社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1983年の僕を1994年の僕が解釈する:2》

 
【1983年の自己を解釈する(2)】
調べてみた。
アルトーがシュールレアリスムの旗手ブルトンに会ったのが1924年、カミュがその「手帖」を書き始めたのが1935年。10年前の僕は、何故そんな古いものを振り回していたのか。

僕は、60年代の幻想の中にいた。花園神社の境内に設営されたテント、取り囲む機動隊に対峙する俳優たちと満員の観客、なんと素敵な時代なのだろう。僕は不幸にもその時代を知らない。知らぬからこそ、聞かされるその夜の出来事は、僕の中で伝説になった。例えばその花園神社の芝居にこそ、時代を動かす可能性があったのではないか。それを司るアンチテーゼとしての肉体の力。幻想かもしれぬ。だが、それは僕の夢と重なっていたのだ。僕にとって、依然60年代演劇は芝居の〈あるべき理想〉だったのか。
しかし、その理想は時代と不可分であった。時代が変われば成立しない理想であった。状況劇場にも、天井桟敷にも、もうかつての肉体の力などなかった。何故か。瀕死の理性を倒すのに、もう特別な力など必要なかったのである。アンチテーゼの役割を失った肉体は、僕にとって、もう魅力などなかった。だから、60年代の演劇は、依然僕の〈理想〉でもあったのだが、乗り越えるべきものでもあったのだ。正確に言えば、依然理想であったからこそ乗り越えるべきものだったのである。 問題は、如何に乗り越えるべきか。だが、それこそが五里霧中であった。

時代の〈敵〉は得体の知れないものに変貌し、その身を隠していた。つまらぬ時代だと思った。そして、敵のはっきりしていた60年代という時代を羨んだ。
しかし、時代を動かし変えることが夢だとして、その夢の叶わぬ時代を恨むとはどういうことか。夢は、置き去りにされている。それは、きっと夢に対する裏切りなのだ。僕は自分の夢を裏切っていた。

要するに、動かし変えた後の、あるべき時代の姿が見えなかったというだけのことなのである。それでもなお動かし変える事が夢だとはどういうことか。「反抗のための反抗」とは少年の甘えである。それを自覚したからという訳でもないのだが、芝居を仕事とし、芝居に夢を託さなくなってから、その時すでに何年も経っていた。
僕に、本当に夢があったのだろうか。あったような気がする。そして芝居を選んではみたが、やりたい芝居が見つからなかった……、何のことはない、個人的な才能の欠如を、僕は甘ったれて時代の所為にしたという事なのか。そうかもしれない。時代を読み、時代に乗るのも才能ならば、まさにそれはその通りなのだろう。そんな才能ならいらぬ、そして、今日のこの日のこの観客以外に伝える相手を持たない芝居の、時代とともに変わらざるをえぬ〈軽薄な風貌〉と、薄れあるいは歪められやがて消滅する〈曖昧な記憶〉の運命に、僕は虚しさを感じた。本当は、それこそが芝居であったのに。
そうして、いつか僕は、時代を越える普遍的なものを求め欲していた。

前世紀まで〈普遍の真理=神〉は生きていた。合理主義もまた一つの〈神〉であった。が、世紀末の思想は〈神〉を疑い、やがてあらゆる〈神性〉を否定した。新たな〈神〉となったマルクスも、結局その威光を失った。もはや〈神〉など、どこにも存在しない。それを僕も信じていたし、誰もがその事を知っているのだと思った。しかし、前世紀までの哲人たちが如何に切実に〈神〉を必要とし、世紀末の「超人」たちが如何に苦悩に満ちて〈神〉を殺したか、あれだけ世界を震撼させたマルクスのテキストとはなんだったのか、いったいどれだけの人が、それらについて語れるというのか。

いくら神が死んだとしても、本来人間とは、何かしら普遍的なるものを信じねば生きられぬものではないのか……。
君たちの中にも、まだ神がいるのではないか。その神の顔を、薄暗い光の中でよく眼を凝らして見てみれば、君たちが殺した大きな神の面影を、そこに見つけるのではないのか。

