社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

《1985年8月30日のノート》

 
紋別での公演を終えて美瑛へ。劇団の子の紹介で、かつて彼女がよく来ていたという民宿に泊まる。
若者たちの駆け込み寺のような宿といったら、彼らは怒るだろうか。彼らの思い込みが強ければ強いほど、彼らの精神も、この拠点も、とても脆弱に見えてくる。
15分かけて風呂に入りに行くことも、6畳の部屋に5人寝ることも、彼らにとっては問題ないことなのだろうが、我々は仕事で来ているのである。ひと夏ここのヘルパーとして過ごす若者たちの、妙に馴れ馴れしい応対、それが人を喰ったような失礼な態度であることに、彼らは気がつかないのだろうか。無職であることを、執拗に主張する彼ら、もしかすると、アルバイト代は払われていないのかもしれない。宿の主人は、我々が仕事の旅で来ていることを知っていたはずである。僕と同い年の人のよさそうな主人は、さすがに恐縮してはいたが、若者の無礼を咎めることまではしない。見て見ぬフリをしているのか、馴れ合いの無神経にどっぷりと浸かったサマは、客商売の大人の仕事とは到底思えない。
君たちは、何かから逃げてはいないか。君たちがまとっている鎧が、その証拠ではないのか。君たちは、この北海道に何を求めて、ひと夏過ごそうとしているのか。
(アイヌのこと、君たちは知っているのだろうか)
君たちの青春に対して、僕に、共感は一切ない。
(1985/8/30)
 

《1985年8月29日のノート》

 
真理の探求は人間存在そのものの要求であり、その根底には自由たらんとする人間があるとフロムは言う。僕はそれに同意するのだが、しかし僕は「自由たらんとする人間」の代わりに「永遠の生を求めて止まぬ人間」を置く。すると途端に、懐疑的なニュアンスとなる。
人は「死」から自由でいることはできない。ここに真の自由の不可能性があるのだが、そこに言及しないフロムのペテン。

しかし。

自由の論理のペテンを理由に、悠然と蟄居しているのだとしたら、それこそ自由から逃避していると罵られても仕方が無い。フロムの厳密性をとやかく言う前に、自分自身の「弱さ」を、凝視すべきである。
ただ楽しく生きていくために、やがて訪れる「死」など考えずにいたい、それが正直な感覚であることを自覚しながら、なお「死」の理論を並び立てている。この分裂は何なのだろう。いったいどちらが「ニセの自己」なのか。というより、権威主義的な論理の「弱さ」を隠す甲冑、それを現実に動かしているのは平板な感情に規定された自動機械である、という何ともお粗末な二面性、それは分裂などからは程遠い、要するに真の自分などどこにもない無力感に満たされた存在というに過ぎないのではないか。

孤独について。
しかし明日の舞台のために、いい加減に眠らねばならぬ。

人から期待されているであろうことを僕はする。彼らの期待する像から頑なに自由でありたいと思うのだが、結局僕は、彼らの期待する者になろうとする以外に術はない。何と大袈裟な物言いだろうと呆れるのだが、しかし僕は、思いやりという至極普通の美徳と、自我の喪失の境界を、全く見極めることが出来なくなってしまったのだ。何かが狂っている。
(1985/8/29)
 

《1985年8月28日のノート》

 
昨夜、滝川で大酒に溺れ、今日、紋別へ移動。体調、すこぶる悪し。自業自得。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、第一次世界大戦中の刊行。その所為なのか、自由を切実に求めるが故に、「自由の存在」について、彼は疑うことをしない。
しかし。

死ぬ自由はあっても、生まれてしまった限り、生きた事実から自由になることは出来ない。厳密には、真の自由の実現は不可能事なのであろう。

でも、だからといって、自由は形而上学の俎上で分析されるべきだなどと言いたい訳ではない。そんなことになれば、自由の存在はたちまち危うくなり、議論はそこから一歩も先へ進めないということにもなりかねない。今この時に、命を賭しても手に入れたいと思う現実的自由は、そこにはない。
フロムの扱う自由が、形而下に留まる限りはそれでよい。世俗的には、様々な自由が、到る所に転がっている。しかし、フロムの自由は、多分に理念なのである。にもかかわらず、その存在を信じて疑わない彼の、無反省で楽観的な論調が不満である。

実現できないものを理念に据えてはならぬという法はない。むしろ、実現出来ぬからこそ理念になり得るのだ。実現不可能な希望を理念に据える確信は、実現不可能であるという分析の上になされてはじめて力を持つのではないか。

もしかすると、自由から逃避しようとする者の方が、自由の不可能性という本質を、無意識に捉えているのかもしれない。蹲り怯えるそうした弱き者たちを立ち上がらせて、再び自由へと向かわせるためには、どのような自由が不可能であり、どの自由なら手に入れることができるのかを、はっきりと指し示すことが必要なのである。その時になって初めて、不可能な形而上の自由ですら、理念となりうるということを、彼らに受け入れてもらえるに違いない。

だが……。

しかしそれは、明日にしよう。体調が僕を規定する。ことここにおいて、僕に全く自由はない。詰まらぬ論理の原因が体調の悪さなどというのは、勘弁である。
(1985/8/28 紋別にて)
 

