社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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都立駒場高校 生徒総会 《その4》

 
それから数日後のことでした。
都立駒場高校の各教科の研究室は、校舎の1階にありました。暗い廊下側にはそれぞれ一枚の扉があるだけで、どれも大概は閉じられていて、よそよそしい佇まいでしたが、その反対側は、大きなサッシの窓と扉がしつらえてあって、植え込みなどが点在する日の光いっぱいの中庭へ直接出られるようになっていました。教官たちはそこから表へ出るときに履くためのサンダルなどを各々準備していて、それをコンクリのタタキの上に並べていました。中庭といっても、閉鎖された空間ではなく、自由に通れる開かれたスペースでしたから、そこはいつも生徒たちの声で満たされていました。
なにしろ30年以上も前のことなので、記憶が定かではないのですが、放課後だったのか、あるいは定期試験後の休みの期間だったのか、いずれにしろ授業からすっかり解放されていた時間だったと思うのですが、それでもクラブ活動などあるのか、その時も、中庭は生徒たちでそれなりに賑わっていました。
そんな通りすがる生徒たちにはお構いなく、という感じで、中庭の社会科教官室の前では(というか裏ではというか)、社会科の教官たちが車座になって酒盛りをしていたのです。
なんとも大らかな光景。今のこの時代に同じ事をやったら、いったいどんな騒ぎになるのだろう。しかし、30年前の生徒たちは、特に何を思うでもなく、ちょっとした言葉を交わしたり、あるいは黙ってその脇を通り過ぎていきました。
僕も、別段なんのこともなく、ただ通り抜けるだけのこと、あるいはひとことふたこと何かしゃべったのかもしれませんが、そんな僕を、世界史の山村が呼び止めたのでした。
「世界史の山村」と呼び捨てすることに、他意があるわけではありません。今は知りませんが、当時の都立高校の教師の中には、予備校で教えている人も多くいて、彼もごたぶんに漏れず代々木ゼミナールで教えていて、「代ゼミの世界史の山村」といえば、受験を控える高校生の間ではよく知られた呼び名でした。
僕を背後から呼び止めた「世界史の山村」は、ここへ座れと、彼の左隣に僕を招きいれました。さすがに酒をすすめられたという記憶はありません。しかし、社会科の「河合のばあちゃん」には、「あんた貰いタバコはだめだよ」としょっちゅうご注意を頂いていたし、演劇部の「池尻さん」とは、何度も一緒に飲んでいたし、もしかしたらその時もビールの一杯くらい飲んだのかもしれませんが、どっちにしても記憶にとどめる必要のないほど、酒や煙草について、大らかな時代であったということです。
既にかなり酔っていた「世界史の山村」は、そのとき僕に、こう語ったのでした。

この前のな、生徒会のことだ、あの時、俺はな、お前をぶん殴ってやろうかと思ったんだ。でもなあ、俺は思った。お前は、ああするしかなかった、ああするしか、他にしようがなかったんだ。

「世界史の山村」は、一切僕の見解を聞こうとはしませんでした。ただ左手で僕の肩を抱き、僕の顔を見ることも無く、右手に持ったコップに注がれ揺れて波立つ安酒をただ見つめたまま、何度も何度も同じことを繰り返していたのです。

何故僕は、芝居などという世界で生きていくことにしたのか、いくら考えたって答えが見つかるわけじゃありません。しかし僕は、人様から「何故お芝居を」と聞かれる度に、この日のエピソードを思い出します。
そうして、いつからか僕は、「何故お芝居を」という質問に対して、この時の「世界史の山村」という教師の言葉が、僕を決心させたのだと、もっともらしく答えるようになっていたのです。
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だから、だから、だから。

 
26日の三太郎の置手紙に触発されて、27日は、その日あった本当の出来事を、「社長」として久しぶりに報告するはずであった。
しかし、その日あった本当の事を、ブログなる手段で報告するのは、いやはやなんとも困難な作業だ。
だから、その日は、連載コラムでごまかして、1日考えた。
ある人が、苦しかったのだ、と言った。しかし、本当にその人が苦しかったのかどうか、それはわからない。疑わしいもんだという人がいる。いずれにしても、なまなましすぎるのだ。
だから、なまなましさの薄れた過去の言葉を埋め草にして、もう1日考えてみることにした。
盛り場は、おじさんたちの「本当のはなし」で満ち満ちている。愛すべきおじさんたちのたわいもない哀しい話。だが、ネットの世界に同じようなことを書き込むと、とたんにいかがわしくなる。
その違いの理由を並び立てることはいくらでもできるが、それを語りたいわけじゃない。ある人の苦しみについて、感じたことを伝えたいだけだ。
だから、毒を抜いて一般化してみようかなんて企てるのだが、そうすると、とたんに何も感じなくなる。
だから、ドラマに仕立てる。リアリティーなどと言ってみる。芝居を運動とする者は、この地点にたどり着いて安住するが、実はカタルシスが、世界を変えたい人々のガス抜きの役割をしていて、結果的に世界を変えたくない人々の(そんなものがいればのはなしだが)手助けをしているのかもしれないのだ。
だから、だから、だから。
そうして、隠喩となる。言葉に神秘的な力を吹き込んでみる。
しかし、だれにでもできるような仕業ではない。詩人とは、特殊な能力を持った、選ばれた人々のことだ。
僕は、残念ながら詩人ではない。だから、僕の虚構の言葉は隠喩ではなく、ただのシャレにしかならない。だから、誰も傷つかないが、誰も変わらない。
しかし、現実の言葉は、いつもいつも、誰かを傷つけている。ある人の苦しみと同じ苦しみを抱えながら。
疑わしいもんだという人がいる。
だから、だから、だから。
 

(再掲)《1983年夏 避暑地のノート》

 
暖炉の火、ウィスキーのグラス。
「去年マリエンバードで」 の、あの棒消しゲームの必勝法を発見する。だが、その形而上学的な矛盾。

矛盾を解消しようとやっきになるわけでもなく、矛盾を容認するのでもなく
自然に抗するのではなく、自然に従うでもなく
自然というもの、の、矛盾というもの、を、ただ、見つめている。

何かひとつ見えるようになると、何かがひとつ見えなくなる。いろいろな人がいて、それでいいと、何故思えないのか。

 〈テニスやらない?〉
 〈コーヒー飲み行かない?〉

そんな誘いを聞き流し、僕は籐椅子に半ば寝そべって、「空想より科学へ」に目を落としている。

宗教と信仰と、そして…… 夏の予感。

二年目の、芥子の花の香。美しい少女は芸術家の婚約者。海と高原の贅沢なアンバランス。喉の渇きとビールの空缶。白いワンピースの胸元。めくるめく煙。原因不明の とめどないクスクス笑い。解放され、そして限りなく弛緩してゆく。彫刻と粘土についての形而上学。蝋燭の炎の薄明かり。肉体を離れ宇宙を彷徨うもの、それはかつて「精神」と呼ばれていたものの残党。柔らかいガラスの手。その恍惚の感触の〈思い出〉。

