としましたよ」
「いえ、捨てたのです」
明朝、新しい画像を3枚、FBに投稿してみることにして、やっと眠れそうになった。

その3枚の画像はすべてハッタリ。3.11直後のNHKを語ってくれた若き女性と、福島に行ったという証拠写真と、そしてかの先輩とのツーショット。

ツイッターなんてものを始めて、その「呟き」とやらをブログで拾っているうちに、表と裏の区別がつかなくなった。さらにそこにFBが加わったりして、こうなると、今まで表だと思っていたものが実は裏なのかもしれないという気までしてきた。

つまらないことを書いた。弁解ばかり。こんなもの、裏でも何でもない。
スポンサーサイト
 

20年来の夏の記憶が消えるときを待つ

 
誰もいない事務所で、熊のように当てなく、蝸牛のように愚鈍に、僕は裸足で歩き回っている。外はひんやりとしてるが、10月だというのに、このガランとした室内は、暑すぎた昨日までの熱気から、いまだ解放されずにいるのである。

無駄な熱も熱に変わりなく、冷ますにしろ保つにしろ、自分で決断するしかないのだと、僕は絶望的に裸足で歩き回っている。

ふと、足の裏が汚れている。足を洗いたいと切実に思う。だが、流しの高さまで足を持ち上げる柔軟性に欠け、だからせめて頭を洗おうと思いたつ。身体を前屈みにする柔らかさなら、まで失ってはいない。そう思うと、もう足の汚れのことなど忘れてしまった。

この汗ばんだ不快な感触から逃れたい。
まもなく、屋外の冷気がこの部屋の空間を侵食してしまう。そうなれば、汗をかく能力がこの僕にも備わっていたという曖昧な記憶も、きっと跡形なく頭蓋骨から消え失せるだろう。

それまでの、もう少しの辛抱である。
 

僕は青年の如く揺れている

 
昨日から、ずっと考えている。

もう30年も世話になっている劇作家が、芸術大賞を取った時のことである。なぜお上から賞なんか貰うのかとその劇作家に詰め寄った照明家がいた。彼はその芝居の、差別される者たちへの眼差しに、深く共鳴していた。劇作家と照明家は、60年台・70年台演劇の同志であったはずだった。この時、劇作家は照明家の詰問に答えて何を語ったのか。

問題は僕自身のことである。

この度、僕が参加している、というより我が社がプロデュースしているユニットの作品が、某役所から推薦を受けた。その知らせが届いた時、僕は会社の相方と、つまり制作担当と心から喜びを分かち合った。その、僕らしくない喜びの大きさを、たぶんユニットの他の音楽家や役者たちは理解しないだろう。今まで「作品」を売るために、ちっぽけな会社がどのようなことをしてきたか、彼らにはさほど多くを話してはいないし、ましてどれだけ挫折し、苦しんできたのかについては、殆ど伝えては来なかったのだから。

とはいうものの、お上から推薦を受けたからといって、何か特別なことがあるわけでもない。政権交代で事業仕分けされる前なら、役所が数週間の地方公演のお膳立てをしてくれたようだが、それがなくなってしまって、と、審査員から申し訳なさそうに言われたことがある。ご褒美と言えば、ただ今後チラシに、その旨を、つまり某お役所からおすみつけを頂いた作品である旨を掲載できるというだけのことである。

それでも僕らは、制作として、とても嬉しかったのである。

しかし僕は、表現者としての僕は、この喜びを素直に吐露することを躊躇している。審査して貰う事をこちらから所轄の役所に申請しておきながら、こんなことを言う勝手は重々承知している。そんな迷いを口走る僕に向かって、審査員に失礼だなどと言い出すメンバーもいる。そんなプロデューサーの発言が当該お役所に知れれば、いったいどんなことになるか、制作として、そうなることは当然ながら全くもって本位ではない。