《1985年8月27日の読書メモ》

 
旅の読書メモ。

「ブレイク詩集」
いつものことだが、翻訳の詩集はきつい。

ハンスと名づけられたぬいぐるみの「息子」を持つ小此木啓吾。
「この社会のなかで、ある子どもはどうして登校拒否にならずに学校に通い続け、ある女性はフリーセックスをしていても神経症になることはないのか」
なるほどその通りだなどと、危うく騙されるところだった。まず、ハンスの物語でも書けばいいのに。

活字に反応して神経症のフリをする。僕の精神とは、いったいどのようなモノなのか。

ガンに侵された老フロイトの言葉。
「ボンヤリするくらいなら痛みのさなかでものを考える方がましだ」

知識だけで形成された虚構のアイデンティティー。ハンスの方がマシか。

大江健三郎。
「良い警官より、つまらない小説家が尊敬されたりするのはまちがっている」
良い警官とは、神経症などには決してならぬ実弟のこと。

この旅で、萱野茂氏に会う。
(1985/8/27 滝川の宿にて)
 

《1985年8月26日のノート》

 
この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった。
「何一つ特筆すべきことが無い」という表現を思いついて、僕は安心している。
問題は、何があったなかったということではなく、特筆すべきことがあったかなかったかでもなく、日記を埋める題材があったのかなかったのかということでもなく、ただ日記の空欄に何らかの意味ある文字を書き残し得たのかどうか、それのみが問題なのである、というふうに、どうやら僕は考えているらしい。いったい、どんな強迫観念が僕に影響しているのだろうか。

何をしたとか、どこへ行ったとか、海がきれいだったとか、そうしたことを書けないのは、なんともつまらないと思っていたのだ。だが、考えればこの言い草も妙だ。どこへも行かず、きれいな海も見ることなく、要するに何もしなかったことがつまらないというなら分かるが、そうしたことを書けないことがつまらないとはどういうことだろう。

ともかく僕は、宿の和室の机の上に、このノートを開いたまま、しばらく仰向けに寝転がって天井を眺めていたわけなのだが、「この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった」という言葉を思いついて、やおら起き上がってノートにその文字を書きつけてみた。そうしてみたら、なんだか僕は、とても満足しているらしいのである。

はたして、何をしたとかどこへ行ったとか、そういう具体的な事柄で毎日の日記を埋めていける人とは、どういう種類の人間なのだろうか。
人は言葉によって考えているのだろうから、考えたことを書けばいいというだけのことならば、少し乱暴だが、自動書記的にも行い得るはずだ。頭の中にある言葉に、ただ文字を与えて書き記すだけのことなのだから。しかし、何かをしたとかどこどこへ行ったという事実を、「何をした」「どこへ行った」という言葉に置き換える作業は、何か別個の衝動がなければできないことのように思うのだ。

どうやら僕にとって、一日の終わりにその日の出来事を記すことなどはどうでもよくて、「特筆すべきこと無し」でもなんでもよいから、何かまず書いてみて、その言葉から始まる想念だけが重要なのである。きっと僕の日記は、一日の結果なのではなく、何かの原因となる因子なのだ。
それならば、一日の終わりに書くのではなく、朝一番に書くほうがいい。しかしそんなことをしたら、きっと僕は、一日中このノートに向かっていることになりそうだ。

結局のところ、未だ僕は、現実の自分は虚ろであり、書く自分は現実と断裂している。
(1985/8/26 札幌の宿にて)


22日 新潟泊
23日 小樽へ
24日 積丹半島神威岬、特筆すべき美しさ
    生うに丼、1300円、特筆すべき旨さと値段
    余市ニッカウ井スキー、試飲、蛇足
25日 札幌入

19日 萱野茂「アイヌの碑」、自画自賛、駄作、あくまで読み物として
 

《1985年8月19日のノート》

 
今日から長い旅に出る。
東京に戻る頃は、もうすっかり秋だろう。もはや今年の僕の夏は終った。というより、何事も始まることの無かった夏であった。終るべき何ものも生み出すことなく、内容の無いひとつの夏が、ただ形式的に過ぎ去っていく。

日航機墜落。奇跡的に助かった4名の治療に当たった医師の言葉。
「助かった人たちは、何か目に見えない大きな力に守られているように感じます」
守られなかった大多数の人々の遺族は、これを聞いて何と思うのだろうと、若干の違和感を抱きながらも、僕は医師という論理的な職業に携わる者が語った「奇跡」という言葉に、少なからず心動かされてもいたのだが。
昨日だったか一昨日だったか、生き残ったひとりの、墜落直後は父も妹もまだ生きていたという証言が報道された。機内最後部の乗客たちの多くが、即死ではなかったかもしれないという事。その可能性の検証を待たずに、「奇跡」などという言葉を使ってしまうことの危うさを、今日考えた。
「人為的責任」
生き残った人の奇跡を語る前に、死んでいった人々に思いを致す事。

むりやり世の出来事について感想を述べてはみたが、どれほどそれを積み重ねても、何もない僕の夏が、それで満たされることなどあり得ないので、なんとも気が進まない。

まずは佐渡へ渡る。
(1985/8/19)
プロフィール

urashachoo

Author:urashachoo
FC2ブログへようこそ!





ツリータグリスト

カレンダー
07 | 1985/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示