《夏の「思い出」についての、厳粛な冬の連想ゲーム》
僕の「思い出」を否定する敬虔な女、その名はアリサ。君には千里眼があるらしい。

求めなくてはならないのは、心の解放ではなく、その高揚です。心の解放にはいとわしい誇りの気持ちがつきまとっている。大望は反抗のためにでなく、奉仕のために使わなければなりません。
 ……アンドレ・ジイド「狭き門」の〈アリサの手紙〉。

しかし……

ジャンヌ・デュヴァル。…色と香りと和音。
「悪魔」でも「神様」でもかまわない。「少しでも世の醜悪を少なくし、時の重みを減らすなら」

「自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」、と芥川竜之介は言う。
「あらゆる芸術の極意はこの末期の眼であろう」、と川端康成は言う。
死に抗し続けた末にある、死を越えた〈価値〉、と僕は考える。

 「コンナトコキテマデ、ソンナノヨンデンノ、クライノネ」
 「ちょっと気を抜くと、明るくなっちまうからさ。」
 (自殺について考えて……)
 「これで今日一日暗く過ごせるだろう」(と笑う。)

夏があり
ひとつの夏があり
それぞれの夏があり
歪んだ夏があり

夏は時として夏ではなく
 (だからといってどうということでもなく)
僕は夏の黄昏にのみ住みたいと思い
 (だからといってどうするでもなく)

僕は時として僕ではなく
黄昏だけがここにある

いつしか僕は盲となり
誰知れず黄昏だけはどこかにある
(1983/8/7)

 

都立駒場高校 生徒総会 《その3》

 
僕は司会者に決然と言い放ったのです。

君は一体、何を言っているのだ!
さっきまで、この体育館の後ろの方が、どのような状態になっていたか、君はわかっているのか。この台上で、こそこそ話されていた君たちの言葉は、一言たりとも僕らには届かず、結果、何機もの紙飛行機が飛び交っていたのを、君たちも気づかなかったわけではないだろう。
どうすれば聞いてもらえるのか、君たちは何故そのことをまず考えようとしなかったのか。
どんなご立派なことを語っても、聞いてもらえなければ、何にもならないではないか。
見ろ。今、この体育館に集まった者の全てが、この僕の言葉に耳を傾けている。これを、君はどう考えるのか!!

見事でした。体育館の舞台の小ささがどうのこうのという、いまさらいかんともしがたい話題を持ち出して、ただウケを狙ったような話に仕立て上げ、その緩んだ空気に気を許して、思わず言ってはならないシャレを口走ってしまった敵のミス、そこを逃さず捕らえ、ついに隠し持っていた本題を突きつける、敏腕弁護士が仕掛けた罠に、まんまと引っかかった原告側証人は、ただ沈黙するしかないというような、まさに痛快な結末でした。僕こそが数分前に紙飛行機を飛ばしていたという事実も、僕の主張を覆す根拠にはなりえません。君たちの言葉が、この僕にまで、ちっとも届いてこなかったのだよと、そう告げればいいだけのことなのだから。そこに、モラルの問題があるにしてもです。
そうして、体育館は、さらなる喝采に包まれていったのです‥‥

ひどいものです。聞いてもらうことが重要だなどというもっともらしい「本題」だって、ただその場のとっさの思いつきに過ぎなかったのだから。
「ここは、演劇の練習をするところではありません。」
優秀な後輩よ。君の洞察は確かに正しかった。但し、半分だけ。後の半分が間違っていた。
僕は演劇の練習をしていたのではない。あの舞台は、結果的に、僕の一世一代の本番だったのだ。

歓声の中、僕は英雄気取りで颯爽と舞台を後にしました。
しかし、その姿を、苦々しく見送っていたのは、ただ生徒会の役員たちだけではなかったのです。

《その4》へ続く
 

三太郎の置手紙

 
すこし社長業とやらにお戻りになったらいかがでしょうか。
わたくしは、貴方様のお名前を失念いたしました。皆、クサバノカゲよりご心配申し上げております。

貴方様のブログはアンタッチャブル、誰も触れることのできない貴方様だけの作品。
なぜって、コメントできないような設定になっていますもの。
貴方様は、このわたくしに三太郎なる名前をお付けになって、そうしてわたくしにだけ好き勝手なことを言う許可をお与えになって、それで世界とつながっているのだという満足をお感じになっているらしい。
あさましいペテン。
いえいえ、尊敬しているのでございます。わたくしなぞとてもとても、貴方様の足元にも及びません。
ただただご心配申し上げているのでございます。貴方様はいったいどこへ行かれようとなさっているのでしょう。
閉ざされ、完全に守られた、貴方様だけのブログという小箱の中で、屍となり腐ってゆく貴方様を見るのは、忍びないのでございます。
無縁仏に、花手向けることくらいは勿論いたしますけれど。

ななしのごんべえというなのこゆうめいし

大変失礼いたしました。どうかお忘れを。傍若無人な口調が貴方様のお好み。今日の私の戯言は、からくり人形の軋み、そのように思し召しくだされば幸い。

振り向くと、ごみ箱からこちらを覗く三太郎が、ペロッと舌を出した。
 

(再掲)《1983年の僕を1994年の僕が解釈する:4》

 
【1983年の自己を解釈する(4)】
「愛」など、どこにも無かった。だから、「苦しさ」の感覚だけが辛うじて僕の「精神」を「肉体」につなぎ止めていたものだった。その「苦しさ-肉体」を媒介として、「風景-外界」と交信し得る可能性が僕にもあった。しかし、「苦しさ」までも手放してしまった僕は、外部との通路を、完全に失ったのである。僕はそれに気づいていたのか。いや、そうではない。「愛」や「苦しさ」以外にも、世界と交渉する手段はいくらでもあるのだという事を、僕は知っていたのか。きっと気づこうとせず、知ろうとせず、甘えていたのではなかったか。
 

(再掲)《1983年7月23日のノート》

 
東京。熱帯夜……。
苦しくて、自分の無能さに愕然として、それで〈自分〉で哲学することは放棄して、〈他人〉の出来合いの哲学で、この傷口を塞ごうと、デカルトだ、パスカルだ、ショウペンハウエルだ、しまいにはマルクスだ、何だかんだと、うろついてみた。すると、どういう訳か〈哲学〉はますます遠く逃げ去ってゆく。例えばマルクスは、もっと親しい存在だったはずなのに、今は見知らぬ他人のようだ。僕から〈哲学〉が抜け落ちてゆき、次第に〈哲学〉に対する渇望も薄れてゆく。
〈哲学に携わっていた哲学者〉と〈哲学者に携わっている哲学教授〉、誰かがそんな区別をしていた。

《パスカルの分類》
民衆
半可通の学者
知者(熱を持たぬ知識)
敬虔の人(知識より熱を多く持つ人)
そして全きキリスト者……
 
きっと僕は、押し潰されたのだ。
〈偉大な苦悩〉とは、いったいなんのことだろう。それは、もはや全く手の届かぬものとなった。その代償として、僕は僕の小さな苦しさから解放され安息を得た。それをこそ求めていたのだが、同時に、あの何気ない風景への感動も消えてしまった。あらゆるものが、自然さえも、僕と何ら有機的関係を持たず、色を失って、僕の中か、あるいは外にか、抽象として没してゆく。残ったものは、具体的な活字と、この薄汚れた生活だけだ。
もう、苦しくはない。だが、少しばかり、疲れている。

