社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1987年1月22日のノート》

 
言葉……。 ほろ酔いの僕は考えている。言葉……、僕はそれを未来に開かれたコミュニケーションと呼ぼう。 言葉に対する不信が必然だとしても、人間は言葉に替わる手段を持たない。肉体によるコミュニケーションは閉ざされている。それは、今この時に見つめ合う〈あなた〉と〈わたし〉の、刹那のコミュニケーションに過ぎぬ……。舌足らずだな、と、ほろ酔いの僕は、半眼で考えている。 ままよ……。肉体は未来に対して閉ざされている。肉体が未来を語ることはない。未来に開かれたコミュニケーションの手段は言葉以外にはない……。 今が言葉に対する不信の時代なら、今こそ言葉を問い直す。言葉から逸脱することなく問い直す。言葉を言葉によって問い直す。確かに、君の好きな肉体は嘘を語らない。一方言葉は嘘に塗れている。その〈嘘〉を理由に言葉から離れていった君たち。僕は君たちに言おう。未来を語るということは、まさに〈嘘〉を語ることだ。現実には未だ存在しないことを語ることなのだ。 僕は、言葉にこだわっているのではない、未来にこだわっているのだ、と、ほろ酔いの僕は、目を閉じて考えている。
(1987/1/22)

 

(再掲)《1984年7月14日のノート》

 
ねえ君。ピエロが泣いちゃいけないよ。あんまり、当り前すぎるもの。 そういえば、芝居の〈ばらし〉はいつもヒステリックだっけ。 つまり課題は……? 「未練について」。
(1984/7/14)
 

(再掲)《1984年7月12日のノート》

 
たんなる「むなしさ」を、いくらいじくりまわしてみたところで、「むなしさ」はいつまでたっても「むなしさ」であるという、しごくあたりまえのこと。
だからというわけでもあるまいが、ぼくは絵が描きたいのだということに気がついた。
その絵は「偶然」という題名。
理解し合い、尊敬し合い、愛し合うというのは単純なことです。
絵にかいた餅を食う。
かんがえることがてんでばらばら、つまりまともになってきたということです。
(1984/7/12)
 

(再掲)《1984年7月6日のノート》

 
ボクの心の中に、ポッカリとした空洞があって、そこからときどき、アーとかウーとか、すきま風が吹いてくるんだ。
〈、アー、ウー、貧困なイメージだね、アー、ウー、〉
その空洞のまん中にすわりこんで、ギターをひいてみようかな。きっとエコーがかかってステキだよ。
〈成長してないんだね、おじさん。きもちわるいよ、アー、ウー、〉
おじさん、飲みすぎちゃってさ、からだじゅうの筋肉がぜんぶゆるんじゃってて、ぜい肉がやけにブヨブヨしてて、暑くて、だからクーラーがんがんにかけてね、頭、ボーッとしちゃってさ、そのまま昼寝しちゃうんだ。もう、どうでもいいや、なんて言っちゃってさ。
〈、アー、ウー、アー、ウー、……

 僕は複素数の世界に居て虚数計算を始めた
  「多数の象形文字が複雑な記号で繋がれている
   一体この内のどれとどれが実数なのか」
 難解な多次方程式は永久に解けそうになかった
 ……、アー、ウー、〉

昼寝なんかするんじゃなかった。遠くに救急車のサイレンが聞こえる。読書でも、と古い本を開いてみたが、もっと軽いのはないものか。下で電話のベルが鳴る。あの音は暴力だ。僕のノートに実名が書かれていない事に就いてA君は不満なのだろうかとB君は考えた。こうして書いている間だけ、何かこう、……何だろう。さて、困った。ただ書き続けていたい。ダラダラと。越えれば先は妹背山。「浮雲」のようにふわふわと、竪板の、水の流れを堰かねて。あいつが辞めた。あいつにくれてやるつもりだった布団、無駄になった。人と人とのつながり(喉が乾いた)金の切れ目が縁の切れ目、という訳でもないのだろうが、最初から何も無かったと思ってみれば、今年もまたいつものように伊豆に行って、軽井沢に行って、それもあまり苦痛でないような気がする。支離滅裂。ヘラヘラと馬鹿言って、耳を掻いたら痰が出た。嘘じゃない。本当の話。書き続けていたい。ダラダラと。あーうー。

ともかく悩まないで欲しいのです。まさかそんなことはないと思うけれど、たとえば君が雪の白さについて思い悩んでいるとしたら、それは未来のほんとうのモラルにとって、きっと良くないことなのです。
ソレナラバ何故ソンナ顔シテルノデスカ
つまり、それはもっともっと深い所の苦しさのせいなのです。もしもその場所に誰かと一緒に立てたなら、きっとこんな僕だって、回復できるかもしれないと思うのです。

あー、うー。あー、うー。
(1984/7/6)
 

(再掲)《1986年12月11日のノート》

 
「生物の進化」「人類の進歩」……。
空虚な言葉だ。これらの言葉は、結局過去の歴史以外何も語ってはいない。
「人類の幸福」……。
考えてみればこいつもよくわからない。幸せだったりそうでなかったりするのはひとりひとりの人間であって、「人類」が幸福になるわけではない。
絶滅していった動物たち、彼らにもかつて幸福だった時代があったのだろうか。きっとあったに違いない。しかし彼らは絶滅した。すると、かつての幸福だった彼らの時代は無意味だったのか。絶滅した彼らは、類として不幸だったとでもいうのか。
進化は幸福をもたらすのか否か。ひとつの環境により適応するために、いわばその世界でより幸福に暮らすために進化し特殊化した生物の多くは、その後の急激な環境の変化に追いつけずに絶滅した。きっと、進化と幸福とはとことん無関係なのだ。

ひとつ……。

アイヌ。自らの身勝手な「幸福」のために彼らを「滅び」の崖淵へ追いやりながら、今になって尊敬の念をもって狩猟民族の世界観に学ぼうとはいったいどういうことか。学んで、そして「幸福」を捨てて滅びの運命から逃れようとでもいうのか。森の神が我々を呪う。「おまえたちなど、幸福に押し潰されて滅びてしまうがよい。」
強がりニーチェに対する反論として、いいもの見つけた。芥川龍之介「闇中問答」。
「ツァラトストラのどういう死を迎えたかはニイチェ自身も知らないのだ」

