社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1983年7月13日のノート》

 
カミュ「語るということは、だから、いつもだれかを裏切ったということを前提としている」 だとすれば、たとえ真実を語ったとして、それがいったいなんだというのか。
「アア、敢エテ思考シタ私ハ禍ナリ。」
禍ヲ、敢エテ求メテ思考セントシタ私。アア、本末転倒トハコノ事ナリ。一体、何ノ為ニ?
「永遠の回帰とは、苦悩のなかでの自己満足を前提としている」
抽象化の生む〈悪〉について。シカシ、抽象化の〈愛〉について。

「それだからといって、別にどうだ、と、いうわけでもなく、」と。
(1983/7/13)
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(再掲)《1986年12月7日の旅のノート・頭痛日記》

 
近くにある背の低い山並みは、もうすっかり真暗なシルエットなのに、その背後にそびえる雪を頂く富士は、遠い日の光を浴びて明るく銀色に光って浮かび上がっている。こんな美しい富士山を、僕は初めて見た。

「ここでは色々な富士山が見られるんでしょうね」
「はあ…」

富士の麓で暮らし毎日富士を眺めている人が、妙に感動している僕を不思議そうに見ている……。

気配は数日前からあったのだが、とうとう今日になって〈あいつ〉はやってきた。予め買っておいたアリナミンの封を切る。肩凝りの薬じゃ効くわけないと思いつつ、名古屋あたりで飲んではみたが、案の定大阪に着いても全く効果は現われない。
とたんに憂鬱になる。
(1986/12/7)
 

(再掲)《1985年9月2日の旅のノート》

 
台風一過、爽やかな青空に涼しげな雲が浮かぶ。今朝、宿を出た時は気分はすこぶる良かったのだ。だが……。
バラシの最中に怪我をしたメンバーを東京に送り返すため、滝川へ移動する途中に千歳空港に寄る。といってその事自体は大した事ではない。一人減って芝居がボロボロになるのだとしても、そんなことは大した事ではないのだ。むしろ僕に影響していたのは、大江健三郎の小説だったのかもしれない。ともかく、朝方に台風一過などと嬉しがっていた僕は、もはや存在しなかった。

夜の高速道、昨日から義務になったシートベルトに締め付けられて、僕はひどく居心地の悪い思いをしている。車の背後でジェット機が轟音をたてて飛び立つ。サイレンを鳴らさず、ただ赤いランプを回転させるだけの高速パトカーが、僕の運転するワゴン車を滑るように追い抜いてゆく。ラジオでは、日航機墜落で幼い命を落とした子供たちの追悼式が、それぞれの小学校で今日行なわれたと報じている。それに続いて殺人事件のニュース。台風で遭難した漁船の一報と秋鮭漁解禁のニュースとの奇妙なバランス。そしてとってつけたような天気予報……。

点々と続く照明に照らしだされた北海道の夜の高速道路は、あたかも異星人の住む星の冷たく湿った空間に浮かぶ滑走路のようだ。

〈こいつは古典的な文学世界ではない、現代小説の心象風景って奴だ。ほら、電波の粒子がはっきりと目に見える。きっと僕は、巨大な力に支配されているのだ。〉

そう思った瞬間に、この僕自身がミニチュアの宇宙船を操る巨人となった……。
(1985/9/2)
 

(再掲)女は本当は守られたくない《1985年2月19日のノート》

 
「アイヌ女がシャモ男を寄せつけて、色目をつかうようになった日から、アイヌの滅亡は始まったわけですわ。どんな人種だって、女たちの美の標準が大切なんですよ。女たちがもしも、ウタリ以外の異人の男に美の標準を置くようになったら、それでおしまいなんだよ」
「『刺青!』と雪子は身ぶるいした。とがらせた石や貝殻の破片、骨や金属の針で傷をつけられ、藍色の染料をしみこまされる痛みも、想像された。だが、彼女を身ぶるいさせたのは、そのことではなかった。また、女を盗られないようにするため、女の意思におかまいなしに、女の顔に自分たちの徽章をつける、部落の男たちのエゴイズムが、おそろしいからでもなかった。唇のまわりを青い刺青で縁どられてしまったら、その日から、まるで別の女になる。もはや彼女を愛してくれるのは、刺青の女を美しいと感じる男たちだけだ。そう決められてしまうことが、何より恐ろしいにちがいない。」
(「森と湖のまつり」武田泰淳)