「旅立ちの前の世界は、彼にとって一個の観念であったが、旅からすでに帰った次郎は、世界を彼の不在で充たしていたのである。」(三島由紀夫「旅の墓碑銘」)
(1983/7/23)

 

三太郎カムバック

 
三太郎は、企画室の冷蔵庫を勝手に開けて、手前に並んでいる発泡酒には目もくれず、一番奥に隠してあったエビスを引っ張り出して飲んでいる。

要するに、原罪ってやつにがんじがらめになってるんだってポーズつけてるわけですやん。

なんだ、その語尾は。お前はいつから関西人になったんだ。そうか、お前は、このブログの最初の方しか読んでねえな。

あっ、あんたはん、自分でブログって認めなはったなあ。

人を指差すのやめろ。

あんな重ったるい文章、誰が好き好んで読みますかいな。お客さんにブログ、続けて読んでもらお思うたら、もうちっとサービスしなはれ。

てめえは客じゃねえだろうが。

おいどんは、何者でもなかとですばい。

三太郎は、エビスをグッと飲み干して、空になったアルミ缶を、俺に向かって投げてよこした。三太郎を乗せたアルミ缶は、俺の右耳をかすめ、俺の背後にあるゴミ箱に、三太郎ともども吸い込まれていった。

はたして、三太郎は実在する人物なのか、それとも、この「ブログ」にのみ登場する空想のキャラクターなのか、そんな詮索は無駄である。トリックスターは、易々と現実と虚構の境界を越える。奴にとっては、過去と未来の区別もない。
このゴミ箱は、いったいどこにつながっているのか。虚構の世界へか、過去へか、未来へか。あるいは、現実へか、すると、今俺のいるこの世界が虚構なのか。

しかし、眼前に拡がる空間が現実であろうが虚構であろうが、この歳になった僕にとって、過去は、未来よりもずっと重く現在の僕にのしかかっている。「お客さん」にどう思われようと、三太郎に「原罪のポーズ」とひやかされようと、もう少し、この「ブログ」の埋め草に、僕の過去を使おうと思う。

情けない。三太郎がいなくなると、俺はすぐに僕になる。

三太郎、今度は、おとといか、あさってくらいにやってこい。

いちばん古い《過去のノート》へ
 

都立駒場高校 生徒総会 《その2》

 
その一瞬間の全き静寂の後、寄せた波が返す時の音ように、体育館には緩やかな笑いのざわめきが起こりました。それは何故か。今壇上に立っている男に、心ならずも妙に引きつけられてしまった、そしてそれが、今この場に集まっている全員の共通の状態だということに、静寂を作り出した張本人の一人ひとりが、やはりほぼ同時に気づかされたのです。生徒集会には、およそ場違いな集中力の集合体が生み出した静寂、その緊張が自嘲的な笑いによって解きほぐされた瞬間でした。
しかし、彼らの壇上の男に対する興味が失われたわけではありません。
僕は、解放された笑いのざわめきがおさまるのを、静かにじっと待ちました。いまや、完全にリラックスしながらも、なおこの僕にしっかりと目を向けている聴衆、表現するものにとっては、ほぼ完璧なシチュエーション。僕は、おもむろに語り始めたのです。

何をしゃべったのか、あまり良く憶えてはいません。いずれにしろ、たいした話をしたわけではありません。しかし完璧なシチュエーションがあれば、たいていの話は大ウケします。
東京都立駒場高校は、保健体育科などもあり、体育については特に力を入れている学校でした。そんなわけで、それまでの古い体育館兼講堂は取り壊され、当時の都立高校にしては不釣合いなほど立派な体育施設が新しく建てられました。その中の大体育室で、生徒総会はとりおこなわれていました。
僕は、その舞台に立っていました。しかしそれは、体育室の一辺の壁を穿っただけの極めて貧弱なもので、殆ど演台にしか使えない代物だったのです。ぼくは、そのとってつけたような舞台を、ちょいと茶化してみたのです。
間口何歩、奥行き何歩、大またで歩測しながら、こんな狭い空間で、芝居なんかできるか。
聴衆はやんやの喝采。保健体育科の生徒たちも笑っていました。要するに、ちっとも真剣な話じゃなかったということです。
大きな予算で都が建設した施設。それが出来上がっちまってから、それについて生徒会で文句言ってみたところで、どうかなるものではありません。生徒総会とは、今度の文化祭をどうするかとか、放課後の校庭の使用について、どのように各運動部に割り当てるかとか、そういう地道なことを取りまとめて決める機関です。僕のパフォーマンスは、単なる余興でした。聴衆は、僕の悪ふざけに付き合って楽しんでいただけです。

生徒総会を取り仕切る2年生、生徒会長だったか、書記だったか、さすがになかなか優秀な男でした。僕に好き勝手にやるだけやらせておいて、区切りのいいところを見計らって、彼は僕にこう言ったのです。
「高山さん、ここは、演劇の練習をするところではありません。」
たしかに彼は優秀でした。それが証拠に、この彼の言葉にも、笑いと喝采が起こったのですから。
しかし、彼は誤算していました。彼がもし政治家になりたかったのだとしたら、こう言うべきだったのです。
「ありがとうございました。ほかにありませんか。ないようですね。ずいぶん時間も押してしまいました。ごめんなさい。これで散会とします。」
そして、僕を舞台の真ん中に置き去りにして、そそくさと退場する。そうすれば、君の大勝利だったのだ。しかし、残念ながら君は、僕の大ウケの演説に影響されて、柄にもなく、ちょっと余計なことを言ってしまったのだ。
「高山さん、ここは、演劇の練習をするところではありません。」
飛んで火に入る夏の虫。君は、僕の闘争心に火をつけた。僕は、この戦いに何の不安もありませんでした。完全なシチュエーションに置かれた聴衆を味方につける術は、君より僕のほうがはるかに秀でているのだから。実生活の人間関係は苦手だとしてもです。

《その3》へ続く

 

(再掲)稲垣足穂的埋草《1987年1月20日のノート》をコピペ

 
船底部屋の小さな丸窓の外はもう暗い。仄かに浮かぶ工場の影が動き始めたところを見ると、どうやら小倉へ向かうフェリーも、近頃あの新しい病気で話題の神戸の港を出航したらしい。相変わらず頭痛がするから、寝てしまえばいいのだけれど、それほどつらくはないし、何かに追い立てられているようで、時間がもったいないような気もして、それで稲垣足穂を読み出した。この軽さが丁度良い。
 