僕は、初めて哲学を知りたいと思った。60年代を越えるためにも、ただ漠然と〈普遍的なるもの〉を求めている情けない自分を越えるためにも、かつての哲学を知る事が必要だと思ったのである。
しかしそれは、〈普遍的なる哲学〉〈普遍的なる精神〉〈普遍的なる言葉〉など決して存在しないのだという事を、哲学と、精神と、言葉によって、改めて確認する作業になるのであろうと、僕は初めから殆ど絶望的にそう思い込んでいた。
(1994/5/27)
 

(再掲)《1983年7月2日のノート》【アルトーとカミュ】

 
「演劇とはショックであり、叫びであり、錯乱であり、道徳的と美学的禁止事項によって抑圧された心理的・肉体的なあらゆる力の解放に他ならなかった」(アルトー「演劇とその形而上学」)

「もはや偉大な戯曲が必要なのではない。劇的な役者の精神が戯曲を呼び起こすのだ」(唐十郎「役者の抬頭」)

脚本から解放された俳優が復権したのだという。

 もしも僕が本当に俳優ならば、それは歓迎すべき事に違いない。だが、最近の流行りの役者の精神とは、そんなものがあればのはなしだが、安易に理性を見下して、肉体の従僕となってしまったみすぼらしい感性の別名なのだ。僕は、断固それを精神などとは認めない。うすっぺらな、言ってみれば性的な演技をする俳優たち、僕には、そんな感性はない。彼らを嫌悪するこの僕は、はたして俳優であるのか。正直に告白すれば、微かな劣等感を覚えてもいるのだが。

 アルトーは理性の破壊と、感性の復活を唱える。古の文明に回帰し、呪術と祝祭の力を取り戻そうとするアルトーの演劇は、文学に寄りかかっている六本木や四谷あたりの既成の演劇に比べれば、確かにはるかに魅力的なのだ。
 にもかかわらず、やはり僕はカミュを想起する。「かつての文明」へ「回帰」せよという演劇人=アルトーにではなく、「新たな文明」を〈誠実な言葉〉によって切り開こうとする文学者=カミュの良心に、僕は心惹かれている。カミュもまた理性の破壊を言うが、アルトーとは違って、カミュは、既成の理性を破壊して、新たな理性を構築せよというのである。

 「飲食より、呼吸の方が、上等な作用である」(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)
(1983/7/2)
 

(再掲)《1983年の僕を1994年の僕が解釈する》

 
【1983年の自己を解釈する】
哲学は、「二元論」を克服したのだろうか、今の弱った僕には、それを調べる気力がない。ただ、およそあらゆる二元論的思考を超えることが、どうやら現代哲学の課題の一つであるらしいと、何かで、読んだような気がする。あるいは、読書からしばらく離れていた間に、僕のうかがい知らぬ思想の先端というような場所で、それはもう克服されつつあるのかも知れない。しかし、やっぱりそれは、決して容易な事ではないだろうと思う。西洋哲学の伝統の呪縛か、デカルトを恨んでも始まらない。デカルトの罪ではないのだ。脳の回路がオン・オフのインパルスに支配されている限り、二元論の克服とは、どこか宇宙の別の星から、人間を解釈するような、そんな難事業ではないか。とはいうものの、あの頃の僕の拘っていた「肉体と精神の対立」とやらは、今となっては余りに黴臭い文庫本のように見える。1983年の〈時代の知性〉は、そんな古めかしい二元論にいくらこだわっても不毛な議論しか生まない事を熟知していて、だから奇抜な対処療法を開発して肉体と精神の和解を成立させて、あるいは「肉体と精神の対立」など元々どこにも存在していなかったかのように軽々と街に浮遊していた。と、僕は思い込んでいた。そうした〈スタイル〉は、十年経った今よりも、あの頃ずっと〈流行っていた〉ように思うのだ。しかし、あの頃の僕は、その〈流行〉から取り残されていた。
僕は、カミュの言葉を好んでノートに書き写していた。例えば……。