しかしである。諸々現実を理解してもなお僕は今、僕が何故芝居を始め、それを職業に選び、そしてここまで続けてきたのか、そのことをあらためて考えているのである。

劇作家は照明家の詰問に答えて何を語ったのか。
いや問題は、僕自身のことである。
とてつもないことが進行しているこの日本において、僕は、青年の如く揺れている。
 

そんなこと、誰もしらない

 
宮台真司によると、風俗産業の労働分配率は、非合法風俗も含めて六割を越えるらしい。だから彼は、風俗は最も収奪の少ない仕事だという。そんな職種は他にはないと。

労働分配率とは、粗利を人件費で割ったものである。粗利とは売上から材料費と外注費を引いたもの。つまり労働分配率とは、粗利に対する給料の比率ってこと。この「給料」の中に、給与扱いのパートさんの分も含まれるのか、たぶん含まれるのだろう。

さて、きっと正社員ではない風俗産業の女の子たちは、パートなのか外注なのか。もし「風俗の女性」に支払われるお金が外注費だったら、宮台真司の論はまったく意味をなさない。社会学者の話には、概してこういう穴がある。

そんな話がしたかったわけではない。

ふと、うちの会社はどうだったんだろうと考えたのだ。殆ど外注さんだったから、外注費を引いた後の粗利で計算する労働分配率では、うちのような会社の実態は見えない。きっと外注さんが知りたいのは、外注費を含む人件費が、受注額から人件費以外の経費を引いた残り、つまり粗利のうち、どれだけが社長以外の社員と外注さんに払われていたのかということなんだろう。

時期によって変動があるが、おおよそ八割五分といったところ。残りの一割五分が僕の報酬。その数字を、彼らはどう感じるのか。そりゃあ貰い過ぎだろうということにきっとなるのだろう。

会社立ち上げの際、「代表取締役の報酬」を決めるのには相当に悩んだ。
そんなこと、誰も知らない。

一割五分のこの金額でどうだろうと、相談した税理士さんの答え。
「小さな会社の社長は、いざという時に使えるお金を、社長の報酬に含めておくべきであって、それを考えると、これではまだまだ少な過ぎると思いますが、そこは考え方なので…」
だが、社長の報酬を上げるためには外注さんへの支払いを会社立ち上げ以前の額より下げなければならない。それはしたくないから、僕はそのままにした。リスク管理の出来ない経営者、本当は社長失格なのである。
そんなこと、誰も知らない。

今、「蓄え」で食いつないでいる。「蓄え」とは、個人的な貯金の全てのこと。そしてそれで何とか会社を存続させている。しかし、このまま活路が見出せなければ2年持ちこたえる事ができるかどうか。

花に寄ってきていた虫たちは大方去った。果たして、この事務所に再び花咲くことがあるのかどうか、それともやはり、朽ち果てる運命なのだろうか。
そんなこと、去った者たちは、もう誰も興味を持たない。
 

社長など辞めた方がいい

 
一年前にmixiとやらに書いた日記。

「なんとなく踏ん切りがついた。
閉ざされた世界に大切な言葉を置き去りにはしないと心に決めた」

しかし、語ってはならないこともある。
それがここまで増えてくると、やっぱり社長など、辞めた方がいい。
 

閉鎖市場と言われて怒るタイプ

 
表のブログに書いたこと。

南の、100万人の
閉鎖市場。

要するに、全く違う文化圏なのである。沖縄でたくさんの沖縄本が出版されるのは、本が売れるからではない。別の原動力がある。
商売のはなし。つまり、沖縄本を出したって、儲かることなどまずないということ。百花繚乱の沖縄本であるが、利益を出すほど売れる本など、殆ど存在しないのである。

全く違う文化圏。その共通理解がまずあれば、諸々複雑な問題も、相当話しやすくなるはずなのだ。沖縄も、新潟も広島も、北海道も、それぞれ地域性が異なる事は、どこも同じでしょ、などとおっしゃる方々と、まず交わさなければならない頓珍漢な議論は、できれば省略したい。

簡単にまとめるなというかもしれない。だが簡単にまとめてなどいない。複雑な現実は、表のブログを丹念に読んでもらえれば、嫌というほど書いているつもりだ。
そして、もっと複雑なことは、この「社長とは呼ばないで」で吐露している。つまり、実は「沖縄は全く違う文化圏だ」と言い切ることもまた、現実の各局面においては左程簡単なことではないのだ。

「つまりね。様々なシチュエーションにおいて、違うと言われて喜ぶタイプと腹を立てるタイプがいるということ。」
「なんだい、その程度の複雑さか」
「だからさ、今日は商売に限ってのはなししかしていない」