ふたつ……。

猿は森に留まり人間は草原に降り立った。「人間は革新、猿は保守、人間は革命によって猿から分かたれた」と魯迅は言ったが、人間は何に向かって進化し進歩しようとしているのか。ただ猿は変わらず人間は変わったというだけのこと。またこうも魯迅は言った。「中国の社会に変動がないために、昔を慕う哀詩もうまれなければ、斬新な行進曲もうまれないわけであります。」

するとだ。重要なのは進化ではなく、変化なのだ。変化が人間の感情を揺り動かす。そして新たな感情を呼び起こす。感情とはすばらしいものなのだ。感情を持つことは幸福なことなのだ。たとえそれが不幸な感情だとしてもである。

なんとも、あぶなっかしい連想ゲームである。
(1986/12/11)

 

三太郎からの使者

 
こんばんは。始めてお目にかかります。三太郎の執事で御座います。

三太郎の命により、お届けものを持参して参りました。
いえいえお構いなく、すぐに退散いたします。ただ、このところの三太郎様のご様子もお伝えしておいたほうがよろしかろうと、いえ三太郎様にお変わりはございません。ただ、三太郎様は、あなた様のことを大変お気にかけているようで、そのことをお伝えしておきたいと、わたくしめの勝手な考えで御座います。

今月の初め頃でしたでしょうか、あなた様が《頭痛日記》なるものを認め始められたのは。三太郎様はその時、こんなことをおっしゃっておられました。
「いよいよ、穴ぼこから出てきたようですよ。でもそれが頭痛日記とはねえ。屈折しているにも程がある。沖縄沖縄と何かと匂わしておられるが、このペースだと沖縄にたどり着くのはいったいいつのことになるのやら。」
そう語る三太郎様はとても楽しそうでいらっしゃいました。
「しかし、なぜ《穴ぼこ》から《頭痛》に到る84年から86年の、ほぼ2年間をすっ飛ばしてしまわれたのだろう。たぶん、そこに大きな秘密があるはずなのだが、しかしそれについても、今後ちょこちょこと小出しにしていかれるらしい。注意していないと、読みすごしてしまうね。できれば読みすごしてもらいたいというような意志も感じる。しかし、こんなややこしい構造のブログらしきもの、私くらいコアな読者でなければ全く理解不能ですね。まあ、ご本人は伝えるということを半ば諦めていらっしゃるらしい。死んだ後に、子供達だけでも読んでくれればいいくらいに考えておられるのでしょう、きっと。」
そのお顔はまじめではありましたが、でもどこかアカデミックな研究についてお話されているようで、それはそれで楽しんでおられるようでした。

しかし、ここ数日、三太郎様の様子が一転したのです。眉間に皺を寄せて、なにかとてもご心配なことがおありなご様子、わたくしは、どうかいたしましたかと、お声をかけずにはいられませんでした。
三太郎様はわたくしの質問にはお答えにならず、その代わり、三太郎が数日前、あなた様の書斎に潜り込んで持ち出した古いノートを、お返しに行くようわたくしに御命じになったのです。
お詫びが後になってしまいました。大変申し訳御座いませんでした。三太郎の勝手な振る舞い、いくらあなた様よりお許しを頂いているとはいえ、あなた様の命より大切なノートを持ち出すなどもってのほか、心よりお詫びいたします。でも、これも三太郎のあなた様への思いがさせたこと、どうかお許し頂きたいと存じます。
今晩はそのお預かりしたあなた様の大切なノートをお返しに上がった次第です。あなたに知られずに持ち出したものですから、やはりそっとお返しすることもできたのですが、あえてお詫びを兼ねてお会いするよう、三太郎より申し付かったのです。そしてもうひとつ、三太郎様からあなた様へのご伝言が御座います。
まず、これを見ていただきたいのです、あなた様の古いノートに引かれた新しいアンダーラインです。1983年7月、あなたが公開することをしなかったメモです。

文学座アトリエ「G・R・ポイント」
…感動、上質の演技、だが深遠さの欠如、演出助手T君の思い、それら全てのアンバランス
……舞台と現場の現状との差異という現実。

〈ペスト〉=理性の破壊。(脳と肺が侵される。)肉体の復権。カミュの「ペスト」、既成小説の否定。新たな小説の模索。〈小説の自己否定〉
〈エイズ〉=性欲の破壊。新たな理性の時代へ。芝居のモチーフとして。肉体崇拝への警鐘。新たな演劇。〈演劇の自己否定〉

「飲食より、呼吸の方が、上等な作用である」
(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)

そしてこのアンダーライン、二箇所の「自己否定」の文字に引かれた二本の線、これは、あなた様が最近引かれたものですね。もうお隠しになる必要はありません。腎臓癌は脳と肺に転移するのですよね。ただ、三太郎様もただ者ではありません。あなたのお体を心配しているのではない。事実あなた様が簡単に死ぬはずはないと確信されておられますし、たとえこの現実であなた様が死んだとしても、お悲しみにはならないでしょう。そうではなく、あなた様が「自己否定」の文字にアンダーラインを引いたということなのです。もしかしてあなたは、また原罪というような、無味乾燥な穴ぼこへ戻ろうとしておられるのではないですか。もしそうなら、それだけは絶対におやめいただきたいと、そのことをはっきりとお伝えしてこいと申し付かったので御座います。
加えて、三太郎が心配しているなどとは決して言うなとの命令だったのですが、わたくしの一存でお話してしまいました。このことは、三太郎様には内密にお願いいたします。わたくしが叱られてしまいますので。

長々とお邪魔いたしました。わたくしがこれ以上申し上げることは何もございません。これで失礼いたします。お元気でお過ごしください。
 

(再掲)《1994年5月2日のノートと26日の解釈》

 
1994年5月2日
《手術後初の転移再発の有無を調べる検査の結果を聞いて》
去年の1993年の1月のこと。川崎市の三十五歳検診で、僕の肺に影があることがわかった。所見は〈要経過観察〉。今回の僕の腎臓癌の手術を担当した医師は、その僕の胸の影を、手術の前から気にかけていた。腎臓癌の多くはまず肺に転移する。この影は、既に腎臓から転移してしまった癌の影ではないか……。腎臓癌と肺の転移部位の関係は微妙で、その片方をいじると、もう一方が動きだすということがままあるという不思議。そう聞いていたから、手術後最初の胸部CT検査の結果が出るのを、僕は未決囚のように待っていたのだ。
その〈判決〉が今日〈下った〉。問題の肺の影の正体は依然不明だが、その大きさは直径5ミリで手術前と変わらず。〈無罪〉か〈執行猶予つき〉か。ともかく大きな難関をひとつ越えたような気がして、ひとまず安堵する。血液検査の結果も異常無し。したがって、今のところ再発防止の為の抗癌剤投与の必要はなし、それがなりよりうれしい。今日はこれで、久々にゆっくりと眠れるかもしれない。