「言葉に寄せる信頼、それが古典主義だ。だがその信頼を維持するために、古典主義はまったく慎重に言葉を使う。言葉を信頼しない超現実主義はそれを乱用する。」

書き写しながら、僕は何を思っていたのか。「言葉」を信頼する古典主義者を擁護するカミュに僕は同意していたのではない。「言葉」に対して信頼を失っている事においては、僕も当時の〈新しい時代〉に影響されていた。しかし信頼していないものを使うのなら、なおさら慎重であるべきではないのか。カミュも〈新しい時代〉の〈新しい知性〉の軽々しさに対して反感を持っていた、と僕は思った。そういうカミュの言葉を、僕は僕の武器にしたかったのである。

「性欲はなにものにも導かない。それは不道徳ではないが非生産的だ。なにかを生み出そうと思わぬ時代には、性欲にふけることもいい。だが貞潔さのみが個人的な進歩に結び付いている。」
「性欲が勝利であるような時代もある。道徳的な戒律から性欲が解き放たれる時がそうだ。だがすぐにそれは敗北にいたる。そして唯一の勝利は、今度は性欲自体の征服だ。つまりそれが貞潔ということだ。」

ここでもまた、カミュの言う「貞潔」に何かを感じたのではなかった。「貞潔」ばかりでない。例えば「意志」だとか「愛」だとか、そういう事に対して何かを言うためには、ポジティヴな何かが必要なはずだった。だがそれを持たぬ僕は、結局「意見なし」であった。僕は単に「肉体」を信用していなかったのに過ぎない。そうして、ただカミュの言葉を借りて「肉体的現代」を罵ってみただけなのだ。要するに、あの頃の僕は、何も信じてなどいなかった。
「言葉」とは「精神」の謂である、と僕は単純に考えた。「言葉」を疑うのなら「精神」もまた疑われなければならない。だから、僕にとって「信じられない」という点において「精神」も「肉体」と同等だった。同等であるべきだった。ところが、「時代の知性」といわれる「精神」は、同等であるべき「感性」に〈従属〉してしまっている、と僕には感じられた。そして、軽々しく「肉体」を崇めている、と僕には見えた。それは「精神」の「精神」自身に対する裏切りであり「精神」の自己欺瞞に他ならぬ、と思った。
〈肉体と精神の二者択一〉という単純な図式にとらわれながら、肉体の優位に不満を持つ僕は、振子が揺れるように「精神」の側に寄りそっていった。しかし、「精神」の確固たる概念など何ひとつ持ち合わせぬ僕は、「精神」の中に、結局「言葉」しか見つける事ができなかったのである。僕にとって「精神」とは、相変わらず「言葉」のことであった。だが、やはり相変わらず、「言葉」は不信にまみれていた。それでも、糸口は「言葉」しか無かった。「言葉」によって、不信の複合体=「精神―肉体」について、つまり「人間に対する不信」について、〈慎重に〉〈誠実に〉報告する事、僕に出来る事はそれしか無かった。
「精神か肉体か」という黴臭い〈問い〉、つまるところその問いが、極めて幼稚であったというだけの事なのだろう。しかし、僕はどうしてもそれに躓かずにはいられなかった。はたしてそれが〈誠実〉な態度であったのかどうか、ともかく、苦しんではいたのだ。苦しみながら、「肉体」に敵対して「肉体」から離れた「言葉」、「肉体」と同様に信じてなどいない「言葉」を弄んだ。そして、苦しさから逃れるためにのみ、僕は〈書くこと〉を続けた。そうして書き続けながら、実は僕自身の肉体と精神こそがますます対立し分裂していったのである。
(なるほど、ならば不信の対象はこの僕自身であるべきだったのだ。)
「言葉」という閉ざされた世界でうめき声をあげる僕の精神は、僕自身の肉体を捨てて顧みなかった。肉体から遊離した精神は孤立し、五感から切り離された精神にはもう風を感じる力が無かった。そうして僕の失ったものは、生活、友人、風景……、それは数限りなかった。
(1994年5月26日)

