社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1985年3月21日のノート》

 
多くの新しい演劇人たちにとって、演劇論など不要らしい。演劇論よりまえに演劇そのものがある。それはその通りだ。だが演劇よりもまえに人間がある。その人間にこだわる、人間について考える、考えればそこで哲学に出会う。そうして哲学せざるを得なくなった「誠実な」救われぬ人間は、演劇を考える時も、より哲学的に考えざるを得ない。そうなってしまったら、彼は不本意ながら演劇論を経由してでなければもはや演劇そのものにたち帰ることができない。演劇的インポテンツに悩みつつもそれしか手立てがない。その辺の事情と無関係な幸せな演劇人は、簡単に演劇論など無用だと言ってのける。既成の演劇論からの自由、それはよい。だがそれが、全ての演劇論的なものの否定を意味するとしたら、演劇はかえってその可能性の多くを失うだろう。
(1985/3/21)
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《1985年3月12日のノート》

 
「疲れているし、やらなければならないこともいろいろあるし……」
そう言ってあいつの誘いは断った。
それなのに、Aに誘われてノコノコ下北沢まで出かけていった。
彼女の話は相変わらず自分勝手だ。自分自身に嘘もついている。そう指摘すればそれはわかっていると言う。所詮愚痴だ。その愚痴を聞いてやって、それで少しでも気持ちが晴れるというならそれでいい。彼女にしたってそれ以上の事を僕に期待してはいまい。
「冗談じゃないわよ、だんだん腹がたってきた。あんなにつくしてやったのに、あいつのおかげでどれほどあたしが苦しい思いをしてきたか、それにくらべたらあたしの二年間の間違いくらい、大きな気持ちで許してくれたっていいじゃない。自分のこと棚に上げてさ、どうして男はよくて女はいけないの、冗談じゃないわよ。」
寂しかったこと、苦しかったこと、そんなそれまでの話を、全部ご破算にするかのように、冗談めかして言った彼女だったが、その声には説得力があって、それまでのどんな深刻な話しより、ずっとリアリティーがあったのだ。男の理屈を反古にする力。開き直った女の、実に魅力的で堅牢なるレトリック。
〈不用意に抱かれた女は無罪放免、ならば不用意に抱いた男の罪の重さは・・・〉

おとといの事。あいつと飲んでいた。
「この前、Aと寝たよ」
唐突にあいつがそう言った。だがすぐに
「止めよう、世界の話をしよう」
これについてはそれだけのこと。あいつの体のどこを探しても、もう〈力〉など残っていなかった。

「なんか、すっきりしちゃった。カラオケいこうよ。」
〈俺に何ができるというのか。お前さんは、徹底的にあいつの「女」なのだ・・・〉
「ああ、今日のところはどこへでもお供しましょう。(それが男の責任だというのなら)」
(1985/3/12)

 

《1985年3月4日のノート》

 
小林秀雄の「モオツァルト」がいい。モーツァルトなど聞いたことないのに。
「読書」という、隔絶された、純粋な「別世界」。
(1985/3/4)
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