1994年5月26日
ひと月ずっと、ワープロを打ち続けている。
いくら打ち続けても、古いノートは、どこまでも〈稚拙な観念の亡霊〉の戯言が続いている。
しかし、今の僕がそこからどれ程成長しているというのか。なるほど幽霊ならば、転生でもして生まれ変わらぬ限り成長などしないだろう。振り返れば過去はすぐそこにある。僕は、その頃の「僕」をいまだ否定し得ない。というより、何も変わっていないのだと思う。過去の自分を解釈すると云いながら、その実、今の自分を改めて発見しているらしい。ならば、解釈し否定されるべきは、現在の自分なのではないかと、ノートを写せば写すほどその思いが募ってくる。
 

(再掲)《1984年7月31日のノート》

 
感情は自然連鎖の系列を形成する。それは原因→結果の連なりである。ところで、論理は結局のところその連鎖の尻尾である。それなのに、論理があたかも感情と無関係に見えるのは、感情という頭を持つ蜥蜴が、論理たる尻尾をいたるところで切り離して歩くからである。切り離された尻尾から蜥蜴本体の姿を想像するのは難しい。

ここに、ひとつの切り離された尻尾がある。こいつから、僕は新たに感情を作り出そうと考えた。論理を遡った先の離れた本体である感情を探しだすのではなく、論理を原因として新たな感情を生み出す。その密かな企ては、特に心理的に成功するように思われた。しかし……

例えば現実的な一個の人間の死、それに対する無感情。観念的論理的な死と現実の死の間にある限りなく遠い距離。「全ての人間の死を悲しむべきだ」という論理が〈悲しみの感情〉を生み出すはずであったのに、むしろそうした一般化は、どんな人間の死も僕を悲しませることがなくなってしまった。「全ての人間を愛するべきだ」、そんなお題目を唱えているうちに、僕は誰も愛せなくなった。何かが間違っている。ここでも、尻尾を捨てていった蜥蜴の顔が忘れられているのである。

「ゆきあたりばったりの万人を、ことごとく愛しているということは、誰をも愛していないということだ」
(太宰治「秋風記」)

「慈眼というには冷たく、冷眼というには汎かった。むしろその目は、何ものをも宥してしまうあまり、何ものをも救わない目であった。」
(三島由紀夫「火山院」)

それぞれを、きっと僕は検証しなけらばならない。「愛すること」と「赦すこと」について。
(1984/7/31)
 

地図のこと、考え続けている

 
我々に出来ることはなんだろう、ずっと考え続けていました。
何かを見つけ出さなければならないという状況は明らかでした。だからたくさんの人たちに声をかけ、一緒に考えようとも言ってきました。しかし多くの人にとってはやっぱりどこか他人ごと、かれらが見ているのは当然のことながら自分の周りだけ、結局、毎晩ひとりで考えていました。

たとえば地図のことです。そのことも、結局ひとりで考えるしかありませんでした。
その結果、商売ということをいったん忘れてみるところにしか道はない、そんなふうに思えてきたのです。儲けを度外視して、まずはエンドユーザーにたどり着く方法を何とかして見つけ出すしかない。つまり今立っている場所には、もうほとんど何も埋まっていないのかもしれない、だとすれば今のうちに別の場所を探しておくことがどうしても必要なことだ、そのくらい厳しい状況らしいということだったのです。
自分の事だけ考えていればいいというのなら、別の道はいくらでもありました。
「でもねあんた、社長ってものはさあ、たとえ全財産を失うことになるんだとわかっててもね、やんなきゃならんこともあるんだよ」
タコ社長のお言葉です。しかし、そんな馬鹿なことを考えて苦労していると、そのうち思わぬしっぺ返しに見舞われるものだと、最近ようやく気がつき始めました。たいがいの人は、手にしたもは全て当然の権利だと勘違いするものらしい。だからこそ、そうではない人たちもいたという発見が、とても嬉しくて、ただただ感謝の日々なのです。

再び地図のことです。
今日、ひとつの小さな小さな至極貧弱なサイトを立ち上げました。本当はもっと練りに練ってから始めたかったのです。でも、ここに差し向けるマンパワーを生み出す力が、残念ながらありませんでした。それならそれで、もう少し時間をかけてゆっくりとできればよかったのですが、もうそんな余裕はない、時間的なリミットが来たと判断したのです。やめるという選択肢もないではなかったが、それもまたタコ社長です。
もうひとつ急いでいる別の理由があります。でもそれは11月11日、吉と出るか凶と出るか。なんだ、あせらなくてよかったということになればいいのだけれど、これもミステリーということにしておいてください。

(8月23日にドラフト保存しておいた文章です。少し語り過ぎていて、だから公開を躊躇しました。でもこれはこれでと開き直って、8月30日に「23日」の日付でアップしました。)
 

(再掲)《1984年の僕を1994年の僕が解釈する:2》

 
【1984年の自己を解釈する(2)】
愛する子供たちへ
ずっと父さんは穴ぼこに落ち込んでいました。
毎日、お芝居という仕事はしていたけれど、現実は夢のようでした。
ただただ書物とだけ交渉をもち、自分の心の中だけを覗いて過ごしていました。
もちろん好き好んでそうしていたわけではありません。そんな自分に嫌気がさしてもいました。早く穴ぼこから抜け出したかった。そのためにこそ書物が必要だとも思っていたのです。しかし読めば読むほど、蟻地獄のように逆にその穴ぼこに捕らえられてゆきました。
そんな父さんを救ってくれたのが「おきなわ」なのです。

このノートは、父さんがどうやって「おきなわ」に導かれて穴ぼこから出て行ったかの記録でもあります。読んで、君たちはどう思うのだろう。「おきなわ」を知ってもなお、グルグルと迷い続ける父さんについて、でも弁解するつもりはない。ただ父さんは、きっと心から感謝していたのです。
(1994/6/11)
 

