社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1987年6月12日のノート》

 
野方が言う。……「なにもこん度の十万円を、とやかくいうんじゃないよ。だけど僕は商売人だからね。ああいう男と取引はごめんなんだ。先で何をされるか、わからないからね」
葉子は思う。……「みんな口実だ」
はたして、どちらがより真実か。

大岡昇平は書いている。……「松崎が彼女の別れた男である以上、二人は駅で忙しくすれ違う人間より、もっと他人なのだ」
川端康成は言う。……「二人の離婚は美しかった、なぜなら彼らは友だちとなれる心を持っていたから」

はたして……

分析つくせないもの……、〈偶然〉〈人間〉
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《1987年6月3日のノート》

 
書くためには書く対象への思い入れがいる。しかしそれだけでは書けない。書くという行為そのものへも思い入れがなければ書けない。対象への思い入れが愛でも憎しみでもかまわぬように、書くという行為を憎みながらでも書くことは出来る。だが、書くことを愛しも憎みもしなければ書くことなど出来ない。

あまりにも対象に思い入れが過ぎると、書くという行為に分け与えるべき思い入れが少なくなる。そうすると書けない。書く時期を失うということがあるとすれば、きっとそういう事情なのだ。だから、書くことを忘れさせるような強烈な現実は、結局遥か遠い〈思い出〉としてしか書くことが出来ない。

ならば〈思い出〉として割り切って書いてしまえばそれでよいのだが、勿論そのためにも書くという行為に思い入れがなければ書けないのだが、何故なのだろう、そのふたつが揃っていても、それだけではやはり〈思い出〉に就いては書けそうもないという気がするのだ。人が〈思い出〉を語るのは、特別な何かがあるからなのだ。僕にはそれが無いから、過ぎ去った事どもに就いて、きっともう書けないだろうという気がするのだ。

日記に書かれたものに少しでも価値があるとすれば、今日のこの日の出来事が、特別な何かが無ければ書くことの出来ないような〈思い出〉となってしまう前にそそくさと書かれてしまって、おかげで現実が生のまま残るからなのかもしれない。だとすれば、僕の日記には、何の価値も無い。
(1987/6/3)
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