僕は、自分のことを「~なタイプ」と分析する女性が大嫌いなタイプの男性です。
 

本当に書きたかったこと

 
本当に書きたかったことは別にある。会社の看板を背負わされた告知板に、オキナワのBURAKUのことを書くなど、できることではない。
ならば最後まで書かなければいい。“社長とは呼ばないで”などという卑怯な逃げ道を作って、敢えて一年も遅らせてそれを世界に向けて発信するようなゴマカシを、「関係各位」はどう思うか。

気にしてはいない。それよりも何よりも、先が見えてきた自分の人生の隙間を、きちんと埋めておきたいと思うのみである。それによって笑顔だった何人もの知人が、しかめ面して僕から去っていくことになるのだとしても、まったくかまわないと覚悟している。そして、去った人間は、その程度のものだったのだと、僕は傲慢に言い放つだろう。

「人類館事件」を正しく理解する? 
そういうお前は、きっと何も理解していない。そんなちっぽけなことはどうでもいいのだ。本当に言いたいことに較べれば、「人類館事件」の別の側面など、あったとしても塵芥である。

本当のことを聞かされても、お前たちはなお、民族のアイデンティティなどという魔物を振りかざして、永遠の憎しみの種を蒔こうとするのか。お前たちは、お前たちが最も憎む敵と、同じ罪を抱えた腹違いの兄弟なのである。お前たちが読んでいる歴史書に何が書かれているのだとしても。
勘違いしてはいけない。僕は憎しみの話をしてはいない。ただ、子を失った母の感情が唯一絶対であるなどとは、決して言いたくないのである。
ただの県民の利害の違い、誰にも転居の自由がある、そう主張する能天気な者達のほうに、はるかに親近感を覚えるのだが、そういう彼らが日の丸を打ち振るう熱狂を目の当たりにすると、人間とはかくも絶望的な生命体なのだと頭を垂れる。

お前たちには、この僕を殺す権利がある。そして、人間とは、絶望の異名であって、殺された僕の屍を閉じ込めた檻を、僕は新人類館と呼ぶのである。
 

怠惰な良心

 
玉泉洞は、1967年、愛媛大学の調査によってその奥部が明らかになった。つまり、あの戦争において、壕として使われた悲惨な歴史はないのだと聞いたことがある。変だな。「奥部」?「つまり」? どうも論理的に繋がらない。
真偽は、つまり、分からない。

「あの会社は悪い会社です」……

おい、コメントはそれだけかい。

たとえどんなにもっともなワケがあろうとも、俺は君にそのワケを聞くことは金輪際しないだろう。もはや、いい会社か悪い会社かの問題ではない。君から公平な情報が得られるとはどうしても思えなくなった。
たくさんの雇用を生み出している。君が逃げ出した場所では、君の友達がいまだに働いている。そして、どこよりも活気に満ちている……。

それが一面でしかないということはよく分かっている。だが、それが一面の真実であることも確かなのだ。会社に、100%いい会社など、あるわけはないのである。

永続的に利益を生み出す責任を追った者たちに、地獄行きの判決を下した13人の陪審員の中には、数人の怠惰な良心も加わっていた。
 

便宜上の境界を越える螺旋階段

 
言うべきことは言う。99人の馴れ合いが、どれほど無垢なものであろうとも、断固として最期の一人になる、表現者であるなら至極当たり前であると思われるこのことが、実際の場では全く不可能事となる。その現実もやっぱり当たり前だというのだからやりきれない。
そもそも表現者として言うべきこととはいったい何なのか。何をもって「べき」などと言えるのか。僕のこれほどまでの腹立たしさくを分析してみれば、その「何をもって」という根本の自覚なしに、浅薄な思索で、あたかも「べき」であるかのように偉そうに論じる者どもに対して、物申す「べき」だといきり立っているということらしいのだ。
宙に浮いた螺旋階段を昇り降りしているうちに、はじめの軽い眩暈も、いつしか僕を頭上の雲へ叩き落すに十分な幻覚を生むに違いない。それがわかっているのに、眼前の小生意気な鼠どもを、完膚なきまでに叩き潰さなければ、どうにも腹の虫が収まらない。この生来の性質を押さえ込むためには、分裂するという処世術が必要なのだと思い始めたのはいつの頃だったろうか。それでもやはり腹の虫のざわめきはいっこうにおさまらない。

