社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1985年7月22日のノート》

 
二日も続けて飲むと、胃が痛むようになった。
(1985/7/22)
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《1985年7月18日のノート》

 
新宿へ。
「アイヌ」の記録フィルムを観に行く。
「人間」と「自然」の「正常な関わり」、フィルムを記録した民族学者が、アイヌ民族の精神を賛美する。
しかし、と僕は感じている。
「アイヌ」の「素晴らしき精神」は、アイヌ固有の信仰と切り離せるものではない。信仰があってこそ、その土台の上に成立するものだ。だが僕は、アイヌと信仰を共有していない。あらゆる信仰から自由でありたいと考える僕にとって、たとえそれがどれほど素晴らしいものであったとしても、「信仰」を前提とする精神を受け入れるとは、はたしてどういう精神の営みなのか。
民族学者は、「民族学者」の眼を通して「アイヌ」を見ている。
僕は、「役者」という虚ろな精神を持って、「アイヌ」を受け入れようとしている。
そういう関わり方を、アイヌの人々は許してくれるのだろうか。
(1985/7/18)
 

《1985年7月16日のノート》

 
R.D.レインはいう。日常的な精神は、身体と意識の平和な共存を信じている。しかし、真実を見透かす分裂病者は、身体と意識の馴れ合いに安住できず、結果、正常な「身体化」は失われ、そのかわりに「非身体化-自己と身体の分離」が訪れるのだと。
分裂病者は、見慣れぬ自分の身体に、「にせの自己」を注入する。彼らの生は、自己が崩壊する恐怖と不安の中でおこなわれる壮絶な演技である。

「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないという。いったいそれは、どういう意味なのか。

分裂病者は、必死に自己の存在を確かめようとしているのだ。だが僕は、僕の肉体が確実にこの世界に存在していることを認識しているのである。僕にとって、身体と自己を分離させてみる実験は、帰宅時間が来ればそそくさと切り上げることのできる、夕暮れ前のママごとに過ぎない。僕の犯す「真正ならざる罪」は僕の精神の責任ではないと、舞台の上でいくら叫んでみても、僕の精神がコントロールしている僕の身体がこの世界の中にあって「真正ならざる罪」を犯し続けているという責任から、僕の精神は決して逃れることが出来ないのである。

分裂病者は、自己の存在を確かめるために、「罪」であることを知りながら、「真正ならざる罪」を切実に求めているのだが、一方で僕は、「分裂病者」などではなく、「分裂病者」になることも望んでいないのである。
つまり、「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないというロジックは、巷に溢れる「スキゾル」などという流行の造語のような安易さにまみれているのではないか。

僕らは「真正ならざる罪」の意識さえ、真に所有してはいないのである。

役者などという「あり方」に甘えて、分裂病者を装うことを、決して選択してはならないのだと思う。
こんな中途半端な状態では、レインのいう「真正な罪」という概念を断固拒否すべきなのだ。実存主義者のスローガンを、安易に掲げることもやめよう。
そして、あくまでも狂気ではない「分裂者」の道を探るのだ。「役者」などという不誠実な人種から、程遠い場所で、僕は何かを探すのだ。

矛盾している。そんなことはわかっている。だが、思い起こせ。僕は、芝居という武器を持って、この地平のかなたの悪に対して、絶望的な戦いを挑んだのではなかったか。それを目指したのではなかったか。町へ出ろ! そのためにまず、この肉体を自分のものとすることに同意するのだ。その為にこそ、小さな罪を犯すことを、犯し続けることを受け入れなければならないのだ。

グロフスキは、どこへ行ってしまったのか、僕はレインに、自分の欺瞞を暴かれ、自己を空にするというような目論見が、どうやら極めて怪しいことのように思われ、だから僕は、ひとまずグロトフスキについては棚上げすることに決めたのだ…

決めた? 驚いたもんだ。この僕に、まだ「決める」能力が残されていたとは驚きである。
(1985/7/16)
 

《1985年7月15日のノート》

 
僕は、いつから部屋を暗くしなければ眠れなくなったのか。あんなに死を恐れ、明るくなければ眠れなかった幼い僕は何処へいったのか。

「狂気の理論」があるのではない。きっとあらゆる理論が狂気なのだ。
一度分裂してしまったものは、いくらハイフンで結んでも、もはや結合することは不可能だとレインは言った。
なるほどその通りだと思うのだ。

町へ出よう。町へ、出よう。

だが、「真正ならざる罪」は本当に許される罪なのか。それもまた「地平のかなた」の悪につながる罪ではないのか。

迷っている素振りをしても、逃れられないことを思い知れ。
(1985/7/15)
 

《1985年7月13日のノート》

 
アイヌとなって舞台に立つ。
アイヌの精神を受け入れること。そのために、まず自分を空にすること。グロトフスキの方法。自己開示。どうすればではなく、なにをしてはいけないのか、それを確認した後でアイヌの精神を受け入れること。

自己を統一することができないのなら、統一しようとしている自己を捨ててしまうことだ。自己を空にする。自己が空になってしまえば、自己統一などに拘る必要はなくなる。統一すべき厄介なものなど、どこにもないのだから。ただ「自己」という入れ物が、目の前に、たった一個ポツネンと転がっているだけだ。
そんなことが可能なのかどうか、不可能に決まっているのだが、敢えてそう考えてみることによって、一つの視野が開かれる。可能性を信じることが出来る。

例えば、W・ジェイムズの「プラグマティズム」。「徳」「人本主義」「信ずる意志」「われわれ」「信頼」といった言葉が、楽観的に過ぎてなんとも無力だと思うのだが、しかし心情的には殆ど同意している。その程度のところで収めておかないと、間近に迫ったアイヌを演じるという課題に対処ができない。

「統一性」と規定するから「多様性」と対立する。「統一性」を「全体性」として捉え直す。〈統一された自己〉を〈全体としての自己〉と言い換えてみる。

「空っぽ」にした自己にまず「アイヌ」と「役者の客観的な目」を放り込んで「全体性」を獲得する。そう考えてみると、役者として当たり前にやってきたことではないか。
問題は論理的な厳密性。
しかし僕は、しばらく、それを放棄する。「アイヌ」という重い現実だけを見る。
(1985/7/13)
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Author:urashachoo
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