社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

スポンサーサイト

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

《1983年7月23日のノート》

 
 東京。熱帯夜……。
 苦しくて、自分の無能さに愕然として、それで〈自分〉で哲学することは放棄して、〈他人〉の出来合いの哲学で、この傷口を塞ごうと、デカルトだ、パスカルだ、ショウペンハウエルだ、しまいにはマルクスだ、何だかんだと、うろついてみた。すると、どういう訳か〈哲学〉はますます遠く逃げ去ってゆく。例えばマルクスは、もっと親しい存在だったはずなのに、今は見知らぬ他人のようだ。僕から〈哲学〉が抜け落ちてゆき、次第に〈哲学〉に対する渇望も薄れてゆく。
〈哲学に携わっていた哲学者〉と〈哲学者に携わっている哲学教授〉、誰かがそんな区別をしていた。

《パスカルの分類》
 民衆
 半可通の学者
 知者(熱を持たぬ知識)
 敬虔の人(知識より熱を多く持つ人)
 そして全きキリスト者……
 
きっと僕は、押し潰されたのだ。
〈偉大な苦悩〉とは、いったいなんのことだろう。それは、もはや全く手の届かぬものとなった。その代償として、僕は僕の小さな苦しさから解放され安息を得た。それをこそ求めていたのだが、同時に、あの何気ない風景への感動も消えてしまった。あらゆるものが、自然さえも、僕と何ら有機的関係を持たず、色を失って、僕の中か、あるいは外にか、抽象として没してゆく。残ったものは、具体的な活字と、この薄汚れた生活だけだ。
 もう、苦しくはない。だが、少しばかり、疲れている。

「旅立ちの前の世界は、彼にとって一個の観念であったが、旅からすでに帰った次郎は、世界を彼の不在で充たしていたのである。」(三島由紀夫「旅の墓碑銘」)
(1983/7/23)
スポンサーサイト
 

《1983年7月22日のノート》

 
パスカル「パンセ」
「人間の誤謬の一番おもしろい原因は、感性と理性の戦いである。」(断章82)
「理性と感性とは争って欺き騙し合う。」(断章84)
「二つの極端。理性を排除すること、理性をしか受け入れぬ事。」(断章253)
「理性の最後の歩みは、理性を超えた事物が限りなくあるということを認めることである。」(断章267)
「理性にとって、理性の否認という事ほどふさわしいものはない。」(断章272)
「理性と情念との間に行われる人間の内部の戦い。
もし人間が情念を持たず理性だけを持っているとしたら……
もし人間が理性を持たず情念だけを持っているとしたら……
しかし人間はいずれをも持っているために、戦わないでいることが出来ない、なぜなら一と戦うことによってしか他と平和を保つことはできないのであるから。それ故人間 は常に分立し、自己に逆らう。」(断章412)
「理性と情念との間のこの内的闘争は、平和を望んだ人々を二派に分けた。一は情念を捨てて神となることを望み、他は理性を捨てて野獣となることを望んだ。しかしいずれも叶わなかった。理性は依然としてとどまり、情念の卑小と不正をとがめ、理性を捨てる人々の憩いをかき乱すのであり、また情念は情念を捨てようと望む人々のうちに依然として活発に存在するのである。」(断章413)
「真に我々を知ることができるのは、理性の傲慢なる活動によってではなく、反って理性の素直な服従によってである。」(断章434)

そこから「愛」への道程。パスカルにとってはたった一歩の距離でも、信仰に縁なき者には隠されている道。
パスカルは「神を知るがゆえに心から神につかえる人々」と「神を知らぬがゆえに神を捜し求める人々」(断章194)について語ったが、「神を知らぬ人」が「神を捜し求める」ようになるまでの道程は明らかではない。
きっと、そうではない。隠れているのは、道ではなく、別の顔を持つ無数の「神」なのではないか。
その神は、君たちの、すぐ隣にいる。

(断章233)「賭け」について。
(断章460)三つの秩序「身体」「精神」そして「意志」。
(断章475)固有の意志とその幸福について。
(断章793)三つの秩序「身体」「精神」そして「愛」。
(1983/7/22)
 