「男と女はなーんも、一緒に寝なけりゃいけんというもんでねぇ。仲よぐ、兄妹のようにしていてもええだ、躰の関係さもてば、一時は楽しいが、肉と肉がさわいで、よろこぶだけのことだ。心は空しい。おりんちゃん、おめは、おらの妹だべ。」
 (はなれ瞽女のおりん、うれし泣きする)

僕は「文化」という話題でお茶を濁す。

失われていく日本の文化を守ろうと、たいへんなことをあなたは言う。だがあなたに見えている文化とは、その皮相な表面だけではないのか。
前近代的な苦しさなど存在しなくても、瞽女の文化はしっかりと残せるらしい。教養主義的に御座敷芸を批評していると文化人になれる。例えば長屋というものは、長屋然とノスタルジックに装飾されていなければならないらしい。昔の長屋の心は、むしろ安い公団住宅の方にあるのかもしれないのだが。
最後の瞽女唄の継承者に瞽女の心がある。なるほど、へその中で茶が煮え立っている。

失礼つかまつった。要するに茶化しているのだ。皮相な表面をなぞっているのはこの僕の方なのである。なにしろかく言うこの僕は、かつて“芦晃”などという大層な名を大先生から頂戴したりした事があるのだし、それについて、末は間違いなく文化勲章だ、なにしろ後継者が少ないのだから、などという言葉を、黙って聞いていた事もあるくらいなのだから、つまり僕こそがでまかせを語っているのである。

水上勉を、たんなるきっかけにして言葉の遊びを転がしているに過ぎない。だから、決して真意を勘繰ってはならない。

「お堂の仏さまより美しいぞえ」
「おらどが、仏さんだなんて……兄さま、おら、兄さまの妹だ、妹だ」
(と、おりんは泣く、妹であることが悲しいといって泣くのである。)
(1985/2/19)
 

別の思いがある

 
まず、アイヌについて語り、それから沖縄へという魂胆なのに、ちっとも先に進めず、ただ過去の屍を埋め草にしてばかりいる。

世の中は、あっちもこっちも不景気極まっている。しかし、どんなに苦しくても、今のこの時に仕掛けなければ、ただ消え行くのみであると確信しているから、昼間はひたすら奔走している。

だが、別の思いがある。

自宅の書斎に戻ると、(といっても、なかなかそんな時間も無いのだし、次の日の仕事を考えれば、とっとと眠るべきなのだろうが)昔読んだ本や、買ったはいいが読む時間が無くて読み切れていない本などを引っ張り出してきて、あっちこっちとつまみ読みを始める。いつしかつまみ読みのつもりが読みふけり、白み出した空に慌てて布団に潜り込む。しかしもう眠れやしない。浅く短い睡眠だけで、仕事に出かけるはめになる。

ずいぶんと前に片を付けていたはずの事どもなのだが、それが気になりだした。自信がなくなったわけではない。ただ、きちんと論理的な言説をもって自らの立場を披瀝することができるだろうか、そのあたりを、もう一度確認しておきたいと思ったのである。かつて読んだ本だが、再読すれば新しい発見もある。今日生まれた言葉は、なんとしても今日のうちに書き残しておきたいという衝動に駆られる。ただ、そのような即時的な言葉を、そのままここに垂れ流すことは許されない。もはやかつての僕ではない。たくさんの方に助けられて仕事をしているのだから、迷惑を掛けるわけには断じていかないのだ。しかし、それでもやはりどうしても語りたいことがある。だから、なんともやっかいなのである。

大城立裕氏よりも前の沖縄の小説を、あれこれ読んでいる。ひたすら結論を求めて急いでいたあの頃に比べて、今の僕は、ずっとゆっくりと、それらの小説の世界に浸っていられる。与えられた現実的な時間は、はるかに少ないのだが。