そう書いてからもう4ヶ月も経ってしまった。要するにこの文章は9月に書き加えているペテン。それから、さまざまな局面で同じ思いが沸き起こる。少しあほらしくなって熱が冷めた。だから、書きかけの文句はこのままほったらかしておく。そして今の本当の思いは、4ヶ月後の日付で書く。

かまうものか。これは日本版の“大説『南』”なのだ。暗い書斎の万年床に膝を抱えて座り込み、じっと目を閉じて、ひたすらに時の流れを眺めている。すると、間断なく続く耳鳴りは、未来から過去へ、一瞬間一瞬間に大量の時間が、ひとつの便宜上の境界を静かに静かに越えていこうとする響きであったことに気づくのだ。
もはや何が先で、どちらが北なのか、それにどんな意味があるというのか。君は僕なのか。俺がお前なのか。読むものの目を眩ませて、その耳に幻聴を与えることができれば、きっとそれだけが、今の望みなのだと信じることさえできたなら、腹の虫を親指の腹で押しつぶし、緑の体液が、伸ばした爪に飛び散った……。

もっともっと乱れた言葉をならべなければならないのに、50年間堆積した詰まらぬルールが、それを妨げている。

「わからない」

そういうお前は切って捨てる。俺の人生は、きっと刹那ほどには長くはないのだ。お前の時間という概念に付き合っている寛容さは、俺にはない。愛してくれる必要はない。理解も不要だ。ただ理解しようとしてくれるだけで十分なのだが、愛がなければ理解などありえないという至極当たり前という名の螺旋階段。
 

裏の小部屋から眺めるしかない

 
昔のはなし。

いいモノだと信じる商品しか売ることのできない誠実で正直者な営業マンと、商品の良し悪しなど関係なく、ただ営業の力だけで売り切ってしまう優秀敏腕な営業マン、いったいどっちが正しいのだろう。そんな問いに出会って悩んでいるスタッフに、全く思い及ぶことのない無関係な関係者たち。

「嘘をつかなければならないような商品を扱わないこと」
簡単に言うな。最大級の言葉を冠せられて恥じ入ることのないような商品が、いったいどれほどあるというのか。お前の周りには、どうやらそんなものがゴロゴロと転がっていると勘違いしているらしいが。

「いいところがあればそれを伝えればよい。後はどう伝えるか、どこに向けて売るかという戦略の問題。」
裏を隠して表だけ語ることは嘘ではないのか。悪い評判も全て公開していますというふうに見せかける戦略。買う方もそんなことはお見通し、といいながら、結局やっぱり無意識に操作されている。
おいお前、せめて俺と話をする時ぐらいは、携帯電話とやらの電源を切ってみたらどうなんだ。

まだ未熟ではあるのだが。こんな問題があるのだが。
「それを喧伝することは、作者に失礼。敬意を持つべきだ。」
お前は何者なのか。俺に敬意を持てなんて偉そうなことは口が裂けても言わないが、自ら発した他者に対する浅くて不寛容な批判の方はすっかり忘れちまって、自分がどれほど無礼な言葉を口にしたかには気づかない、そういう者と交わす言葉を、残念ながら俺は持ち合わせていないのだ。

いいと思う人がいることも理解はできる。だが、俺はちっとも魅力を感じない。
「あなたが買うわけではない」
では、お前が買うとでも言うのか。笑止である。

もし売れなければ、俺が全てを買い取らなくてはならないのだ。そのことがどういうことなのか、無責任な者たちは、一切分かろうとはしない。
「それはあなたが選んだこと」
決定的に他人である者とは話ができない、それは俺の最悪な欠点の一つ、そんなことはよく分かっている。だが、それも「表」。

かつての友であった思い出たちが、それぞれの薄笑いを浮かべて、隊列を組んで去っていく。俺は、それを「裏」の小部屋から、ただ、ひたすら黙って眺めていたことがあった。そうするしか術がなかったから。

昔の、はなし。
プロフィール

urashachoo

Author:urashachoo
FC2ブログへようこそ!





ツリータグリスト

カレンダー
07 | 2017/03 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。