 「いつか人類が完全な健康をとりもどし、肉体と精神のあいだに平和が回復されたならば、そして肉体と精神が本来の調和によって結ばれたならば、キリスト教がその両者のあいだにうちこんだわざとらしい闘争はもうだれにも理解されなくなるだろう。自由な選択によっておこなわれた抱擁からうまれたよりしあわせな、より美しい世代は、歓喜の宗教によって人生を謳歌するようになり、地上のあらゆる快楽を悲しくもあきらめ、あたたかい、色彩にとんだ官能性を抹殺することによって色青ざめて、まるで冷たい幽霊のようになってしまった祖先のことを悲哀をこめて微笑するだろう。そうわたしは断言する。われわれの子孫はわれわれよりも美しく、よりしあわせになるだろうと。なぜならわたしは進歩を信じている。わたしは人類はしあわせになるようにさだめられているのだと信じている。」
(ハイネ「ドイツ宗教 哲学史考」)

 

(再掲)写しはじめたノート《1983年7月1日のノート》

 
(カミュ「手帖1」)
「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」

道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。

物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。

対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。

精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。
(1983/7/1)
 

(再掲)1994年《プロローグを補足する風景》

 
4月26日、プロローグを補足する風景
 ……結石なら、いたって単純な影が映るはず。だがこいつは全く違う、〈何か〉の、異様な二層構造の影…… たとえどこかに結石が残っているとしても、この際そんなものはどうでもいい。もしも脇腹がまた痛むようなら、座薬でも出しますよ。そんなことより、こいつの正体を確かめる方が先です…… そんなこと? 昨日の、あの耐え難い激痛が〈そんなこと〉なのか。なるほど、そういうことか…… そんならとっととカタをつけてくれ…… しかし、精密検査は、今日すぐにという訳にはいかないらしい。もどかしさに、僕の体のどこかが揺れている…… あのう、椅子に、お掛け下さい、と看護婦に促される。……最初から座らずにいたのか、それとも、知らぬ間に立ち上がったのか…… 手帳を開き、舞台の日程の合間に、いくつもの検査の予約を入れ込んでいく。何があったって休むことの許されない仕事…… 一週間や二週間でどうなるもんじゃないからね、焦らなくてもよいと、僕に向かって穏やかにそう言った老医師が、急ぎなんだよ、もう少し早く、なんとか予約入れられないのか、と、厳しい声で内線電話の受話器に向かって喋っている…… 一秒は、一分を六十等分してはいない。時間は不整脈を打って流れている……
 小笠原の島への旅。遊びではない、仕事の旅。父島と母島の学校が会場、たったの2回の舞台だというのに、まるまる一週間も費やさねばならないのだ。 ……仕事なんかしている場合じゃないと思うが…… 親が死んでも休める仕事ではないのです…… 死ぬのは親ではなく、君自身なのだよ、と、そう言いたかったのかもしれぬが、みつくちの老医師は、首を傾げただけで後は黙した。検査と検査の間の、遠い南の島での《夢》のような時間、真っ青な恐ろしい海の色は覚えているが、空の記憶が僕にはない。笑い声は耳に残っているが、笑った君の顔が思い出せない。ならば《夢》は、きっと悪夢だったのに違いない……。
 CT、DIP、MRI…… 予測を裏切るような結果は、何ひとつやってこない。目星をつけられた獲物は、徐々に追い詰めてられていった。それは、駄目押しの連続であった。しかし、結局のところ、追い詰められていたのは、見知らぬあの異形の影ではなく、この僕自身だったのだ。やりきれぬほどの長い時間……
 腎細胞癌という名の、直径4㎝弱の病巣をその中にしっかりと閉じこめたまま、僕の右腎臓は丸ごと摘出された。老医師に替わって執刀した若い医師が、たった今摘出した腎臓を、銀色の皿に乗せて手術室から待合室へ現れた。確かに腫瘍に侵されていたということを患者の家族に示すために、僕の腎臓は輪切りにされてあったという。その時の白いゴム手袋をはめた医師の手が、「神さまの手に見えた」と、母親は後で僕に話した。その「神さま」から、癌細胞を散らすことなく手術は成功しましたと聞かされた家族は、もう大丈夫だと安堵している。しかし、その「神さま」が、三人に一人の確率で転移する、と僕に告げたのだ。
 それでも家族は、もう大丈夫だと、安堵したフリをしている……
 「だけどね、症状のほとんどない腎臓癌が、この程度の段階で発見されたんだから、幸運だったことには間違いないさ……」
 もし仮に生き延びる事ができたなら、僕は二つの偶然に救われたという事になる。まずは、実にいい時に結石が出来た、それが幸運なひとつ目の偶然。だがその幸運も、もしレントゲンに石が写ってしまえば、僕のカルテには腎臓結石と記入され、超音波検査を受けることなく、痛み止めを飲み、石が出ていくのを待って診察を終えていたはずなのだ。ところがその石は、微妙なタイミングで、レントゲンに写らぬように、僕の体から出ていってしまったらしいのだ。それが幸運なふたつ目の偶然。偶然? いや、こんなこと、何かの必然といったようなものが無い限り、決してあり得ぬ奇跡ではないかと、今の僕には感じられるのだ。血尿と激痛という信号を発した後、見つけられることを拒否して姿を消したちっぽけな小便の化石、その《奇跡》が無ければ、僕はすぐそこにある「死」に、今も気付かずにいただろう。
 そうして僕は、百パーセントの死から逃れた。死の確率は、三分の一に減ったのだ。つまり、三分の二の生を、僕は手に入れたのだ。……けれども、〈三分の一の死〉は〈三分の二の生〉を、あっという間に凌駕してしまう。手術の傷は日増しに癒えるが、死の恐怖は、いっこうに僕から消えようとはしない。いくらノートを書き写しても。
(1994/4/26 手術後、最初の転移再発の有無を調べる検査を終えて)
《その結果が出たの日のノートへ》