今や問題は性ではなく暴力だ、とインポテンツの僕は考えた。足穂の文庫本を脇へ置いて、僕は連想ゲームを始めたのだ……

《稲垣足穂に対する反ニーチェ的反応》
カラフルなイルミネーションで飾られた夜の神戸の繁華街を青白く照らす月。その月が沈んで、太陽が月に替って朝になれば、そこは実は生ゴミの山。事務所の中では頬に傷のあるそのスジの男たちが金勘定しているのだ。結局問題は、月が本当は三角形であって、その三角形の月が非常な高速で回っているからこそ、月は丸く見えるのだという事にあるらしい。○が△を隠している。もはやわかりきったことだが、つまり性の実体は暴力であるということなのである。だがしかし、踊り子のバタフライは三角形ではないか。そうか、今や○(見かけの月=性)が△(真実の月=暴力)を隠すのではなく、△(暴力)が、あるいは▼(バタフライ=暗黒の暴力)が○(性)を隠すのだ。バタフライは生ゴミを覆うイルミネーション、そしてそれは、売春宿に行けずにストリップ小屋に通う哀れな不能者たちの象徴なのだ。タルホ氏の教えによると、こうした事を研究するのは、物理学者以外には適任者はないのである。そういう訳だから、この頭痛の原因がたとえ煙草だとしても、僕は物理学者として、どうしても煙草を止める訳にはいかないのである。

何故日本初の患者がこの神戸から現れたのか、なるほどそういう事であったか。つまり……

1)現代のペストを恐れてインポテンツとなった男たちは、売春宿から遠ざかりストリップへと走る。
2)バタフライは三角形である。
3)月が三角形である事を発見したのはイナガキ・タルホである。

これだけ資料があれば答えを出すのも簡単である。つまり、〈稲垣足穂=INAGAKI・TARUHO〉の化身たる〈大浦近蟹=OHURA・TIKAGANI〉は、何を隠そう神戸産の蟹なのである。これこそ物理学者としての、僕の最初にして最大の発見である。

今夜、大浦近蟹の生息するという静かな瀬戸内海の上でみる夢は、タルホ氏の言うように、本当にいつもと違うのだろうか……、ほんとうに。
(1987/1/20)

 

都立駒場高校 生徒総会 《その1》

 
僕が18歳の時のことです。
東京都立駒場高校の、新築されたばかりの体育館で、生徒会主催の総会のようなものが開かれていました。確か春ではなかったかと思うのですが、定かではありません。2年生が運営進行していたので、もしかすると3年生が引退した後の秋のことだったのかもしれません。
舞台では、2年生の司会者が、なにやらしゃべっています。総会といっても、悪がきどもや、世の中を斜に構えて見ているような連中は、いつものごとく欠席、たぶんどっかの喫茶店で「煙草」でもしていたのでしょう。ただ、何故か僕は、その日魔がさしたのか、喫茶店の「煙草」には参加せず、体育館のうしろの方いたのです。
体育館にちゃんと集まった連中が真面目なのかといえば、そうでもありません。僕の周りでは紙飛行機が飛び交っていましたし、前の方はいざ知らず、後ろの3年生のほとんどは、今壇上で行われている議論なんか、ちっとも聞いていませんでした。
「何か質問はありませんか」
司会者が、性能の悪いマイクを通して問いかけます。形式的な問答、儀式みたいなもんです。
通常なら、「それでは、散会とします」と、司会者が力なく宣言して、生徒たちは、この退屈なだらだらとした時間から解放されるはずでした。
ただ、その日の僕は、魔がさしていたのです。僕は、体育館の舞台から一番遠い真後ろで、「ハイ!」と元気よく手を挙げて立ち上がったのです。
質問なんかありません。だいたい今の今まで、何を議論していたのかさっぱりわからない、だって何も聞いちゃいないで、紙飛行機を飛ばしていたのですから。
「はい、高山さん、どうぞ」
僕は、2年前の文化祭で、演劇部の主役に抜擢されて以来、ちっとも人気ものではなかったが、学校では有名人でありました。その舞台を見ていない下級生も、なぜか僕を知らないものはほとんどいませんでした。
体育館の真後ろから、演台に向かって、僕はゆっくりと歩き始めました。モーゼとまではいきませんが、すっと、生徒たちの海の真ん中に、人ひとり通れるほどの道ができました。誰かが、手拍子を始めました。僕がほぼ半分ほど進み、体育館の中央に達した頃には、その手拍子は、じゃっじゃっ、という大きな塊となり、舞台脇の階段を昇るにいたっては、大音響で体育館に鳴り響いていたのです。
僕が壇上に上がると、手拍子はだんだんと小さくなっていきました。僕は、ほんの少し首をすくめて、所定のマイク位置からちょっとズレた位置まで進み、そこで、すくめていた首を、すっくと伸ばして正面を見据えました。
ぱらぱらとなっていた手拍子の残響と、ひそひそと交わされていたおしゃべりのかすかな喧騒の束が、その時ピタッと止み、一瞬間、完全なる静寂に体育館全体が包まれたのです。
《その2》へ続く


本記事は、書きためてある「過去のノート」のコピペではありません。会社の業務、並びに新作「注文の多い料理店」の歌の練習に、たった今から出かけなければならず、したがって一気に書きあげることママならず、やむなく連載記事といたしました。
 

「作家の日記」と大説「南」

 
三太郎が言った。
「おかしいっすよ。会社のサイトのブログにこんなこと書くの。わっけわかんないもん。」
そんなきんきん声でわめくな。じゃあ、なんで俺の企みの片棒担ごうってんだ。三太郎は、ニヤニヤしている。

このホームページを、ちょこちょこいじってくれているチェロ弾きの大島君は、三太郎の突然の登場に戸惑った。
「なんだ、この三太郎ってのは。ま、いっか」
と、ご意見ご感想フォームなんかを、深夜、直してくれている。

ライバルはドストエフスキーの「作家の日記」。金芝河の大説「南」も忘れちゃいない。
また、わけのわからないマニアックなこと持ち出してかきまわす。
金芝河の大説「南」、もしお読みになりたい方がおありなら、「ご意見ご感想フォーム」にて御一報を。
その他の投稿もそちらからどうぞ。

わっけわかんねえ(三太郎)

三太郎、まず、君が投稿しなさい。俺がこんな乱暴な口調になったのは、お前さんが文体だなんだかんだと言い出したからだ。責任取りやがれ。

なお、社員たちは、わたくしのブログについて、
「申し訳ありませんが、さっぱりわかりません」
と、口をそろえて言っております。つまり、みんなまともでありますので、どうか取引会社の皆様、くれぐれもご安心くださいますよう、お願い申し上げます。
 

三太郎がやってくる?

