社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

スポンサーサイト

 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

《1983年11月24日のノート》

 
三島由紀夫……

(「偉大な姉妹」)「新しい秩序が漸く固まり、なお多くの修正が正しいものと見做されたあの時代には、戦争も、暗殺も、立身出世も、あらゆるものが正義であった。」
「そのころ男たちは悉く剛愎な放蕩者であり、女たちは悉く剛愎な貞女であった。」
(「施餓鬼舟」)「芸術には人間的な目的というものはないのだ。」
「少しも修正を施さずに、誤謬も、誤謬でないものも、同じ仕方で正当化するのが芸術家の遣り口なのだ。どちらも同じ地点で落ち合うのでなければ、われわれは本当に生きたのだとは云えない。」
「それだから責任もない。」

『戦艦大和の最期』の巻末の批評は、「美しい世界観」を持つ者に対しての限りない讃美。
「ある世代は別なものに絶対とその美しさを求めたが、作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である」

「自己の生を切りひらくというもっとも本質的な誠実さ」という。
確かに「全体的に自己のもとに統一された生」は、「誠実な生」であり、「偽りの無い生」であり、だからこそ限りなく美しくもあるのかもしれない。
しかしその「誠実」は、他者にとって誠実でもなければ、「偽りの無い生」が、絶対的な真理に照らして偽りが無いというわけでもない。自己の世界観を持つ者へは憧憬を感じるが、自己の世界観は結局は自分だけの世界観でしかないという絶望を、彼らは感じることはないのか。
大和の「世代」の美しき誠実な人間性が、かの戦争を支え続けたのである。それに批評を加えるのだとすれば、美しき人間性に対する讃美ではなく、その悲しさを語る以外にないはずではないのか。
(1983/11/24)
スポンサーサイト
 

《1983年11月22日のノート》

 
自分の思い込みでしかない事を、何故人は自信に満ちて語るのだ。愛すべき人たちなのに、何故盲目になるのだ。
ナゼ、ボクハオコッテイルノダ。
もっと賢くなれ。素敵になれ。
(1983/11/18)
 

《1983年11月10日のノート》

 
カントの「純粋理性批判」を読み始めて、以来、見る(?)夢は言葉ばかりの夢。盲目の人は、いったいどんな夢を見ているのか。
太宰治「盲人独笑」に回答あり。
他人の見た夢を見ることはできないが、君が聞いた夢なら、僕にも理解できそうに思える。
(1983/11/10)

 

《1983年11月8日のノート》

 
カント「純粋理性批判」
「身体からの(心の)分離は、諸君の認識力の感性的使用の終わりであると同時に、また知性的使用の始まりである。それだから身体は、思惟の原因ではなくて、思惟を制限する条件にすぎない。従って身体は感性的、動物的生活を促進するものであるが、それだけにまた純粋な精神的生活に障碍を与えるものとも見なされるのである。感性的、動物的生活が、身体的性質に依存しているということは、我々の全生活が身体的諸器官の状態に依存しているということの証明にはならない。」

だがしかし、カントは言うのだ。「幸福をうけるに値するように行為せよ」と。キリストを信じない僕にとっては理解不能である。
精巧な設計図が、曖昧さに揺らぎ始める。

カントは、自らの幸福のために「純粋理性批判」を著したのではないのか。身も蓋もないことはよく分かっている。

どんなに論理的であっても、どんなに客観的妥当性を持っているという確信があっても、あらゆる結論の後に、「~と思うことが、僕にとっての幸福なのだ。僕にとって幸福であるからこその結論に過ぎないのだ」と付け加えることによって、僕はしばらく、あらゆる論戦から身を引いてみようと、決心してみた。
(1983/11/8)
プロフィール

Author:urashachoo
FC2ブログへようこそ!





ツリータグリスト

カレンダー
10 | 1983/11 | 12
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。