(再掲)《1984年6月15日のノート》

 
頭の中で、名前のはっきりしない何かが駆け回っている。言葉よりも前に何かがある。言葉を発したがる何かの観念が確かにあるのだが、しかし適切な記号を見付けて配列する忍耐力がない。それでも安易に語ろうとすると、今度は対象のはっきりしない見慣れた言葉が、手垢に塗れた積み木のように並ぶだけだ。

「私の頭の中に何か混沌たるものがあって、それがはっきりした形をとりたがるのです。」
(芥川龍之介「はっきりした形をとるために」)

僕の気持ちを蒸し返さずに考えてみること。記憶は所詮記憶に過ぎない。過去の僕の言葉を使わずに、そして新しく配列してみること。あえてそうしてみること。
(1984/6/15)
 

(再掲)《1986年12月4日の頭痛日記》

 
四国は暖かい。だから人が違う。考え方が違う。
ニーチェは成程ドイツ人である。ならばこの僕は……

嘘だ。僕は嘘っぱちばかり書いている。〈本当の事〉は「暖かい」ということだけ。後は蛇足。実感だけ書こうと思う。でもそうすると何も書くことがなくなってしまう。
あ、もうひとつ見つけた。
〈池田は風変わりな町だ〉

〈あいつ〉はやってこない。やってこなければ〈あいつ〉は比喩になる。嘘と真実の境界。〈あいつ〉が比喩となる時、僕が語るのは虚偽か、あるいはより真実なのか……。
(1986/12/4)
 

(再掲)《1984年6月2日のノート》

 
借り物でもいい、どっかで「信念」らしきものを見つけてこないと、結末のある芝居など何ひとつ書けそうにない。
芥川龍之介は「あの頃の自分の事」についてこう書いている。「(久米の)煽動によって、人工的にインスピレエションを製造する機会がなかったなら、生涯一介の読書子たるに満足して、小説なぞ書かなかったかもしれない」。
だからといって嘘っぱちの「信念」をでっちあげるつもりもない。それにしても何故僕は芝居でなければならないのだろう。

宇野浩二が発狂したと芥川は信じた。
「今の世にヒステリーのないような人間は馬鹿か無神経かだ」
そう言って芥川は、宇野が精神科の病棟に居る間に自殺した。
宇野は退院して「枯木のある風景」を書いた。
「頭ばかり大きくなって、それをささえる肉体が、頭が大きくなればなる程、しだいしだいに痩せ細って行って、遂に大きな手だけが残って、その肉体がすうっと幽霊のやうに消えてしまった。」
幽霊のように消えたのは宇野ではない。彼は消えずにすんだのだから。
宇野はやがて芥川論を著した。はたして宇野浩二は芥川竜之介の死を解釈し得たのか。

だんな、あたしゃ旅といやあ、行きの汽車の中が好きでねえ。窓際に座って酒をちびちびやりながら外の風景を眺める、ありゃいいもんです。ところがね、目的地が近づいてくるとだんだん憂欝になってくるんでさあ。汽車から降り立って街の空気に触れた途端にめまいがする。気分は沈みきっちまう。なんでだってお聞きになるんですか。つまりね、だんな、あたしゃね、人生を降りちまってるんでさあ。
それなのにどうしてあんな事したのかって? その意味を知りたいとおっしゃる。さて、困りました。何の意味もねえんです。何の喩でもない。おかしな言い方かもしれませんが、言ってみりゃ、象徴なんです。象徴ってやつは、そっくりそのまんまで受け取ってもらわなくちゃいけない。その後は、あたしとだんなの想像する力の問題ってことで、これも少し説明的すぎますかねえ。
(1984/6/2)
 

(再掲)《1986年12月1日の頭痛日記》

 
先月の二十日から今年二度目の北海道。初めて体験する冬の北海道。札幌の公演では萱野茂氏が舞台でうれしい挨拶をしてくれた。だが、それでも書く気にはならなかった。二十五日、小樽からフェリーで舞鶴へ、京都大阪を経て二十八日に呉へ入る。途中の東広島で例の「交通事故禁止」の看板を見て、何故かすうっと書く気になった。呉で二日間、そして今日、これから松江に行く。

もう盛りは過ぎたのかもしれぬが、紅葉が美しい。僕は中国地方の紅葉が好きだ。日に日に冷気に急き立てられるような北国の紅葉ではなく、木々たち自身の意志で、一本一本自らのその静かな変化を楽しんでいるような、それでいて何故か〈諦念の紅葉〉と呼ぶべきような、僕はそんな中国地方の紅葉が好きだ。

「家庭というものは、人間なら誰でも、いつかは捕えられてしまう罠なのだ。どんな優れた、どんな生真面目な人でも、育ってきた過程で一度でも暖炉の温かさとか、躾とかを知ってしまった以上、どうにも逃れようがないものだ」

頭痛を抱えていく意志など僕にはなかった。それなのに僕は一生この頭痛を抱えていく事になるのかもしれない。何かに急き立てられている訳でもない。要するに頭痛のせいなのだ。この頭痛がなければ、僕は一生頭痛を抱え込むなど考えもしなかっただろうというわかったようなわからない話。何とも味気ない喩話。

僕はやはり南国の紅葉の諦念を思う。単なる諦めではない、諦めの意志というものを思う。その美しさを思う。
(1986/12/1)
 

(再掲)《1984年5月10日のノート》

 
太宰治の「盲人独笑」。
いいねえ、これは。

「なにことも。さたかならざる。よのなかに。かわらぬきみの。こころうれしき。」

「かわらぬこころ」とは、「ふるさと」と「あやめ」。
なんともね。

「やれやれ、いたや」
「ああ、さてもさても」
「さてもさても歯がいたい。」
「たたたたたたたた」

「あさねして、またひるねして、よひねして、たまたま起きてゐねむりをする」
ははあ、これが正調なのかしらん、でも、これはなんだか気にいらない。

「朝寝坊、昼寝したのに早寝して、時々起きて居眠りをする」
というのはどうだろう、うん、こっちのほうがいいような、でも、理屈っぽくて、リズムが無いかな。たたたたた…
でもさ……