 

(再掲)1994年春《子供たちへの手紙、そのプロローグ》

 
1994年の春、病院をどうにか退院した僕は 生きているうちに〈何か〉を残しておきたいと切実に思いました。そうして、書庫の一番奥の本棚から黄ばんだ古い大学ノートを引っぱり出し、そこに書きなぐられてある一字一字を、遺書をしたためるかのようにワープロで打ち始めました。その時、その冒頭に「前書き」を付け足してみました。〈子供たちへの手紙、そのプロローグ〉という表題をつけて。まず、それを公開してみます。

《子供たちへの手紙、そのプロローグ》
2月3日、昼過ぎ、尿に血のようなものが混ざる。翌4日の深夜、明らかにそれと分かる赤い尿、加えて左脇腹に激痛、朝を待って病院へ。問診による医者の判断は腎臓結石、血尿も激痛も、すべてが結石の典型的な症状だという。だが、レントゲンでは結石は発見できず。石がレントゲンに写らないということはそれほど珍しいことではないらしいが、念のために超音波の検査を受けることになる。
結局、石は存在せず。だが、痛んでいたのとは反対の右の腎臓に、予期せぬ影が見つかる。
予備検査を重ね、3月10日に入院、16日右腎臓全摘出手術。組織検査の結果、確定した僕の病名は「腎細胞癌」。
3月の末日に退院。
94年度出演者の顔合わせが4月4日、その日だけは何とか出席して、その後しばらく自宅で休養を摂り、12日から遅れて僕は稽古に参加した。
舞台の初日は、一週間後の4月27日に決まった。前日の26日がゲネプロ、だがその日、転移再発の有無を調べるため、手術後最初のCT検査が午前中にある。ゲネプロの開始は、病院から僕が到着してということになっている。
準備をして待っていてくれるだろうみんなには申し訳ないが、僕にとって、その日はゲネプロの日ではない。今の僕にとっては、ただ検査という日でしかない。その日が、近づいてくる。僕はそれから逃れるように、古いノートをワープロで打ち始めた。そうして、かつての自分を、あたかも他人のように眺めている。その間だけ、僕は「死」に捉われている今の自分を忘れている。
(1994/4/20)

〈忘我〉の効用、例えば写経の効用とはこうしたものなのかと思った。だがそうじゃない、そんな上等なものじゃないのだ。僕の前にあるのは、経文ではない。それは、たとえどんなに見知らぬもののようでも、紛れもなくあの頃の自分が書き残した言葉なのだ。だから、心を〈空〉にするような静謐な状態とは正反対、〈忘我〉どころか、僕の呆けた頭には、過去のたくさんの自分が入り込んできて、そして頭蓋骨の裏を這いずり回っている。しかしそうだからこそ、そんな過去の死んだ自分たちの群れに埋没することによって、僕は現在の自分をすっかり忘れていられるのだ。
疲れる。今の自分には今の自分を語る力がない。もう止そう。力があろうがなかろうが、今の自分を語ることに、もうこれ以上の何の興味もない。
(1994/4/22)