《1983年7月21日のノート》

 
ボールを追いかけて遊んでいる子供たちと、どれほどの違いがあるのか。苦しさに託けてはいるが、結局ゲームに過ぎないのではないか。
鏡に移った僕の顔に、軽蔑すべき自分の姿が何重にも重なって、僕のたった今の表情を掻き消してしまう。
組立てられた稚拙な論理は、苦悩を閉じこめるためにあるどころか、実は見慣れた感情の屁理屈に過ぎない。
そして子供のたわいない遊びが、至上の価値あるものに見えてくる。
それでも、僕はこのゲームから逃れられない。
(1983/7/21)
 

《83/7/19のノート》

 
「物質から精神が生まれそしてそれは混沌である」
この一節の中に全ての誤謬の萌芽がある。だがそれは、論理の誤謬を意味しない。人間の逃れられない誤謬の原因を正確に表現しているに過ぎない。ただ、虚無と無限という対極の要素を内包した定理を始原として、その上に構築される《統一の意思》は、その論理の末に再び混沌が立ち現れることを示すこと以外に矛盾から逃れる道はない。
しかしそれは、虚無と無限との間の世界で、パスカルの言うところの中間者としての人間が、理念としての「始まり」から、やはり理念としての「終わり」へ向けて、非可逆的に歩む行程を、ひとつの弁証法的な実存のあり方として示唆することに他ならない。

僕は僕の感情を、片付けてしまいたいと望んでいる。
一方で、決して片付けてはならないと考えている。
深奥さへの憧憬を、絶対に失ってはならないと考えている。
(1983/7/19)
 

《1983年7月18日のノート》

 
「いかなる人といえども、哲学者ほど幸福にはなり得ない。」(ヴォルテール)

 ショウペンハウエルは自分の幸福のために「厭世的な精神」へと逃げたにすぎない。彼は「厭世的な精神」を唱う「最高の精神的労作」とやらを仕上げ、それによって幸福を手中にしたのだ。
 だが誰もが「厭世的精神」によって救済されるとは限らない。

 「悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以て、この大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にて悉す。曰く『不可解』この恨みを懐いて、煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安ある無し。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」

 「大いなる楽観」が幸福と近しいものだとしても、藤村操は哲学者になれずに身を投げた。
 一方、晩年のショーペンハウエルは、毎晩豪華な食卓を囲み、高級なワインに酔いながら、自らの哲学を声高に語ったという。

 「自分の嗜好をひとつの哲学に仕立て上げること、しかもほとんど常にその嗜好をわかたない人々を軽蔑する哲学に仕立て上げることはきらいだ。」(サガン)

 しかし、あのソクラテスですらこう言ったのではなかったか、「僕が自分の言うことを真実だと思わせようと努力しているのは、この僕自身に対してなのだ」と。ましてや俗人のショーペンハウエルは、毎晩飲んだくれることで酒神ディオニソスをなだめ、辛うじて自分のアポロンの秩序を信じていられたのかもしれぬ。サガンよ、そう思えば哲学者も哀れではないか。

 「人間の幸福と不幸のこれらの一切のものの物質的基盤は、肉体的な快楽か肉体的な苦痛かである」。
「尤も人間は純粋に知的な享楽、極めて無邪気な遊戯乃至または日常の会話から始めて最高の精神的労作に至るまで多くの段階を含んでいる」。
「意志は段階的に現象化せられるものであり、それぞれの他の段階のものを犠牲にして生きている」。

 ショーペンハウエルは何を犠牲にして酒を飲んでいたのか。
 僕はといえば、哲学者にはなれず、身投げも出来ず、何も犠牲にせず。善でも悪でもなければ、それは馬鹿である。
(1983/7/18)
 

《1983年7月14日のノート》

 
「作品はあるがままに額面どおり受けとるべきで、デカルト流の機械的論理の適用はあきらめた方がよい。その直接的な映像は合理的裏付けなしに、映像自体が、十分語るのである。」
(ミシェル・コルヴァン)
「まぎれもない象徴は、むろん形象される思想の形態に対する、そのものずばりの精神の執着から生じる。それは断じて解釈ではないのだ。また解釈されることも断じてありえない。」
(マルセル・レイモン)