 
少しばかり急がなきゃならない事情がある。
そんなわけで、本当は6月29日の出来事なのに、それを6月18日の日付で、とっとと公開することにした。いかさまも、ここに極まれりだ。
急がなければならない事情っていったい何だ? 三太郎の言葉を借りて、ミステリーということにして、暫らく、うっちゃっておこう。

三太郎は、俺のブログをミステリーだと言ったのだ。それはいいとして、文体が椎名麟三だとぬかしやがった。おもしれえ、受けてたってやろうじゃねえか。ちょうどいい、俺としても、独り言に飽き飽きしていたところなんだから。
毎日飲んだくれてろ。へらへら笑ってろ。ただし、軽やかに。そうして、俺を、的確に嘲笑え。赤ら顔のピエロは神出鬼没、王女の寝室で、昼まで眠っていてもいい。トリックスターが、この国を、救う。
 

沖縄への手紙

 
拝啓
沖縄では、大変お世話になりました。色々とお骨折りくださり、どのような感謝の言葉を申し上げればよいのか、ほんとうにありがとうございました。お礼のお手紙、今日までお送りできませんでしたことも、心よりお詫びいたします。
少し語りすぎたと反省しているのです。黙っていれば通り過ぎてしまえたものを、語ったばかりに、却っておおきな空洞を置いてきてしまったようで、それをどう説明して埋めればよいのかと、ずっと考えていたのです。
僕は、貴方様と沖縄でご一緒させていただきながら、実は、ある光景を思い出しておりました。
もう何年になるのでしょうか、義理の父親が他界し、その葬儀に出席した折のこと、僕は、ただ故人の長女の連れ合いであるという理由だけで、遺族の中心にいなければなりませんでした。その反対側には、義父の生まれ島から駆け付けた、たくさんの方々が並んでいらっしゃいました。
その光景。
正直に言います。僕は、その光景の「風貌」に、圧倒されていました。
ああこの僕は、ここでただひとり、異質な存在として、無言のうちにはじかれている、と、強烈に感じたのです。
空の青は異様に深く、仏桑花の色は、限りなく黒に近い赤でした。隣の妻も、その時は全く見知らぬ他人だったのです。
その光景。

もし貴方様が島の方であったなら、そんな光景を思い出すことなどなかっただろうと思うのです。しかし、僕は、貴方の中に、自分と同じ「沖縄でないもの」を見つけました。すると、あの忘れていた光景が、蘇ってきたのです。

一度分裂した精神は、二度と元に戻ることはないと、何かで読んだ記憶があるのです。これって、誤解を招く表現ですね。分裂症は治らないというような意味に受け止められては困る。全くそうではありません。僕は、この言葉をこう理解した。一度名づけられたものは、その名前から逃れることができないというふうに。名づけるという行為は、そのものを他のものから区別することにほかならない、つまり、そのものは「他」から分裂させられるということなのです。
分かりにくくてごめんなさい。うまく伝えられない、いつものことです。貴方様が、僕のブログを読んでいるなんておっしゃるものだから、そんな人などいるわけないと思っていたものだから、しかし、僕の言葉は、ほんとに貴方様に届いているのでしょうか。

自分の名前を、忘れることはできるのです。僕は、あの光景を、忘れていたのです。

貴方様にお預けした、山猫合奏団の企画書ですが、僕はそれにこう書きました。
「未だ名前のないわれわれのジャンルに、新たな名前を与えてください」
大嘘なのです。名前を頂くことは、できればずっと御遠慮申し上げたい。永遠に母体の子宮のなかで眠る胎児でいたいのです。しかし、人間は生まれなければならないし、生まれたものは、名づけられなければならないのです。

僕は、たくらんでいます。このブログとやらを使って、引き裂かれた自己を、引き裂かれた世界につなげてみようとしているのです。
僕は、過去の僕自身の叫びに、耳を傾けます。そんなふりをして、僕は、たくらんでいるのです。

ニートと呼ばれる少年たちと、莫大なお金を手にする若き起業家たちとは背中合わせです。父親は、息子に何かを伝えなければなりません。昼と夜とは、交互にやってきます。未来は、やがて過去になる運命を背負っています。

沖縄にただ抱かれていても、沖縄は何も伝えてはくれません。自らの中にある「沖縄ではないもの」に気づかない限り、沖縄は何も伝えてはくれないのです。
そのことを、僕は、貴方様に沖縄で会って、久し振りに考えているのです。

ただし、沖縄の人に愛され、沖縄に癒されたいのなら、「沖縄ではないもの」に目を閉ざすことです。生まれることのなかった名もなき子どもこそが、どんな名前の人間よりも愛されるのだから。愛されたい僕にとって、僕のたくらみは、きっと棘の道なのです。でも、もう引き返すことはできません。

また、沖縄でお会いできる日を楽しみにしています。御迷惑でなければ。    敬具
 

(再掲)《1983年の僕を1994年の僕が解釈する:3》

 
【1983年の自己を解釈する(3)】
考えれば考えるほど苦しくなった。問題は、ユートピアの無い事ではなく、どうやってこの苦しみから逃れるかということだった。
「もはや普遍的な真理などどうでもよい、僕は、僕自身が救われることのみを切実に望んでいる。そして、もしかすると、あらゆる哲人が求めていたものも、結局のところ、自らの救済でしかなかったのではないのか」
思索の森へ続く道は、迷宮の入り口に思えた。しかし、辛うじて生きて歩ける道らしきものも、そこ以外には見つからなかった。

 

(再掲)再び……《1983年7月9日のノート》

 
哲学者は、感情を置き去りにすることによって体系を構築した。彼らは合理主義者観念論者と軽蔑される。だが僕は、「彼らの隠された感情と苦悩をその行間から読み取ろう、そのためにこそ、彼らの辿った思考の道を歩み直すのだ」と意気込んでみた。ただそれだけが残された道だった。
だが、行間にはこう書いてあった。
「厳密たらんとする者、行間など読むな」。

苦しいのだ。「理性」が当惑している。そんなものが、まだこの僕にあればの話だが。
ふと、洗面所の汚れた鏡に目をやると、「狂気」が僕をうかがっている。僕は、訪れた恐怖に硬直する。

ああ、どれだけの人間がユートピアを夢見たことか。もしも全ての人間にとっての唯一絶対の真理があったなら、そして何者かによってそれが解明されたとしたら。人々は考えることをやめ、人々はついに現れた絶対的なものに身を任せ、人々は至上の安らぎの中で静かに憩うのだ。なぜなら、思考とは苦悩の別名なのであり、だとすれば、思考の無い世界こそがユートピアなのだから。

そうだからこそ、例えば仏教は、仏典を唱えさせ、宗徒たちに「空虚」を与えようとするのだ。
はたして、衆生は、仏陀よりも幸福であろうか。

苦悩の昇華が芸術であり、最も根元的苦悩の昇華こそが最も価値ある芸術を生む、やっと見つけた理屈、僕は、それに最後の希望を託してみた。だが、限界なのだ。僕は、あの苦しさに、もうこれ以上耐えられない。

ここ数ヶ月の苦しさ、ほんの少しは薄らいだのだろうか。苦しさがどれほどのものだったのか、今となっては量るものがない。

ここ数ヶ月の苦しさ、それは苦しさを苦しむその苦しみ。
唐突に何気ない風景に感動した記憶、ほんとに微かな朧げな思い出、そして、僕はその時、その〈わけ〉を確かに知っていたはずなのに、あれは、熱病の狂気の中で見た幻聴だったのか。
確かに、僕は、聴くべきものを見たのだ。

僕は、訪れる「狂気」の予感に、弛緩している。
(1983/7/9)


 