あたかも、死装束をきちんと整えるかのように。しかし、目の前に開かられているこのノートは、はたして日記なのだろうか。何処へ行ったとか、何をしたとか、そういう日記らしい記述が、このノートには殆んど無い。
日がな一日ギターを弾いていた。芝居の旅へもギターを担いでいった。旅先の宿での酔態の宴、よろけた酔っぱらいに踏みつけられて、ネックが折れた。おかげでやることが無くなって、書く事を思い付いた。日記を書き始めたわけではない。ところがいつからか、何でもいいから毎日書こうと思うようになって、やがてそれが妙な強迫観念にもなってきて、そのうち僕は、このノートを自ら日記と呼ぶようになった。だが、やはりこれは日記ではない。日付を打って、そして毎日のように書いてはいるが、やはりこれは〈日記〉ではない。
ノートの多くのスペースは、その日に読んだ本の引用で埋められている。いわゆる〈日記〉に書くべきような現実の出来事に、僕は興味が無かったのだ。他人の文章の断片にちょっと感心してみる、それだけがあのころの〈僕〉だった。そうする事でしか自分を確かめる事ができなかった。それ以外の〈出来事〉はおよそ不本意だった。読んだ本から引用した文章、ただそれだけが、僕に書き残しておける現実の殆ど全てだったのである。短冊のように並ぶ他人の警句、時を隔てて今さらそれらをいくら読み返してみても、何も伝えてこない。そんなものを残す気などない。括弧でくくられた他人の文章は取り除いてみる。すると、後に残ったのは、青臭い、およそ貧弱な脳味噌の写し絵という有様なのだ。現実とは没交渉の肉体を持たない幽霊、それがあの頃の僕だった。あまりに稚拙な観念の亡霊、そういう訳だから、僕はこんなふうに、まず長々と《弁解》をしておかなければ、このノートを残すこともままならないのだ。
僕は、このノートを《子供たちへの手紙》として残そうと思う。僕が死んでも、やがていつか子供たちが父親の〈幽霊〉の呟きに耳を傾ける、そんな幸福を想像するより他に、今のところ僕には、目の前の死を乗り越えるすべを知らない。何とも情けない事なのだが。
(1994/4/23)
 

淳への手紙

 
いいこと、思いつきました。過去の日記を、小出しに、公開しちゃおう。
過去の個人的な文章を誰かに読んでもらうことについて、深くは考えない。いや、実は、ものすごく考えている、というか、考えたことがあります。そのことも、昔、日記に書いていた。だったら、それをそのまま公開しちゃえ。
要するに、頻繁にブログとやらを更新する時間が作れないので、既にある過去の文章を、埋め草に使ってしまおうって魂胆です。

「会社」なんてものとは全く無縁だった頃の自分は、「貧弱」だったのか、あるいは「豊か」だったのか。人様には興味ないことに違いありませんが、ままよ、です。

とりあえず今日は、今日のこと。
芳岡淳のバイクを売りました。淳は、放浪の旅の資金稼ぎのためにココで働いていた。旅立ちの日が決まって、あいつの乗っていたカブを、あいつの言い値5万円で買い取った。買い取ったその日まで動いていたカブが、あいつがいなくなった次の日から、魔法が解けたように動かなくなりました。それから、もう2年です。

「バイク買い取ります」という張り紙、電話したら業者はすぐやってきました。売値1000円。日本で修理したら高いので、外国に持っていって直すという。たぶん、西の方の、淳がうろうろしていそうな国に持ってくんだろうな。カブが、昔のご主人様の後を追っかけていくのだと思うと、ちょいとおもしろい。

あいつがいなくなる前の日、淳のもうひとつの置き土産の、シュタールの弦が切れた。おいおい張り替えていけよ。ところが、こいつがむずかしい。朝まで、二人で飲みながら、張り替える道具、作りました。
淳とは、よく語った。会社とは全く関係のないこと。旅について、インド仏教について、祈ることについて。僕は、昔考えていたことをしゃべった。あいつは、それを懐かしむように聞いていた。気がつくと、朝でした。