岩淵達治氏は不条理演劇の作家たちについて「存在の不条理を、条理や論理的思考を意識的に放棄することによって表現する」という。
意識的に放棄しようとする主体は、はたして論理なのか、あるいは分裂以前の存在なのか。
「意識的に放棄する」ことと「無意識のうちに放棄している」ことの違いは何なのか。 演劇は、結局のところ「言葉」の呪縛から逃れられないということの表現なのか。

あるいはまた、音楽家や画家の意識は、言語から解放されているのだろうか。

《統一の意思のために》
ある対象に対して、あるいはある状況に対して、概念であるはずの「美」や「愛」を、実体あるものとして感じるためには「知的能力」が必要である。《統一の意思》の論理に照らしていえば、「美」及び「愛」を感知する「知的能力」が、他の「知的能力」によって妨げられない(否定されない)ことが、「美」「愛」の顕在化の条件である。結局のところ、「美」や「愛」だからといって特権を与えられているわけではなく、各々の「知的能力」の相対性に影響されるという一般的な法則に支配されているということである。 《統一の意思》の論理でいえば、「その場に応じた価値観」を敢えて比較の俎上に乗せて、さらに高い知的レベルの形成を目指す。つまり相対的でしかない「知性」を、知性の総体=絶対的知性に構築することが可能なのだという理念を、原初的欲求群もまた信じているのである。
しかし、現実的な問題点として、具体的場面においては、「知性(欲求)」の対立は、「折り合い」をつけられればそれでいいというような対処療法的な解決を期待される課題として立ち現れてくるために、結果、「知性・感情・欲求」の構成要素の一部が抑圧され、無意識の領域へ隠されてしまうことであった。本来、理念としては、「知性・感情・欲求」は分析細分化され、そして全ての要素は再構築されることを期待されていたはずなのである。
その解決は、抑圧された要素を、何度でも再認識し、様々な対立を作り出し、そして再構築作業を無限に繰り返すことで、限りなく「絶対的知性」へ志向する以外に方途はない。確かにそれはひとつの絶望の認識ではあるが、中間者としての人間という現実を受け入れれば、理念として機能するのである。
理念として、最終的にたどり着くであろう状態こそ、あらゆる身体器官、さらに「第一物理」における「知的混沌」である。
「美」および「愛」は、だが特別である。
「美」および「愛」は、「知的混沌」への道程における個人的限界(あるいはその類似状況)の昇華的表象なのである。
但し、「美」や「愛」に関係する対立は、往々にして「欲求」対「理性」(無意識であれば「リビドー」対「超自我」)という単純な形で現れるであろうということである。
その時、「欲求(リビドー)」を純粋に(無条件)に、あらゆる対立から解放することによって、言い換えれば「統一の意思」による盲目的全面的「人格」の付与によって、「第一物理」の「知的混沌」という最終的状況が啓示されうる場合があるのだ。まさに「不条理」である。
ただ、いつでも我々は、次のことを認識していなければならない。
「啓示」は、たとえ「知的混沌」の鏡であったとしても、常にその一要素でしかないということ。また、無条件的な解放を前提にしているために、対立を内包せず、また表現もされていないということである。これらは、極めて「モラル」の問題でもある。つまり、理性の抑圧である。
(1983/7/14)
 

《1983年7月13日のノート》

 
カミュ「語るということは、だから、いつもだれかを裏切ったということを前提としている」 だとすれば、たとえ真実を語ったとして、それがいったいなんだというのか。
「アア、敢エテ思考シタ私ハ禍ナリ。」
禍ヲ、敢エテ求メテ思考セントシタ私。アア、本末転倒トハコノ事ナリ。一体、何ノ為ニ?
「永遠の回帰とは、苦悩のなかでの自己満足を前提としている」
抽象化の生む〈悪〉について。シカシ、抽象化の〈愛〉について。

「それだからといって、別にどうだ、と、いうわけでもなく、」と。
(1983/7/13)
 