「うへもなき。ほとけの御名を。となへつつ。じごくのたねを。まかぬ日ぞなき。」
何という悲しい文章。

「まい日。ばかのごとくなりて、日を、おくるにも、たいくつしてござり申、よそへもゆけずしかたがないぞ。」

それにつけてもさ、自分の生きている時代を愛せる人は幸せ。愛していたんだか、いなかったんだか。

「狐には穴あり、烏には塒、されども人の子には枕するところ無し」
「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。」

そうだ、そうだった、と思い出す。そんな昔のことじゃない。でも、今日の事でも、普通の事はみんな忘れてしまう。覚えているのは、あの苦しかった時のこと、狂気の不安に脅かされていた時のこと、そんな記憶ばかりだ。

太宰治の「追憶」。
「夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。」

フロオベルは、「アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン」(どっこいしょ)という言葉を見つけるのに三箇月を費やしたという。
「たたたたた」…
(1984/5/10)
 

(再掲)《1984年5月4日のノート》

 
ずっと歯が痛い。何もする気にならない。
本当だろうか。何もする気にならないのは、歯が痛いせいなのか。
酒ばかり飲んでいる。飲めば次の日痛みが増すのを知りながら、その日の痛みを弱めるためにやはり飲んでいる。

H君にばったり会った。二度も続けてばったり会った。Yに、電車の中でやはりばったり会った。
こうしてずっと誰かとばったり会い続けていたいと思った。

無理に言葉をひねり出すのはやめようと思った。そんな能力もないように思えた。
(1984/5/4)
 

 
棘を刺さぬ優しさが正しい訳ではない。
僧侶を嫌う者はいないが、はたして僧侶はそれで幸福なのか。
僧侶を慕って集まる衆生は、一体何者なのか。僧侶は、その浅ましい正体に眼を瞑る。

脇腹に刺さった棘を、そこから流れ出る青き血の色を、よくよく眺めて見るがいい。
お願いです。抜いた棘の傷跡が疼くのです。
そしてようやく、棘を抜いた跡の数だけが幸福を量る目安であることに気づくのだが、失った重さが帰ってくることはない。

ある時、行水する僧侶の背を流した。その背には、夥しい棘が、抜かれぬままに朽ちていた。
衆生は、その背に縋りつき、いつまでも激しく嗚咽し打ち震えていたのだ。

嗚呼、あなたのその静けさは、もの見ぬ意思の表れではなく、ましてや幸福の安らぎなどであるはずもなく、ただただ生きることの苦しみを耐えていたのですねと、このことを、わたくしはどなたにお伝えすればよいのですかと、もはや屍となった僧侶の背に、いつまでも縋りつき、激しく嗚咽し打ち震え続けていたのだ。

あなたさまがお赦しになったものは……

明日、懐かしい人に会うのです。
 

(再掲)《1984年5月2日のノート》

 
芥川龍之介の、「彼、第二」を読み返していた。そうしたら、その結びの文章の中の一語を、僕は読み違えていたことに気がついた。

「夢の中に眠った僕が現在に目を醒ましているのはどうも不気味でならなかった。」

その「不気味」を、僕は「無意味」と読み違えて、それでそれがひどく心に残っていたのだが、なんとも間の抜けた話だ。なるほど「無意味」などという到って観念的な理由では日本人は死ぬことなどできない。
しかし、「不気味」なら死ぬかもしれぬ。狂気よりも、死を選ぶかもしれぬ。
(1984/5/2)
 

ほんとうならつつましやかに・・・

 
ことのは出版の社長、野村氏のブログを、サクッと全部に目を通してみました。
なんだか身につまされる話がたくさんです。
きっと、起業家たちはみんな同じような道を辿っているのだろうなあと思います。そんな中から、いったいどのくらいの会社が、いっぱしになっていくのでしょうか。

野村氏はまだまだ若いし、ITとやらに関しては僕なんか彼の足元にも及ばない。そんな野村氏が悪戦苦闘しているのを見ると、とてもうちには未来がないような気もして来る。
ただ、我々(僕だけかな)は、やりたいことをやって、そうしてそれに携わる数人が何とか食べていければ幸せだというくらい、控え目に考えていることが救いでしょうか。いや、もっと大きな野望を持たないと、小さな成果すら得られないのかもしれません。

しかし、50年も生きてみると、大きな野望を持つのに必要な単純な回路が、もう僕の頭の中には存在しません。古くなった脳味噌の命令は、あっちこっち回り道しないとなかなか手足まで到達しないようです。
つまり、歳を取れば取るほどゆっくりしか生きられなくなるのに、与えられた時間の流れは、何故か反比例して死に向かって僕を追い立てるように加速度的に速くなっていく。なんともママなりません。

50歳から新しいこと始めるのはきっと素敵なことだけれど、それは野望なんてものじゃなくて、もっとつつましやかなものであるべきだったのかもしれない、そんなふうに思います。何年か前までは、死ぬことばかり考えていたのに。

なんでこんなこと始めてしまったのか、何かの所為にしたいのはやまやまですが、誰もそんなこと信じちゃくれない、というより、自分自身でもよくわからないのですから。
とにもかくにも、もう後戻りはできないようです。
 

先を急ぐしかない

 
腎臓がんの定期健診でCT撮影。もういい加減毎年の被爆(※ママ)には飽き飽きしているが、完治のない腎臓がんだから、致し方ないらしい。
人様の無責任なご都合なんか構っちゃいられない。時間が足りないかもしれないのだから、やり残しちゃ可哀想なのだから、僕は傍若無人に先を急ぐしかない。始めたことに、早いところ責任を取らなければ、落ち着いて死ぬこともママならぬ。

Yuigon nado sitatamete iru hima ga aru no nara, dareka no koto wo toyakaku itte-iru hima nado aru kurai nara…
Tama niha honto no koto iwasete hosii. Mizukara no tiisasa wo minai hito bakari. Jibun mo mata… Mottainai jinsei ga itaru tokoro ni korogatte iru. Tugi ha nijuu-go niti, sono hi ha unmei no hi nanoka, dou-ka…
 