(再掲)coffee break《1984年3月24日のノート》

 
太宰治「僕はね、お道化を演じて、そうして人に可愛がられたのです。でも、あの淋しさはたまらなかった。空虚だった。」
アンドレ・ジイド「愛サレテイナカッタノデスカ?」
太宰治 「どうかな、でもそう思い込んではいた。」
別役実「誉められるけれど、決して愛されない人間でした、僕は。」
太宰 「いずれにしても、そんなことはどうでもよくなっちまった。十六才になったらカタリと変わった。悪の存在が、困難な問題がわかったんです。」
ジイド「ツマリ、愛ノ問題デハナイトイウコトデスネ。」
太宰 「それもどうかな。ともかく、そうしたら毎日不機嫌になった。知恵の実を食べると、人間は笑いを失うものらしい。」
ジイド「ソレハ私モソウ思イマス。マコトニ幸イナルカナ、己ガ幸福ヲ知ラバ、トイウノハ、べるぎうすノ句デスガ、シカシ私ハ、マコトニ幸イナルカナ、己ガ不幸ヲ知ラザリセバト言イイタイノデス。」
太宰 「でもね、それだけじゃ当たり前過ぎてつまらない。その先があるんだ。僕は戦おうと思ったのです。知恵の実は孤独の他に怒りをも教えてくれたのだ。」
ジイド「ソシテマスマス愛カラ遠ザカル……」
別役 「陰険な精神は武器になるのですよ、きっと。」
ジイド「主ハ、微笑ヲモッテ正義ヲナセトオッシャッタ。」
太宰 「そうできれば爽快でしょう。だが僕は正義ではなく真理の話をしているのです。真理の発見は人間に爽快な快楽など決して与えやしない。知恵の実は苦しいものなのだ。」
別役 「あなた、ことさら演技していませんか。あなたの愛しているのは本当に知恵なのですか、それともそういうあれではなくて……。」
太宰 「たぶん、僕には不幸を愛する傾向があるんだね。」
別役 「あの『地下室の手記』をお薦めします、ドストエフスキーの。」
ジイド「本当ノ幸福トハ何ナノデショウ。かとりっくカ、ぷろてすたんとカ、ソレガ問題デス。」
太宰 「そんなものですかね……」
別役 「よくわかりません……」
ジイド「……何カ答エテクダサイ。何事ヲモ為サザルハ罪ヲナシツツアルナリデス。」
太宰 「そう言われてもね、僕はニーチェではないし、だからヒトラーでもナポレオンでもないんだ。」
別役 「ラスコーリニコフも、結局ナポレオンにはなれませんでした。だから『罪と罰』   はだめなんです。」
太宰 「まわりくどい批判ですな。だが、少なくとも僕は男だ。」
別役 「そういうのが芝居がかってるのです。」
太宰 「じゃあ、君は何? 芝居屋じゃないのかね」
別役 「違うのです、少し。例えば、あなたとか……。」
太宰 「淡々とした本物の幻滅……」
別役 「そういう展開、たとえば、つかくんとか……。」
太宰 「行き着く所は絶対孤独。」
別役 「いいえ、いきつくところは地下室なのです。」
ジイド「ソノ前ニ、マズハ狭キ門デス。」
太宰 「後は、自殺か、それとも阿呆か。」
ジイド「自殺デス。」
別役 「いいえ、やはり地下室です。」
太宰 「わが友の、笑って隠す淋しさに、われも笑って返す淋しさ。」
ジイド「何デスカ、ソレ。」
太宰 「僕ね、昔日記にこんな事書きました。近頃の僕の生活には悲劇さえない。」
別役 「確かに、それが一番悲劇かもしれません。」
ジイド「ソノトオリデス。」
太宰 「神様が高笑いしちゃいないかね。」
ジイド「ツマリ、問題ハ生活トイウコトデスカ?」
別役 「すきません?」
ジイド「ハァ?」
別役 「つまり、おなかはすくものなのです。」
太宰 「なるほど、そういう展開ね。」
別役 「ですからね、おなか、すきませんかっていったんですけれどね。」
ジイド「スキマシタ。」
太宰 「日常生活に即した理想が一番だ。」
ジイド「ハイ。」
太宰 「生活を離れた理想は十字架へ行く道なんだ。」
ジイド「ソレハ気ニイリマセン。」
別役 「まあ、この人が言ったのはそういうあれじゃないんですから。」
太宰 「確かに腹へりました。人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。」
ジイド「ぱすかるデスネ、ソノ言葉ニ免ジテ許シテアゲマス。」 
別役 「大袈裟です……」
太宰 「行きましょう。」
別役 「そうしましょう。」
ジイド「ハイ。」
(これは、かの「ゴドーを待ちながら」ではない。従って、彼らは何の躊躇もなく去っていってしまった。「生活の尻尾」とやらをぶらさげて。太宰治氏曰く、「ニヒルと食欲とは、何か関係があるらしい。」)

大喝采のうち、静かに幕が下りてゆく……
(1984/3/24)
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13日の金曜日のcoffee break

 
ちょっと脇道へ。

「ゴドーを待ちながら」は、大喝采のうちに幕を下ろした。作者サミュエル・ベケットは、苦々しく、こう言い捨てた。
「次は、もっと難解なものを書かなければ」
 

1983年以前のノート《統一の意思》のこと

 
1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。

僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。

ただ、捨てずに残したものがあった。

レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。

身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。

大袈裟な話しだ。

ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。

少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。

至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。

分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。

君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。

「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。

その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。

 

(再掲)《1983年7月22日のノート》

 
パスカル「パンセ」
 「人間の誤謬の一番おもしろい原因は、感性と理性の戦いである。」(断章82)
 「理性と感性とは争って欺き騙し合う。」(断章84)
 「二つの極端。理性を排除すること、理性をしか受け入れぬ事。」(断章253)
 「理性の最後の歩みは、理性を超えた事物が限りなくあるということを認めることである。」(断章267)
 「理性にとって、理性の否認という事ほどふさわしいものはない。」(断章272)
 「理性と情念との間に行われる人間の内部の戦い。
 もし人間が情念を持たず理性だけを持っているとしたら……
 もし人間が理性を持たず情念だけを持っているとしたら……
 しかし人間はいずれをも持っているために、戦わないでいることが出来ない、なぜなら一と戦うことによってしか他と平和を保つことはできないのであるから。それ故人間 は常に分立し、自己に逆らう。」(断章412)
 「理性と情念との間のこの内的闘争は、平和を望んだ人々を二派に分けた。一は情念を捨てて神となることを望み、他は理性を捨てて野獣となることを望んだ。しかしいずれも叶わなかった。理性は依然としてとどまり、情念の卑小と不正をとがめ、理性を捨てる人々の憩いをかき乱すのであり、また情念は情念を捨てようと望む人々のうちに依然として活発に存在するのである。」(断章413)
 「真に我々を知ることができるのは、理性の傲慢なる活動によってではなく、反って理性の素直な服従によってである。」(断章434)

そこから「愛」への道程。パスカルにとってはたった一歩の距離でも、信仰に縁なき者には隠されている道。
パスカルは「神を知るがゆえに心から神につかえる人々」と「神を知らぬがゆえに神を捜し求める人々」(断章194)について語ったが、「神を知らぬ人」が「神を捜し求める」ようになるまでの道程は明らかではない。
きっと、そうではない。隠れているのは、道ではなく、別の顔を持つ無数の「神」なのではないか。
その神は、君たちの、すぐ隣にいる。