《1983年7月12日のノート》

 
〈精神-肉体-科学〉か、〈科学-精神-肉体〉か。

(ジイド「田園交響楽」)
「明確な観念を把握できない限りあらゆる概念はいつまでも不安と焦慮の種になった。」
(1983/7/12)
 

《1983年7月11日のノート》

 
〈不条理〉を乗り越えるもの、誤謬を許すものは……、「美」なのか、「愛」なのか。

だが決して急がぬ事。「厳密な理性」の背後に必ず「苦悩」があるように「美の観念」は「美」によって支えられ「愛そのもの」は「愛の観念」より前に存在している。

かつて、ひとりの男がこう語った。
(「わがいのち月明に燃ゆ」林伊夫)
「ぼくが感じるこのたまらない空虚さ。この原因は、知的探求心に価値の絶対的優位をおいてきた誤謬の結果である」
「ぼくの現在の危機は精神の動揺なのだ。そして知的好奇心の外に自分の拠りどころを持たなかった生命全体の動揺なのだ。これを救い得る唯一のものが、愛の認識である」
(1983/7/11)
 

《1983年7月10日のノート》

 
ねえ君、僕はもう君を慰めたりしないことにした。君の苦しみを取り除こうなんて、僕はつまらないことを考えていたものだ。今の君の苦しさは、きっと君の宝物だ。君の心の中で、君の真正な意思と戦っている相手を、君は憎んではいけない。それは君の純粋な愛なのだから。それは死と、そして生の戦いなのだ。君にとって一番大切なことは、決してそこから目をそらさないことなのだ。
(1983/7/10)
 

《1983年7月9日のノート》

 
哲学者は、感情を置き去りにすることによって体系を構築した。彼らは合理主義者観念論者と軽蔑される。だが僕は、「彼らの隠された感情と苦悩をその行間から読み取ろう、そのためにこそ、彼らの辿った思考の道を歩み直すのだ」と意気込んでみた。ただそれだけが残された道だった。
だが、行間にはこう書いてあった。
「厳密たらんとする者、行間など読むな」。

苦しいのだ。「理性」が当惑している。そんなものが、まだこの僕にあればの話だが。
ふと、洗面所の汚れた鏡に目をやると、「狂気」が僕をうかがっている。僕は、訪れた恐怖に硬直する。

ああ、どれだけの人間がユートピアを夢見たことか。もしも全ての人間にとっての唯一絶対の真理があったなら、そして何者かによってそれが解明されたとしたら。人々は考えることをやめ、人々はついに現れた絶対的なものに身を任せ、人々は至上の安らぎの中で静かに憩うのだ。なぜなら、思考とは苦悩の別名なのであり、だとすれば、思考の無い世界こそがユートピアなのだから。

そうだからこそ、例えば仏教は、仏典を唱えさせ、宗徒たちに「空虚」を与えようとするのだ。
はたして、衆生は、仏陀よりも幸福であろうか。

苦悩の昇華が芸術であり、最も根元的苦悩の昇華こそが最も価値ある芸術を生む、やっと見つけた理屈、僕は、それに最後の希望を託してみた。だが、限界なのだ。僕は、あの苦しさに、もうこれ以上耐えられない。

ここ数ヶ月の苦しさ、ほんの少しは薄らいだのだろうか。苦しさがどれほどのものだったのか、今となっては量るものがない。

ここ数ヶ月の苦しさ、それは苦しさを苦しむその苦しみ。
唐突に何気ない風景に感動した記憶、ほんとに微かな朧げな思い出、そして、僕はその時、その〈わけ〉を確かに知っていたはずなのに、あれは、熱病の狂気の中で見た幻聴だったのか。
確かに、僕は、聴くべきものを見たのだ。

僕は、訪れる「狂気」の予感に、弛緩している。
(1983/7/9)


 