(再掲)《1986年11月30日の頭痛日記》

 
ニーチェを読んで、一夜明けると、僕はニーチェ主義者になっていた。

健康は価値あるものだとニーチェが言う。至極当たり前のようだが、ニーチェが言うとその趣は一転する。健康は不健康を差別する。それが〈自然〉だとニーチェが言えば、健康において劣る者は差別されて当たり前のように聞こえる。知里真志保は〈自然〉の民たる〈アイヌ〉の健康健全だった事を言うが、ならばどうして〈アイヌ〉は和人に差別され追いやられたのか。デズモンド・モリスは面白いが、敗れ弱った民族を正当な人類の進歩から外れたものとして顧みない。

結局〈自然に帰れ〉式の甘ったれた〈自然〉は、ニーチェが笑うような奴隷根性を本能とする畜群の都合のよい偏狭な概念なのであって、本当の〈自然〉はそれとは全く別の相貌を持っているという事なのか。
だからといって、和人の〈自然観〉の方が〈アイヌ〉のそれより正しいと言うのではない。屯田開拓を記念する碑、その背後に隠された〈アイヌ〉の歴史。開拓者が闘おうとした〈自然〉、〈アイヌ〉が共に生きようとした〈自然〉、しかし〈真の自然〉は、そのどちらからも遠く隔たっているのかもしれない。

〈自然〉を制して勝ち誇っているような屯田の歴史も、いつか強烈に覆されるのか。だとしても〈自然〉から反撃されてそうなるのではない。だいたい〈人間対自然〉などあり得ない。人間がこうしている事、それもまた〈自然〉なのだ。巨大な〈自然〉の測り知れぬ営みの中の一部なのだ。いつか人間はそれに気づかされる時が来る。楽観的たろうとする意志に反して気づかざるを得なくなる。

同じように、〈自然〉に帰るというのも無理な話なのだ。人間が〈自然〉以外であるはずなどないのだから。だが祈る事は出来る。というより、祈る事しか出来ないのだ。その意味で〈アイヌ〉の〈自然観〉は屯田のそれよりもはるかに〈真の自然〉を捉えているという事か。〈アイヌ〉の〈自然〉に対する祈りも、今や昔のままではないとしても……。そして、ああ、そしてやはりこれなのだが、僕は無関係なこの頭痛に悩まされる。祈ってこの頭痛が止むのなら、いくらでも祈ってやる。

またニーチェが笑う。超人は何に対しても決して祈る事をしない者なのだと。
(1986/11/30)
 

(再掲)《1986年11月29日の頭痛日記》

 
《東広島市では交通事故を禁止します》
おもしろい立て看板だと思った。また、書き始めようと思った。例の頭痛が来ないうちに、本が読めるうちに。
僕は書かれた文字にしか反応しない。現実に反応する事があるとすれば、あの頭痛くらいなものだ。だから読書が丁度良い。読書をとるにたらぬ休養と言い切る超人ニーチェとは雲泥の差、畜群の一頭たる僕には読書が必要なのだ。だが、それも頭痛がすると読めなくなる。そして読書から遠ざかる。まるで深淵から遠ざかってしまうかのように大袈裟に思いなして。そして無反応になる。植物人間になる。
なるべく反応しないことがニーチェにとっては偉大な利己主義だとしても、あやふやな〈己れ〉しか持ち合わせぬこの僕が、何ものにも反応しなくなれば、それは唯の木偶だ。木偶が木偶から脱する為には、ともかく反応せねばならない。反応できるなら何でもかまわぬが、頭痛より書物の方がちっとはましだろう。それで〈己れ〉らしきものをノートに書き付ける事ができるなら尚更である。
あ……、その矢先の頭痛なのだ。トクン、と一つ。思えば書こうとしていたこの夏の事も、この頭痛のおかげで結局どこかへ消し飛んじまったのだ。
〈己れを追わんとする遠大な野望も微々たる生理的痛みによって脆くも崩れたり……〉
アホらしい。心理的痛みは書く事によって和らぐが、生理的痛みはいくら書いても一向に消えない。アホらしい。どうやら僕は、ただ心理的痛みを緩和するためにのみ書いていたらしい。酒でも飲めば、心理的苦痛はおろか、生理的苦痛だとしても微かなものならあっさり解消してくれる。つまり〈書く〉とは、飲酒にも劣る自慰行為だったのか。
こう書いていられるのも、さっき一つきただけで、たった今のこの瞬間、頭痛から開放されているからだ。書き続けるのはただ頭痛についてのみだとしても、それでも書かないよりはましだというのだろうか。
もしかすると、僕の〈己れ〉とは〈頭痛〉そのものではないのか。あるいは、〈己れ〉の外部にある、何者かが僕に影響しているのだろうか。
あの苦しかった日々より、今の状態の方がずっと悪い……。ああ、また〈あいつ〉がやってきた。もう何をする気にもなれない。何もできない……
(1986/11/29)
 

(再掲)《1984年4月14日のノート》

 
「ああかかる日のかかるひととき」

美しさとはこんなものなのかもしれない。梶井基次郎「城のある町にて」。芥川のような構成もない。太宰のようなあけすけな叫びもない。鴎外のような教化もない。小説一般の物語もここにはない。あるのはただ……

「町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。」
(1984/4/14)
 

(再掲)《1984年4月13日のノート》

 
菊池寛の「忠直卿行状記」。
悪くないと、素直に思ってしまう。僕の中に巣食っている「俗」という質について考える。そしてその扱いに困っている。
「弱者の糧」で、太宰は言う。「芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある」と、その時とは、「心の弱っている時」、「敗れてしまった時」だと。
僕はおしるこに感謝したことがない。それは、〈本当に〉心が弱ったことも、〈正しく〉敗れたこともないということか。それでいて僕は、いつでも、おしるこも悪くないと思っている。

太宰治の「秋風記」、それは例えばドストエフスキーに比ぶべくもなく、おしるこのように甘いけれども、しかし僕は、つらく切ない一篇の詩を詠むように、涙している。
(1984/4/13)

 

ブースの中の呟き・・・

 
高山正樹A(俳優)
ちょっとテンポが速くなってきましたってか。一応今のところは全体の構成を考えてテンポアップしたんだけど、そのへんちゃんと聞いてくれてるかな。それでもやっぱりちょっと速いって? ほいよ、んじゃ、もう一回やりましょうか、どっからやります? 何秒くらい延ばせばいいの? コンマ3秒くらい? え? コマーシャルじゃないんだからそんな厳密な話じゃない。そりゃそうだよね、なあに? 今のテイクなら許容範囲、いただきますってか。次からちょっと落ち着いてってことね、OKOK。