どこで何しているんだろう。シュタールは買い取った訳じゃない。預かっただけ。いつ引き取りにくるんだ。
そうだ、いつかあいつが帰ってきた時の酒の肴のために、まだあいつに語らずにいる過去を、このブログとやらに貼り付けておこう、公開する言い訳、一個、見つけました。
 

過去へ

 
もう週末か。
忙しいから更新できない。でも更新しないと、なんだかとても活気なく見える。
更新できないなら、やめたほうがいい。

いつなら会えるのかと聞かれれば、いつでもOKだと答える。でも暇なわけじゃない。ここ何年か、一日たりとも休んじゃいない。

社長とは、決断することだ、と、毎日わめいている。右か左か、迷ったら、どちらでもいい、さいころ振って進む。立ち止まって、答えが出るまで熟考などしない。熟考なら誰でもできる。熟考している間に、機を逃す。

分裂している。

あの頃の僕は、何かを探して、ただただ読みふけっていた。だが、答えはどこにも無かった。生きることは、罪なのだと思った。そして、その日読んだカミュの言葉を、ノートに書き付けた。

「語るということは、だから、いつもだれかを裏切ったということを前提としている」

語れば、誰かを傷つける。見つめれば、君はうつむく。そっと手をとれば、全てが壊れていく。
だから、できるだけ、ひっそりと生きていたかった。

過去を乗り越えてはいない。ただ、分裂している。
 

公開して後悔して、分裂して

 
「後悔」と打ったら「公開」と出てきた。つまらん。
やっぱり、すでに後悔している。誰に向けて、何を語ればいいのか。
ブログって、「ですます調」で書くものですか?自分で決めなさい。

会社を立ち上げる「破目」になった。
こういう言い方がいけない。誤解を招く。会社を立ち上げて、ホームページっぽいものを作ることになって、そこらあたりの経緯を、まずきちんと説明してから始めないと、だが、全く気が進まない。
いまどきの会社なら、ホームページくらい作んなきゃ、でも作りっぱなしでほっとくのはもってのほか、更新しなきゃ、てっとり早く更新するためにはブログ。わかったわかった、てなもんだ。

分裂しているのです。いたるところで。
「会社とは」とか、「社長とは」とか、この1年でいくらでも語れるようになりました。そして、それを信じるふりをして走り続けるしかない。しかし、毎夜寝付く前には悶々としている。お前は、ほんとにそんなこと信じているのかと。
「社長って呼ばれるの、大っきらいなんです」
そういって、かろうじて、もう一人の自分に弁解しているのです。

たしかに、そう思っている、嘘はないのです。それを言葉にしてみることには、いろんな効用がある。でも、それは日記でじゅうぶん事足りる。わからないのは、それを、こうして「ブログ」とやらで公開すること、そんなことしていいものなんだろうか。
分裂は、「ブログ」とやらをきっかけに、増殖を始めたらしい。
何かおもしろくなりそうだ、という、とてもいやな予感があります。
 

裏ブログ“社長とは呼ばないで”のFirst Item

 
表のブログを書くことが、どうしてもしっくりこなくて、それで裏ブログを開設してはみたのだが。

ちょいとインターネットの世界を、「社長とは呼ばないで」で検索してみた。そうしたら、結構ヒットした。
つまらんと思って、しばしまた停滞したのだが、といって他にいい考えがあるわけでもなし、「ままよ」と、この名前で始めることにした。
ブログというものを、ちっとも理解しちゃいない。

きっと、理解なんかするものでも、できるものでもないのだろう。
しかし、たくさんの弁解を用意して、そいつらを披歴してからじゃないと、自分のつぶやきを世界に向けて公開するなんて、とても恐ろしくてできやしない。
しかしながら、それもまた、ままよ、である。
時間がない。ともかく、動かしてみる。もしかすると、取り返しのつかないことになるのかもしれないが、それでもいいと踏ん切った。あれ、「ふんぎる」って、この字なのか? まあいい。いきなり下品なのも気が引ける。このままいくことにするさ。

ともかく……
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