「沖縄問題をあくまでも『文化問題』として捉えようとする姿勢が、沖縄問題をイデオロギー的に捉えることを警戒して『政治』と『文化』を二文法的に切り離した」
「その姿勢が彼(大城立裕)の文学に多くの価値をもたらした」
「しかしコロニアルな状況のもとでは、『政治』と『文化』を切り離す二文法的なとらえかたが、『文化』の持つ政治性について無警戒に陥る場合の多いことは」「指摘されてきたことである」
(岡本恵徳「占領下の沖縄と大城文学」(『大城立裕文学アルバム』)

しかし、文化の政治性についての無警戒をいうなら、即自的な沖縄の芸能者にこそ当てはまるとは言えないか。
「コロニアルな状況」を突き詰めていけば、新川明の「反復帰論」のように、結局、国家と個人の問題とならざるを得ないのではないか。
そして、一般名詞となった「国家」と「個人」は、色を失う。それをマイノリティーの芸能で補おうとしても、それは論理的な矛盾ではないのか。

沖縄を「さまよえるユダヤ人」になぞらえようとする者の声を聞く時、僕は、僕の家族を思い浮かべ、彼らの人生が安心に満たされ穏やであることを心から願っている自分を見つけて、そして呆然と自己嫌悪するのである。

僕にとってアナーキストとは、いまだに限りない憧憬の対象でありながら、また限りなく嫌悪する何者かなのである。
 

(再掲)《1985年2月16日のノート》

 
悲しい、ふっと。

神の里、高千穂神社にて毎夜開かれるという夜神楽、そう聞いて出かけたのだが。
演じている姿に生気が無い。本来は、短いものでも半時間、長いのは一時間半にも及ぶ三十三種の神楽、夜を撤してその全てを行なうものなのに、その内の四種だけを選んで、それも短縮して併せて一時間足らずの見せ物に仕立てて物好きな数人の観光客に見せるのでは、やる方だって気が入らぬのも当然だ。

席を立って表へ出る。
篝火に映える松も鄙びた社も、こうなってしまってはもう何も伝えてこない。ただただ寒々としているのみだ。

どうなるわけでもないと知りつつ、ただ苦しむだけであることがわかっていても、僕はどうすることもできない。目を閉じて、神楽の太鼓の音に耳を傾け、気を鎮めようと勉めてみても、いっこうにままならぬ。

そういえば、延岡からこの高千穂に続く国道沿いの風景は、確かに美しかった。感情と共謀せぬ僕の貧弱な理性でも、確かにあの渓谷の美しさを認めてはいたのだ。

それらしきものを書き始めたいと思う。根の無い僕の理性に、〈心〉といったものを無理に接木してみようと思うのだ。
(1985/2/16)
 

(再掲)《1985年1月のノートの抜粋》

 
忙しいくて、だから活字から遠ざかっている。
目が疲れる。ひとつ伸びをして、緑色のゼラチンを眼鏡に張り付けてみる。
「どうだい、エメラルドの国でも見えるかい?」

〈檸檬の重さ〉……ちょっと言ってみただけ。
充実感? 嘘だ、単に時間が満たされているというだけのこと。
つまり、〈檸檬の重さ〉とは程遠いということ。

連日の徹夜。疲れている。僕の時間が無い。

「貯金局。そこに出ている役人は非常にいい男だが、貯金局を軽蔑して無用の長物だと思っている。……そのくせやっぱり勤めている。」
(「チェーホフの手帖」)

僕は常に隔たっている。納得がいかないから隔たっている。隔たっているから少しは自分が見える。
「客観的ってことかね」
「客観的とは力のない飾りもののこと」
「自分が見えなくなるような、そんな熱い仕事がしたいんだ」
(1985/1)
 

(再掲)《1983年11月22日のノート》

 
自分の思い込みでしかない事を、何故人は自信に満ちて語るのだ。愛すべき人たちなのに、何故盲目になるのだ。
ナゼ、ボクハオコッテイルノダ。
もっと賢くなれ。素敵になれ。
(1983/11/18)
 