高山正樹B(ディレクター)
表現に許容範囲ってことはないでしょう、家の耐震構造調べてるんじゃないんだから。もう一回やらせてよ。え?大丈夫って。だってちょっとテンポが速くなってきたって感じたんでしょう? ともかく、ちょっと今のテイク聞かせてよ。え、ダラダラやってたら却って集中力なくなって出来悪くなりますってか、勢いって結構重要です、ふーん まあね、それもよくわかるけどさ、ほんとに大丈夫なの、そんならまあいいけどさあ・・・

高山正樹C(経営者)
今ので全然OKでしょう。ノープロブレムだよ。もう一回やるなんて勘弁してよ、スタジオ代が高いんだからさあ。ましてやテンポ落とせってか。だめだよ、ぎりぎりディスク2枚に納まるかどうかの瀬戸際なんだから。3枚になったらえらいこっちゃ。マスタリングからプレスからケースから、全然金額が違うんだから。みんなにギャラ払えなくなっちゃうよ。まあ、金銭的なことは全て僕が被ればいいのか。そういうことだよね。なんか落ち着いてしゃべってられない気分・・・

不協和音の美しさ?

これは完全にフィクションです。特にCのような考えで仕事をしている者はいません。絶対。なお、「カクテル・パーティー」は3枚組で発売です。
(ちなみに「い抜き言葉」を多用して、敢えていい加減な感じを演出してみました。)
 

(再掲)《1986年8月3日の頭痛日記》

 
右の耳の後に嫌な痛みがある。微かな、だが極めて不快な痛み。こいつは何時から始まったのか、記憶を辿るために手帳をめくってみる。そうか、京都だ。チェルノブイリの原子力発電所が燃え、その影響はやがて日本にも及び、汚染された雨が降り始めた。五月二十日もその雨が降った。その日京都で飲みに出て、その帰り傘をささずに雨にあたった。その次の日から、この痛みは始まったのだ。
以来7月7日の七夕の日まで、僕は休みなく働いた。耳の後は、毎日のように痛む。痛まない日もあったのかもしれないが、覚えていない。ひどい日は心臓の鼓動と歩調を合わせるように一日中トクントクンと痛み続ける、それで眠れぬ日もあった。多分そんな日もあったのだ、と思う。
7月11日、柄にもなくディズニーランドなんかへ行ってみた。その時も痛んでいたのだろうか。
13日、別班の公演を観に行く。打ち上げで、客演の歌い手が若い連中に向かって吠えた。だから僕は酔った。ひどく不機嫌に酔った。次の日、僕の右の耳の後は一日中痛んでいたんだろう。きっとそうに違いない。
18日、何年かぶりの軽井沢。そこに電話があった。なぜ誘わなかったのかとあいつは怒ったふりをしている。僕のせいじゃない。「元気か」と聞くから「元気だ」と答えた。久しぶりに正直に答えた。「ここでしか僕は元気にならないんだ」と、軽口も出た。
20日、仕事のため、そこから直接大阪に向かったが、すると、また耳の後が痛み始めた。
これを書き始めてから不思議に痛まなかったが、今トクンと一つきた。
大阪の仕事が了って、ようやく十日間の夏休み。僕は公演が無ければいつでも好きに休めるが、「社員」の連中にはそんなことは許されない。彼女も、ここぞとばかり沖縄へ帰った。旅費には、二年前に島から出てくる際に、何かがあった時の為にと、母親から持たされたなけなしの金を充てたらしい。この劇団の安月給では、金など全く貯まらない。戻ってきた彼女の表情が、心なしか行く前よりやわらいでいる。
また一つきた。トクンじゃなくてドクンときた。明日からまた少し忙しくなる。ああ、ドクンドクンと連発で来た。
もう、三ヵ月が過ぎてしまった。
(1986/8/3)

 

(再掲)頭痛前夜《1986年5月17日のノート》

 
5月17日
日付だけ書いて、煙草に火を付けた。
報告。煙草が220円になりました。
こうやって書いているうちに何か出てきやしないかと期待しているのだが……。

〈書く僕〉は「誠実を見失わないためには書き続けなければならない」と書く。〈書かない僕〉は「書かれた誠実は偽善だ」と言う。
本当の事を言うと、この十日間の〈書かない僕〉は、〈書く僕〉から五月六日に提出された問いの事をすっかり忘れていた。
山積みの「課題図書」に頭を抱えている。本当の事を言うと、この十日間、僕はちっとも頭など抱えていなかった。極楽蜻蛉。
今日あったことを書こうと思った。が、止めた。尻切れ蜻蛉。

漂う空気は、脳味噌のあんかけ。
明日は久しぶりの休み。

 

(再掲)頭痛の原因《1986年5月6日のノート》

 
どう書き始めればよいのか、なんともつまらぬ事に頭を悩ましている。ここ三ヵ月余りの間、忙しかったという以外に別段理由も無くただ書かなかったというだけなのに、そのことが変に重い。久しぶりにノートを開いた途端、書かなかった三ヵ月の時間があたかも存在しなかったかのような思いに捉われている。この失われた時間を取り戻さない限り、決して先に進めないという妙な感じ。
さて、どう書けばいいのか……、このもどかしさの感覚、しばらく忘れていた。
書くという作業は、現実とは別の次元を形成し、この別の次元の欠落の苦しさは、書こうとする意志の中でしか気付く事はなく…… 嘘だ、僕は嘘を書いている。三ヵ月も書かないでいると嘘しか書けなくなる。
〈何故、書かなかったのか 読書する暇が無かったからだ〉
〈何故、また書く気になったのか FMラジオから流れるジャズの音、放射能交じりの雨に濡れた車のフロントガラスが街を歪ませていたからだ〉
ちっとも悲しくない。だが書けば悲しくなる。書くという行為は現実とは別の次元に常に存在する〈悲しさ〉をいつも呼び覚ます。そして、それは、ひとつのカタルシスだ。

ここまで書いて、〈これで失われた三ヵ月の帳尻があった〉と満足してペンを置いて目を上げると、机の上には読もうとして読まずにいる本が積み重なっていた。なんとなく僕は、またペンを持って考え始める。
そうだ、僕には僕自身に報告しなければならない別の事柄がある。それは、三ヵ月前までの〈書いていた僕〉に対して、それ以後の〈書かなくなった僕〉は、はたして誠実であったのかどうか、という事に就いてである。その報告の後、僕はさらに次の問いに答えなければならない。

