社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1983年8月20日のノート》

 
クラリネットの見捨てられたひとつの穴。
いや違う。
直接指で触れることのできるその唯一の穴は、見捨てられたのではなく、自ら金属の装飾を頑なに拒否しているようにみえる。それはクラリネットという極めて複雑に進化した楽器の、太古の笛の痕跡のようなのである。
(1983/8/20)
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《1983年8月18日のメモ》

 
昨日のマルクスの論が正しいのなら、ブレヒトのいう「教育演劇」など、その効果はおぼつかない。
「今の自己と違う自己になる」のだとサルトルは言うが、所詮「なるように定められたものになる」だけのことではないのか。

ブレヒト……
「人類に先がけて戦った無名戦士の報告をすることだ。その人を熱心に見習うために。」

しかし、例えば石原吉郎はこう書いた。
「無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。」

「~への自由」を信じてスローガンを掲げる楽観。
「~からの自由」の不可能性を見つける悲観。
「無名」に対する反発は、個人の尊厳か、歴史の必然の証明か、あるいは、「自由」の拒絶なのか。

ブレヒトの存在条件……
当時の観客にあったマルクスへの同感。
しかし、マルクスは、正しく理解されていたのか。マルクスの理論に、必然はあっても自由は無い。

ブレヒトに欠けていたもの、
(自由を信じる楽観に欠けているもの)
……〈α〉

ブレヒト曰く「歴史哲学的な道草をはぶくために、云々」
気に入らない。
(1983/8/18)
 

《1983年8月17日のメモ》

 
なるほど、マルクスに人間の生死に対する深いこだわりがあったからこそ、彼の理論は生まれたのである。
マルクスはこうも言った。
「人間は自ら解決しうる課題をしか持ちえない」
(1983/8/17)
 

《1983年8月15日のノート》

 
「太宰君には清潔なる弱さがあった。これは芸術家でなくては断じてもつことを許されない弱さである。けだし、この弱さは地上に於ける善の性格にほかならない」石川淳

本当にそうなのだろうか。太宰治は付き合いにくい男だったらしい。つまり「善」も「弱さ」も投射された影なのであって、90度違えて見れば一体何が映るのか。しかし何が映ろうとも、「善」と「弱さ」の真実を疑う理由にはならないということ。

思想とは結局のところ極めて個人的な体系なのだ。〈私〉とは「局面の集合としての全体」なのであって、つまり「矛盾の総体」なのだ。
自分の思考を体系化してみる。そうすると無数の自己矛盾に出会う。
「〈私〉とは統一無き全体なのだ」という苦い発見は、各々の局面へと逆照射され、僕は金縛りとなる。

自己矛盾の拡大は認識の拡大、つまりは統一の為の一里塚だと、お前は本当に納得しているのか。お前は、再び夏を受け入れることができると、本当に信じているのか。
(1983/8/15)
 

《1983年8月13日のノート》

 
芥川龍之介
「西方の人」…

マリア「永遠に守らんとするもの」
聖霊「永遠に超えんとするもの」

僕は、守りたいのか、超えたいのか。

クリスト「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」
芥川「我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではない」

僕は、塒などいらぬのか。

「続西方の人」…

「仏陀は成道する為に何年かを雪山の中に暮した。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食の後、忽ち古代のジャアナリストになった。」

そして僕は、真理を待っているのか、あるいは、何かのために急いでいるのか。
(1983/8/13)
 

《1983年8月10日のノート》

 
東京の夜。
サルトルは、ラシーヌよりもコルネイユだと言う。わからないでもないが……。
カミュはモラリストの文学であるところのフランス文学に就いて曰く「古典のモラルは批評的モラルでありネガティヴだ。反対に二十世紀のモラルはポジティヴだ。それは生のかたちを定める。」ポジティヴなモラリスト-スタンダール、バレス、モンテルラン、マルロー、ジイド。カミュは、その中に古典から唯一人コルネイユを加える。判断不能。無味乾燥な分類。
(1983/8/10)
 

《1983年8月7日のノート》

 
暖炉の火、ウィスキーのグラス。
「去年マリエンバードで」 の、あの棒消しゲームの必勝法を発見する。だが、その形而上学的な矛盾。

矛盾を解消しようとやっきになるわけでもなく、矛盾を容認するのでもなく
自然に抗するのではなく、自然に従うでもなく
自然というもの、の、矛盾というもの、を、ただ、見つめている。

何かひとつ見えるようになると、何かがひとつ見えなくなる。いろいろな人がいて、それでいいと、何故思えないのか。

 〈テニスやらない?〉
 〈コーヒー飲み行かない?〉

そんな誘いを聞き流し、僕は籐椅子に半ば寝そべって、「空想より科学へ」に目を落としている。

宗教と信仰と、そして…… 夏の予感。

二年目の、芥子の花の香。美しい少女は芸術家の婚約者。海と高原の贅沢なアンバランス。喉の渇きとビールの空缶。白いワンピースの胸元。めくるめく煙。原因不明の とめどないクスクス笑い。解放され、そして限りなく弛緩してゆく。彫刻と粘土についての形而上学。蝋燭の炎の薄明かり。肉体を離れ宇宙を彷徨うもの、それはかつて「精神」と呼ばれていたものの残党。柔らかいガラスの手。その恍惚の感触の〈思い出〉。

《夏の「思い出」についての、厳粛な冬の連想ゲーム》
僕の「思い出」を否定する敬虔な女、その名はアリサ。君には千里眼があるらしい。

求めなくてはならないのは、心の解放ではなく、その高揚です。心の解放にはいとわしい誇りの気持ちがつきまとっている。大望は反抗のためにでなく、奉仕のために使わなければなりません。
 ……アンドレ・ジイド「狭き門」の〈アリサの手紙〉。

しかし……

ジャンヌ・デュヴァル。…色と香りと和音。
「悪魔」でも「神様」でもかまわない。「少しでも世の醜悪を少なくし、時の重みを減らすなら」

「自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」、と芥川竜之介は言う。
「あらゆる芸術の極意はこの末期の眼であろう」、と川端康成は言う。
死に抗し続けた末にある、死を越えた〈価値〉、と僕は考える。

 「コンナトコキテマデ、ソンナノヨンデンノ、クライノネ」
 「ちょっと気を抜くと、明るくなっちまうからさ。」
 (自殺について考えて……)
 「これで今日一日暗く過ごせるだろう」(と笑う。)

夏があり
ひとつの夏があり
それぞれの夏があり
歪んだ夏があり

夏は時として夏ではなく
 (だからといってどうということでもなく)
僕は夏の黄昏にのみ住みたいと思い
 (だからといってどうするでもなく)

僕は時として僕ではなく
黄昏だけがここにある

いつしか僕は盲となり
誰知れず黄昏だけはどこかにある
(1983/8/7)

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Author:urashachoo
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