 (断章233)「賭け」について。
 (断章460)三つの秩序「身体」「精神」そして「意志」。
 (断章475)固有の意志とその幸福について。
 (断章793)三つの秩序「身体」「精神」そして「愛」。
(1983/7/22)
 

(再掲)逃げ込んだ過去《1983年7月18日のノート》

 
「いかなる人といえども、哲学者ほど幸福にはなり得ない。」(ヴォルテール)

 ショウペンハウエルは自分の幸福のために「厭世的な精神」へと逃げたにすぎない。彼は「厭世的な精神」を唱う「最高の精神的労作」とやらを仕上げ、それによって幸福を手中にしたのだ。
 だが誰もが「厭世的精神」によって救済されるとは限らない。

 「悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以て、この大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にて悉す。曰く『不可解』この恨みを懐いて、煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安ある無し。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」

 「大いなる楽観」が幸福と近しいものだとしても、藤村操は哲学者になれずに身を投げた。
 一方、晩年のショーペンハウエルは、毎晩豪華な食卓を囲み、高級なワインに酔いながら、自らの哲学を声高に語ったという。

 「自分の嗜好をひとつの哲学に仕立て上げること、しかもほとんど常にその嗜好をわかたない人々を軽蔑する哲学に仕立て上げることはきらいだ。」(サガン)

 しかし、あのソクラテスですらこう言ったのではなかったか、「僕が自分の言うことを真実だと思わせようと努力しているのは、この僕自身に対してなのだ」と。ましてや俗人のショーペンハウエルは、毎晩飲んだくれることで酒神ディオニソスをなだめ、辛うじて自分のアポロンの秩序を信じていられたのかもしれぬ。サガンよ、そう思えば哲学者も哀れではないか。

 「人間の幸福と不幸のこれらの一切のものの物質的基盤は、肉体的な快楽か肉体的な苦痛かである」。
「尤も人間は純粋に知的な享楽、極めて無邪気な遊戯乃至または日常の会話から始めて最高の精神的労作に至るまで多くの段階を含んでいる」。
「意志は段階的に現象化せられるものであり、それぞれの他の段階のものを犠牲にして生きている」。

 ショーペンハウエルは何を犠牲にして酒を飲んでいたのか。
 僕はといえば、哲学者にはなれず、身投げも出来ず、何も犠牲にせず。善でも悪でもなければ、それは馬鹿である。
(1983/7/18)
 

「語るな、かたち作れ」

 
1983年の僕のノートには、次のような引用が書き込まれてありました。

埴谷雄高「死霊の序」より
 「もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱりと叫び得たとしたら、そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。私はひたすらその一語のみを求める。」

1989年、僕は再度この文章について、ノートに書き残しました。

6年前のボクは、この〈内容〉だけが問題だった。しかし今読み返して気にかかるのは、むしろその前後の文章の〈姿〉なのだ。
《前》「そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起こることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描き出す音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず」……
《後》「けれども、恐らくその出発点が間違っている私には、その一つの言葉、その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である。」

「死霊」の晩年に書かれた部分は、緊迫感が薄いという評判もあります。最後のほうの苦労は、いかに小説的に面白くするかだったというようなことを、埴谷雄高自身が語っていたという話も聞きます。
ゲーテは、世の芸術家に向けて、「語るな、かたち作れ」と言いました。

「鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあれば、この拷問的の荒縄を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに」梶井基次郎

この一文で、梶井基次郎は、語ったのでしょうか、それとも形づくったのでしょうか。

ある筋のお方のリクエストにお答えして、再度アルトーに登場してもらいましょう。

「哲学的闘争の後に形づくられる一つの無軌道……二重の仕事」

続きまして、もしかして、こんなのもお好きかしらん?

 近代主義の雑誌『南―北(ノール・シュド)』(1917年3月創刊、パリ)1918年3月号、編集者ピエール・ルヴェルディのエッセーの一節。ブルトン一派のシュルレアリスム方法論の確立に有力な示唆を与える。
 「イメージは、精神の純粋な創造物であり、それは比較から生まれるものでなく、多少とも相離れたふたつの現実の接触から生れる。この接触するふたつの現実の相互関係が、相離れておればおるほど、しかもそれが正当であればあるほどイメージは強烈なものになる。つまり、いっそう感動的な力と、詩的な現実をもつものとなろう。」

いったい僕は、何を書きたいのでしょう。連載漫画。いたって冴えないオチです。ドラフト保存のまんまにしておきゃよかった。
明日は、すっかり過去に逃げ込もう。

「死霊」 amazonへ続く・・・
 

その夜

 
父さん。
人間を「偉い」とか「偉くない」とかで判断していいのでしょうか。
僕は、父さんの書斎の本棚の中で、ひときわ異様に黒光りしていた埴谷雄高の「死霊」という本を持ち出して、一日中読みふけっています。いったいどうすれば、もっとも罪なく生きることができるのか、ずっと考え続けているのです。
父さん、父さんは若い頃、この未完の小説を、どのように読んだのですか? 父さんは、この恐ろしい小説から、どのように離れることができたのですか。
埴谷雄高が奥さんに堕胎させたというはなし、本当なのですか。もしそれが一番正しい選択だったのだとしたら、僕は、このまま生きていて許されるのでしょうか? この生きるという不快から逃れるには、死を選ぶしかないのでしょうか。お願いです父さん、どうか教えて欲しいのです。

息子よ。
おまえは、どのようにして、毎日お前の腹を満たしているのだ? 責めているのではない。決して責めているのではないから、どうか、死なねばならないなどと考えて、毎日君のために食事を作ってくれる母さんを、君の大好きな母さんを悲しませるようなことは、絶対にしてはいけない。
息子よ。ずっと閉ざされたまま久しい君の部屋の窓を、明日の朝一番に開け放してみなさい。そして、部屋の中に新鮮な風を入れ、いっぱいの日の光で満たしてみなさい。そうすれば、君の元気も少しは回復するだろうから、どうだ、今度父さんと旅に出かけてみないか。母さんの生まれた南国の島へ、ふたりで行ってみないか。
君が沖縄で癒されるだろうなどと、そんな甘ったれたことを考えているわけではない。そうではなくて、君の母さんがずっと抱え込んできた現実を、君にも感じてもらいたいのだ。あの頃の父さんが出会った沖縄を、君に知ってもらいたいのだ。そうすれば、父さんがどのように「死霊」を忘れることができたのか、きっとわかってもらえるに違いない。

今日、君に問われて、父さんは「死霊」のこと、思い出そうとしたのだが、ずいぶんと忘れてしまっていることに気がついた。もう一度読み直してみようかと思ったが、会社なんかやりながら、片手間に読めるような代物じゃない。そのぐらいのことは覚えている。
いつか君と泡盛でも飲みながら、君から「死霊」についての講義が聞ける時の来ることを、父さんはとても楽しみにしているよ。

注:ここに登場した「息子」はフィクションです。実在の人物とは全く関係ありません。(ほんとかな)
 

営業マンが一番偉い(昼間のパパ)