「僕は、誠実であるために書き続けなければならないのか」

あるいは

「書かれた誠実は、偽善に過ぎないのではないか」
(1986/5/6)

 

(再掲)頭痛の予感《1984年3月23日のノート》

 
前々から、僕は「健全な肉体に健全な精神は宿る」という言葉が気に入らなかった。いったい「健全な肉体」に宿るような「健全な精神」とはどういうものなのか、それこそ信用のおけない代物ではないのか。

太宰治が、この言葉について、こんなことを書いている。
「ギリシャ原文では、健全な肉体に健全な精神が宿ったならば!という願望と歎息の意味が含まれているのだそうだ。」
こいつはうれしかった。健全な肉体などという下品なものに、健全な精神が宿ることなど絶対にありっこない。ざまあみろだ。
しかし、健全な精神とはなんぞや。健全な精神は健全な肉体ほど分かりやすくない。僕の場合、特にそこが屈折しているわけで、「ギリシャ原文」でいうところの健全な精神とは何か、結局それが判らないママなのだから、こいつは言いがかり、要するにいい加減な気分を口に出しているだけの話。

「凡そわれに益するところあらんと願望する情、その市(虚栄の市)に住むものたちより強きはない。しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、鳳凰、極楽鳥の秀抜、華麗を装わんとする情、この市に住むものたちよりも激しきはないのである」

この愛すべき太宰の言葉が真理ならば、「健全な肉体」に宿るものは、むしろ「旺盛な精神」のようである。かつての哲人たちは、この「旺盛な精神」の中から、よき精神を選り分ける事に苦心惨憺していたのだ。カントの業績はこれを見事に分析して見せた事にあったのだが、しかしその厳密さの故に、崇高な精神などは人間の限界を超えた手の届かぬところに追いやって、あらゆる人間の行為には「よき精神」と「われに益するところの欲望」の両面あるのだということを暴いてしまった。「よき行為」は地に堕ちた。というより「行為」に良いも悪いもない。全ての「行為」が、一緒くたに地に堕ちたのである。
太宰は言う。「私には良心がない」、良心など「牢屋への憎悪」「自己保存の本能」でしかないと。太宰の言葉を文字通り受け取る馬鹿はいないが、全て戯言と片付けることが出来ないから、太宰はいつまでも読み続けられるのだ。
「美しいもの、怜悧なるものは、全て正しい。醜と愚鈍とは死刑である。」
よく見つめてみるがいい。肉体ほど醜で愚鈍なものはない。
三島由紀夫は何故晩年あんな鎧を身にまとったのか、彼は醜で愚鈍な自らの肉体を嫌ったのだ。しかし、どんな鎧で覆い隠したとしても、肉体の本質が醜で愚鈍なものであることを、どうして変えることができようか。三島由紀夫の悲しさも愚かさも、きっとそこにある。
はるかに賢い太宰は、「美の基準」を求めながら、しかしつまるところ「百花繚乱主義」にならざるを得なかった。
「文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないか」
だが、そのとおり自然は「難解」なのだ。「斬り口」は無限なのだ。能天気な芸術家にとっては、無限であることがきっと希望なのだろうが、そこに絶望を感じる表現者を、どうやら僕は愛しているらしい。

つまり‥‥

太宰は言う。芥川龍之介はこの「つまり」を掴みたくて服毒自殺をしたのだと。
「かつての私もまた、この『つまり』を追及するに急であった。ふんぎりが欲しかった。道草を食う楽しさを知らなかった。循環小数の奇妙を知らなかった。動かざる、久遠の真理を、いますぐ、この手で掴みたかった。」
太宰は「循環小数の奇妙」は知ったのかもしれない。だが、「道草を食う楽しさ」はどうだったのか。「晩成の芸術」を否定するというのも太宰のアイロニーなのだかどうか、しかし結局、太宰は自殺したのである。
ツゥラトゥストラの巨人の言葉に憧れながらも、自らを芥川の「侏儒」になぞらえて「葦」と卑下してみせたポーズを、太宰は何故徹底して楽しむことができなかったのだろうか。

「ただ、世の中にのみ眼をむけよ。自然の風景に惑弱して居る我の姿を、自覚したるときは『われ老憊したり』と素直に、敗北の告白をこそせよ」

自然の風景は、健全な精神を癒すのか、あるいは傷つけるのか。ただ間違いなく、世の中の現実は、常に頭痛の種なのである。
(1984/3/23)

 

《頭痛日記》の予告

 
事務所には出向かず、自宅にてカクテル・パーティーの原稿書き。
黙って「お前」の告訴の決断を受け入れた娘について、ずっと考えている。
「沖縄の女性」が表すもの・・・

公開予告!
三太郎に言われるまでもなく、いい加減に原罪意識のらっきょの皮むきから脱却して次の章に進まないと、誰からも見向きされなくなる。埋め草に使っている《過去のノート》だが、ぼちぼち外界と交信を始めた頃のノートへ移行しよう。
《過去のノート》から《頭痛日記》へ。
要するに、外界とは、まず自らの肉体でしかなかったという表現。
相変わらずちっとも売れそうもないが、手順を踏まないと気が済まないのだから性質が悪い。
ともかく、まずは頭痛を乗り越える必要があったのだ。「沖縄」を語り始める前に。
本音は、《過去のノート》にちょっと飽きてきたということ。

《過去のノート》から《頭痛日記》の間には2年の歳月がある。改めてその間の文章を読み返してみると、自分で言うのもなんだが、ますますややこしい。なんとも公開するのは面倒くさい。だから《頭痛日記》でお茶を濁そうと考えたのだ。が、しかし《頭痛日記》だけでは埋め草にはだいぶん足りないので、そのややこしい2年間の《過去のノート》も、それはそれでぼちぼち公開するしかないのだろうかと憂鬱になっている。こんな「ブログらしきもの」なんかやめてしまえば簡単なのだが、そうもいかないと思っているのは何故だろう。

まあ、最初からコピペして後は知らん顔と決めていたのだから、初志貫徹。お客さんが増えませんように、というか、増えるわけがないよなあ、こんなんじゃ。
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