社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1983年9月24日のノート》

 
皆それぞれの友と語り
皆それぞれの恋人と時を過ごし
我は一人この典型の世界に潜む
 我が類型を信じ あらゆる典型を死せるものと見下し
 なのに君が類型を疑い 我が類型をも見失う
 今 典型にすがるより他なし
いつか 我が類型より生じたる典型、我が力の根元となれ

自己否定と自己肯定の重層性

まるでナチスの行進のようだ
(1983/9/24)
 

《1983年9月23日のノート》

 
東京四谷。
イメージフォーラム。
15時30分。
僕は、無関係な者たちとすれ違う。
(1983/9/23)
 

《1983年9月22日のノート》

 
寺山修司は「地理に挫折」し「地理派から歴史派への転換」と言う
僕は「地理派」から「?派」へ
だが「?」が皆目わからない

「書を捨てよ、町へ出よう」
寺山の“浪花節”が鼻につく

旅の終わり、青森から東京へ向かう車中にて
(1983/9/22)
 

《1983年9月20日のノート》

 
福田恆存曰く
「ヨーロッパの近代小説は個性を発見し、個性を描きだし、個性的であろうとめざしてあげくのはてに個性を見失ってしまった。」
「個性的であるためには芸術家にならなければならない。」
「ヨーロッパ人にとって精神を否定するのは、やはり精神です。」

ヨーロッパ人以外にとっても、精神を否定するものは、やはりヨーロッパと同じように精神であるとしても、その精神は、未だ自己を否定するほどの苦悩を経験していない前近代的精神という事なのか。

「個人主義の限界点に到達して個性とは何かを探ろうとしている苦悶の表情には切実なものがあり、それがわれわれの心をうった。」

「心をうった」とは、なんとも妙な浪花節、要するにこれこそが東洋的、日本的不純物で、「限界点」に到達できぬ障壁ではないのか。福田恆存が、僕の中にも存在する。自戒。
(1983/9/20)
 

《1983年9月16日のノート》

 
僕の知らない、想像の決して及ぶ事の出来ない感情が、世界には至る所にある。僕のすぐ隣にもあるに違いないのだ。しかし……。
今、言葉を交わしている者たち。笑いあい、同じ時間と近しい場所を共有しているというのに、彼らは何者か。彼らは、僕にとって、結局、何者でもない。
(1983/9/16)
 

《1983年9月6日のノート》

 
漱石の作品から消えてゆくロマンチズム。それは何故なのか。

僕も人生に対して、ある交渉を持っているはずである。なのに、今の僕には、それが全く感じられない。
それは、何故なの、か。
(1983/9/6)
 

《1983年9月3日のノート》

 
「徒党を!」と叫んだ。しかし徒党など作れなかった。
僕に必要なのは徒党ではなく、芝居の仲間なのだと気がついた。だが仲間も出来なかった。なぜなら、僕の欲した仲間は、相も変らず徒党のようなものでなければならなかったから。
やがて、徒党が組めないのなら、僕は孤独であるべきなのだと思うようになった。そして周りを見ず、ただ深さのみを志向した。
そんな僕に向かって、ブレヒトが言う。「《非党派的》であることは、芸術にとっては《支配しつつある》階級に属することでしかない」と。何かを思い起せとばかりに。
(1983/9/3)
 

《1983年9月2日のノート》

 
北海道を走っていると、頻繁に自衛隊の隊列に出会う。昨日、大韓航空の民間機がソ連機に撃ち落とされた。

かつてブレヒトは、自らの時代について、「階級と階級、民族と民族との間の偉大な戦いの行われている時代」と言った。
しかし、今やいかなる戦いも「偉大」ではない。
ブレヒトの時代。マルクスを生んだドイツ人。

白旗を握りしめ、掘った穴に息をひそめて涙ぐむ。
(1983/9/2)


 

《1983年9月1日のノート》

 
現実と想像の世界を幾度往復してみても、その異なった次元は決して作用し合うことはない。僕の生活は、結局何も変わらない。とめどなく、苦々しい。
ブレヒトの原理はひとつの局面でしか通用しない。しかしそれは行動の原理である。僕にはこの原理が無い。それでも毎日生きている。腐った生活である。死なぬ限り逃れられない。

「俳優はあらゆる気質を自分の中に育てあげなければならない。その矛盾性によって生かされなければ、役は生きてこないからだ。」(ブレヒト)

もしかすると、俳優であるということを素直に受け入れてみれば、納得のいく行動の端緒が見えてくるのかも知れない。

「歌は語れ、語りは歌え」と言ったのは古川ロッパであったか。いまだ歌は語るものであるのかもしれぬが、昨今、語りは歌ってはならないのだ。
ブレヒトの叙事的演技。あるいは後期ブレヒトの弁証法的演戯。「こんな事があった……」という「歌う」ことから最も遠い「意識的演技」。
だが、《「歌わないようにする事」とは「もっと巧みに歌う事」だ》、という程度の芸談風「へ理屈」が、結局現実の限界なのだという気がするのだ。

矛盾とは、生命の危機のことだ。演技している自分を客観的に俯瞰している自分・・・そんなもの、矛盾ではない。芸談に過ぎない。
(1983/9/1)
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