 
沖縄で営業してます・・・

自社発信の「商品」を持って営業すること、それが、「会社」には、きっと必須のことだと思うのです。その経験を持たない会社は、未だ「会社」ではなく、その足元は、とても脆弱でしょう。

当初、山猫合奏団のCDを作るにあたって、自前のPCで焼いたような簡単なものでもいいのではないか、と僕は考えていました。どんな形態にしても、中の「音楽」は同じものではないか。

しかし、帯を作ってバーコードを貼り付け、包装ラップをして、どうにか世に流通する商品としての体裁を整え、実際それを持って営業しているうちに、これでよかった、これしかなかったという思いが、どんどんと増してきました。
営業といっても、CDそのものを売る営業に限ったことではないのです。全く違う業務の営業でも、うちではこんなものも作っているのですとCDを出すと、先方はみんな笑顔になり、会社の印象も、よく受け取られるのです。彼らは、中の音楽を聴くわけではありません。目の前にある、CDという商品の「姿」を見て、好印象を持ってくれるのです。

白石准作曲、宮沢賢治原作、(株)M.A.P.制作のCD「セロ弾きのゴーシュ」は、会社が作った初めての「商品」です。作品の性質からいって、何万枚も売れて、大きな利益を会社にもたらすなどということは、まあないでしょう。元が取れるかどうかも怪しい。しかし、このCDは、採算以上のとても大切な何かを、会社に与えてくれたのです。
今後、本来の業務でも自らのコンテンツを作り出し、成長させることができたとしたら、このCDを作成した経験があったからだ、ということになるでしょう。それを目指して、CDを作った経験を、会社として今後もつなげて生かしていかなければならないのです。

このCD持って、町へ出ましょう。営業マンになりましょう。その点について、まだまだ僕らは経験不足です。
昼間、太陽のもと、町を歩く営業マン、彼らが一番偉い、と、僕はいよいよ思っているのです。

それにしても、やっぱり沖縄の太陽は痛いです。
 

道徳的であることと誠実であること

 
ドラフト保存というのでしょうか。メールでいうところの「下書き保存」というやつです。

本来、ブログって、その日その時の感覚を、すっと記録して、さらりと公開する、まったくもって軽やかなものであるべきなのかもしれません。しかし、僕は、思いついたことを、そっと書いてはみるが、なんだか納得できなくて、だからドラフト保存なるものをして、そのまま置いておきます。そうして後日、その気になった時、ちょいと整えて、そして公開するのです。

何故なんだろう、と考えています。どうやら僕は、今の「生」を記録することなど、絶対にできない不可能ごとなのだと思い込んでいるらしいのです。どんなにあがいても、「記録」とは「死」でしかないというふうに。

1983年の7月のノートに、カミュの「手帖」から、次のような一文を、僕は書き写しています。

「ぼくのなかには或る混乱が、或る怖ろしい無秩序がある。創造することは、ぼくには無数の死に値してしまう。なぜなら、創造とは秩序に関わることだし、ぼくの全存在は秩序を拒絶するからだ。だが秩序がなければ、ぼくは拡散して死んでしまうだろう。」

CDを作るということ、売り込むこと、何かを書き残すということ、それらに対する迷いの原点が、ここにあります。それはどういうことか、理屈はいくらでも語れます。しかし、結局それらは、全て嘘のような気もします。

「道徳的であることと、誠実であることのディレンマ」ジイド

何もしないことが誠実なことなのだと、自殺する勇気のない僕は、毎日飲んだくれては、うめいていたのです。

僕は、そこから本当に逃れられているのでしょうか。一週間以上前の文章を手直しして公開するような、こんなインチキブログを書いているところをみると、どうやら病は慢性化して、極めて性質の悪いものになっているのかもしれません。

過去の日記を修正するなんて、潔く死ねない女々しい男だということさ。はなっから、死んでるんじゃないのかい?

つまらない結論です。

これから、沖縄へ行きます。仕事です。沖縄について、書かねばならないことがいっぱいあります。しかし、今のところ、それらはみんな、ドラフト保存して、暖めておくことにします。
 

(再掲)「裏」の補足《1984年1月18日のノート》

 
僕は本当の生活というものを知らないのかもしれません。しかし僕は、真理を見極めるために、一生、生活などしたくないと思っていました。考えてみれば妙な話です。生活するために信ずる何ものかが必要だった、だから信ずるに足る真理が欲しかった、つまり生活するためにこそ真理を追い始めたはずなのに、僕は戦う前に敗北しています。結局今の僕は、生活したくないというだけの、ただの呆け者なのかもしれません。
だが、そんなふうにいくら反省したところで、やっぱり真理はないのだから、つまり生活が可能になるわけではありません。相変わらず、真理を見極めようとする事と生活する事とは両立不可能に思えるのです……。

「彼は持って生まれた性格と今日まで受けた教育とに煩わされて、とうの昔に大切な、信ずるという機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いてはこなかった。したがって世間に伍して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむことができなかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味わうべく余儀なくされた。」(芥川竜之介「路上」)

なるほど、信ずるものがあって、はじめて〈生活〉は可能なのでしょう。だが、信じられる真理などない。けれど、信ずる事において真理が不可欠というわけではないらしい。ならば、人は何をどのように信じているのでしょうか。
「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」(太宰治「津軽」)
「化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間に、果してどれ程の相違があるのであろう。」「我々の内部に生きるものを信じようではないか。そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。」(芥川龍之介「貉」)
芥川は、貉が化かすと本当に信じていたのでしょうか。僕にはとてもそうとは思えない、つまり、何もかもが信じられないのです。
(1984/1/18)
 

(再掲)「裏」《1983年12月8日のノート》

 
 「アルメ」ではなさそうか、この僕は?
 (アルメであるとでも言いたげだ)
 ランボーの名訳をいくら読んでも、ランボーは決してやってはこない。
 (カントの名訳なら、カントにお会いできるのでしょうか)
 さて……
 ランボーの、「永遠」と訳された詩が、気に掛かっている。
 (それがどうしたのさ)
 芝居をしたいんだ、普通のさ。
 (できるのか、お前に、そんなものが。)
 今日は変につっかかる。
 (ランボーの仕業。)
 いやだね、とにかくこのホテルのベッドはさ。
 (だって仕事はどうするの)
(1983/12/8)
 

「表」

 
やらないこと、できないことの理由ばかり並びたてている。
なんとかできる方法はないのか、そのことを、君たちは、必死に探しているのだろうか。
100個の可能性を探し出せ。一個思いついたら、すぐに動くことを考えろ。ダメなら、とっとと没にする。思いついたことを「暖めておく」などというもっともらしい方法なんか、意識する必要は全くない。思いついたことについて、動こうと真剣に考えた経験があれば、没にしたものも、決して無駄にはならない。ただ思いついて、そのまま暖めているだけなら、不良在庫と同じ、テストの前日、友人から借りたノートを鞄に忍ばせて、それで安心しているようなものだ。
100個思いついて、95個没にする。5個着手し、そしてもし、そのうち1個でも成功すれば、会社は生き延びるだろう。
何かがきっとあるはずだ。そのことを、信じることだ。

やらないこと、できないことの理由ばかり並びたてているなら、会社は、間違いなく、死ぬ。
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