《1983年7月9日のノート》

 
山積みされた課題。
解放の時代から、解放されたものによる思考の時代へ。だが「身体的知力」は「言葉」に匹敵する言語を持ち得るのか。
一週間前の自分に言ってやりたい事がたくさんある。しかし奴は聞く耳を持たず、今の俺の言葉のほとんどを理解しないだろう。
(しかし本当のところどちらが正しいのか、それが判然としないということも問題なのだが。)
“He is not what he was.”(「彼は昔の彼ならず」太宰治)

ある事柄に関する〈センス〉に就いて。それは真理認識の為の有利な条件だが、同時に重大な誤謬を犯す危険の種でもある。

書けば書くほど嘘になる。嘘を書きたくはないく。だから捻り出してまで書こうとは思わぬ。
絶望、デカダンスの誘惑、そいつを振り切って「まだ自分のものであるはずの高潔さにとどまるために」
…それこそ嘘っぱちだ。
絶望に見合った「深さ」から、未だ僕は遥か遠い所にいる。あいも変わらぬ「深奥さ」に対する憧憬。

〈統一の意志〉のためのメモ。
“本質的発見”への道程
[精神(精霊)《混沌》]→[中間項《統一への過程》]→[《統一》=《知的混沌》]
中間項におけるバランス=個性。
「あまりに多く経験し過ぎる事」の【絶望】を超えて。
(1983/7/9)

 

《1983年7月7日のノート》

 
革命を幻想するという麻薬。
崖崩れで自殺することができる確率。

(トーマス・マン「神の剣」)
「恥を知らぬ子供や、厚かましい無遠慮者の無智を、称揚と怪しからぬ美の礼賛とでもって、是認し鼓舞し権力づけるというのは、それは罪悪です。なぜならそういう無智は、悩みとは縁のない、解脱とはなおさら縁遠いものだからです。」

(パスカル「パンセ」断章327)
「すべての人がその誕生においてあるところの全く自然的なる無知」と「大いなる精神の人々が到達するところの無知」

中間者たちの、浅はかな口論が氾濫する僕の脳髄。
苦悩という主題。
苦悩という名の、死を待つ逸楽。
(1983/7/7)
 

《1983年7月4日のノート》

 
「他人の生活に寄せる郷愁。それは外側から眺めると、その生活が一つのまとまった全体を形作っているからだ。一方われわれの生活は、内側から眺めると拡散しているように見える。われわれはまだ、統一の幻影を追っているのだ。」
「もし基本的な関心が統一の要求なら、そしてもし世界あるいは神がそれを満足させ得ないのなら、世界から遠ざかるにせよ、あるいは世界の中でにせよ、統一が作られるのは人間においてだ。こうしてこれから一つの道徳と一つの苦行が取り戻されるのだ。」
「試練を受け入れ、そこから統一をひきだすこと。もし他人がそれに応えなければ、その違和感のなかで死ぬこと。」
「ぼくのなかには或る混乱が、或る怖ろしい無秩序がある。創造することは、ぼくには無数の死に値してしまう。なぜなら、創造とは秩序に関わることだし、ぼくの全存在は秩序を拒絶するからだ。だが秩序がなければ、ぼくは拡散して死んでしまうだろう。」
(カミュ「手帖」より)

「理性そのもの」と、「理性的」との遥か遠い距離。「理性的」とは統一への幻想に対する侮蔑の言葉か。必ず犯すであろう誤謬を恐れながら、ともかく、僕はそれを、〈統一の意志〉と名付けたのだ。

「芸術」とは何か。
芸術「的」な事柄において、「身体-理性」の二元論は錯綜する。カミュの自覚された錯綜。

しかし…
「自覚された錯綜」とは、動的な印象が欠如していて詰まらぬ。従って「苦悩」の印象も無い。
二元論はまず解体され、そしてその後に錯綜するのだ。

「理性」に全く左右されない「《純粋な》感性的芸術」など存在しない。それは幻想。様々な「芸術」に対する幻想を検証すること。
「狂気が口述し理性が書き綴るものほど美しいものはない」ジイド
そして「才能」という絶望的な課題。

カミュの言うとおりだ。つまり君たちが幸せな様子をしていると、僕はがっかりするのだ。そして、僕は彼らに尋ね、君たちのその幸せが偽りであることを教え、君たちを僕の方に引っ張って、僕の世界に連れ戻したくなってしまうのだ。
自己嫌悪と、それから「愛する」という能力について。

そうだ。僕は裏切られたような印象を抱いているのだ。
自らには否を、他人には然りを、わかっちゃいるが、しかし、僕は、僕自身を責めるように君たちを責めるのだ。だが、それは詭弁だろうか。

「不条理。君によってモラルを復権すること。われわれが《報告せねばならぬ》別の世界があるとは私には思えない。だがすでにわれわれには、われわれの愛する者一切に対して、この世でなさねばならぬ報告がある。」とカミュは言ったのだが。

再び…
「道徳的であることと、誠実であることのディレンマ」ジイド
理性がモラルを呼び起こすのか、モラルが理性を必要とするのか。

ニーチェ曰く、「ソクラテスはあまりに近いので、私はほとんど絶え間なくかれとぶつかってしまう。」
(1983/7/4)
 

《1983年7月3日のメモ》

 
「出来事は《行と行の間》に起きるのではなく、直接に話されねばならぬ。俳優たちは(中略)行と行の間で彼らを待っている《なにか表現しようもないもの》にたよろうとする。だがそれによって《表現し得るもの》や《すでに表現されたもの》を無意味にしてしまうから、こういうやり方は有害である」
(ブレヒト)……単なる芝居のはなし

「日本人は最も大切なことは、言葉によらず言外によるから、これはもういかんともしがたい。従って日本人にうけ入れられるのは、この言外によることになってしまう。それはもう聖書ではない」
「第一歩はお互いに非常に理解しがたいことをまず率直に理解することであろうか」
(イザヤ・ベンダサン)……仮名で書くペテン

「現在と対話しようと思ったら、自分をからっぽにし、想像力の活動を禁止しなければならないのだ」
(ジャン・ヴォーチェ)……小説の一節を引用する馬鹿らしさ
(1983/7/3)
 

《1983年7月2日のノート》

 
「演劇とはショックであり、叫びであり、錯乱であり、道徳的と美学的禁止事項によって抑圧された心理的・肉体的なあらゆる力の解放に他ならなかった」(アルトー「演劇とその形而上学」)

「もはや偉大な戯曲が必要なのではない。劇的な役者の精神が戯曲を呼び起こすのだ」(唐十郎「役者の抬頭」)

脚本から解放された俳優が復権したのだという。

 もしも僕が本当に俳優ならば、それは歓迎すべき事に違いない。だが、最近の流行りの役者の精神とは、そんなものがあればのはなしだが、安易に理性を見下して、肉体の従僕となってしまったみすぼらしい感性の別名なのだ。僕は、断固それを精神などとは認めない。うすっぺらな、言ってみれば性的な演技をする俳優たち、僕には、そんな感性はない。彼らを嫌悪するこの僕は、はたして俳優であるのか。正直に告白すれば、微かな劣等感を覚えてもいるのだが。

 アルトーは理性の破壊と、感性の復活を唱える。古の文明に回帰し、呪術と祝祭の力を取り戻そうとするアルトーの演劇は、文学に寄りかかっている六本木や四谷あたりの既成の演劇に比べれば、確かにはるかに魅力的なのだ。
 にもかかわらず、やはり僕はカミュを想起する。「かつての文明」へ「回帰」せよという演劇人=アルトーにではなく、「新たな文明」を〈誠実な言葉〉によって切り開こうとする文学者=カミュの良心に、僕は心惹かれている。カミュもまた理性の破壊を言うが、アルトーとは違って、カミュは、既成の理性を破壊して、新たな理性を構築せよというのである。

 「飲食より、呼吸の方が、上等な作用である」(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)
(1983/7/2)
 

《1983年7月1日のノート》

 
(カミュ「手帖1」)
 「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
 「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」

 道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
 新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
 だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
 ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。

 物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。

 対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。

 精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。
(1983/7/1)
プロフィール

Author:urashachoo
FC2ブログへようこそ!





ツリータグリスト

カレンダー
06 | 1983/07 | 08
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。