(再掲)《1985年7月15日のノート》

 
僕は、いつから部屋を暗くしなければ眠れなくなったのか。あんなに死を恐れ、明るくなければ眠れなかった幼い僕は何処へいったのか。

「狂気の理論」があるのではない。きっとあらゆる理論が狂気なのだ。
一度分裂してしまったものは、いくらハイフンで結んでも、もはや結合することは不可能だとレインは言った。
なるほどその通りだと思うのだ。

町へ出よう。町へ、出よう。

だが、「真正ならざる罪」は本当に許される罪なのか。それもまた「地平のかなた」の悪につながる罪ではないのか。

迷っている素振りをしても、逃れられないことを思い知れ。
(1985/7/15)
 

ねえ、あんた

 
あんた、まだ起きてんの。もうやめなよ。何もかも忘れてさ、もう寝たほうがいいよ。

あたい、あんたの日記、好きだよ。毎日読んで、泣いている。ほんとのこと、やっぱりあんたは言えないんだよね、だからあんたはさ、昔のことばに、そっと今の気持ちを託してるんだよね。あの時とおんなじだ、あんたのさ、いちばんたいせつな子供たちのためだけに書いていたあの時のあの手紙。あたい、あんたの日記、読むのとっても好きだけど、もうやめなよ、だって、とっても悲しいからさ。

あした起きて晴れてたら、あたいはあんたのいる西の空の方を眺めてさ、ちょっと深呼吸なんかしてみたり、ああ、きっと、あんたも元気になっただろうって、そう思えばこんなあたいだって嬉しくなれるんだから、その日一日頑張れるんだから、ほんとはコーヒー入れたげたいけど、あんたが独りでいたいときは、邪魔しないって決めたんだ。ずっと前に決めたんだ。

ねえあんた、あんたは一人じゃないんだよ、死ぬまでずっと、きっと一人じゃないんだよ。

三太郎なの?
 

(再掲)《1984年12月4日のノート》

 
嫌いな人間はいないのかと問うたら、怒っている人が嫌いとあの子は答えた。
怒っている時のあなたが嫌いとあの子は言った。
親が嫌いとあの子は言って、離れれば、きっと好きになれると家を出た。

嫌いな人がいるということの悲しさを、あなたは知っているのでしょうか…

「ああいう人間が嫌いなのだ」と、そんなふうに言ってしまえる人たちは、人を嫌いになるということの、その本当の悲しさを、少しもわかっていないのだと、そうあの子に教えられたのだ。

どこかに隠れて息を潜めたのは誰だろう。
(1984/12/4)
 

(再掲)《1984年11月7日のノート》

 
「仰臥漫録」……。
「理屈づめ」と「同感同情」。
だが理屈で考えるべきこともある。正しいことを正しいと云い、間違いは間違いと云う。そういう事柄に人情を持ち出すのは如何なものか。
しかし、病人だとか老人だとか、あるいは例えば、忘れがたき女だとか。
弱い人間を傷つけるような正しさとは一体どういう正しさか。弱くない人間などいるのだろうかなどという混ぜっ返しはやめるにしても。
考えて反省して、顧みて反省して、物分かりのいい、人の好い人物になって、そして穏やかな微笑みをたたえて、やがて僕の周りは、天気の話しか交わせない人々だけになる。極端なはなし。それでも誰もいなくなるよりはよっぽどましなのか。

「生命を売物にしたるは卑し」と書いた子規の、「食ひながら時々涙ぐむ」というような日記を、その死後に文庫本に編纂して多くの人に読ませるとは如何なものか。
卑しいものを人は喜ぶ。坂口安吾はこの「仰臥漫録」を読んで大いに笑ったとか、本当だかどうだか知らないけれど。確かに泣くのは嘘っぽいし、泣けないのなら笑うしかないような気もするし、要するに、そういうものだから、きっと卑しいのだ。
気楽に他人の〈死〉を覗き見て、それで何がわかるのか。
〈死〉は、人智の及ぶところにはない、つまり「朧」なのだ。
「大仏の目には吾等も朧かな」……
大仏だから「朧」なのではなく、大仏でさえも「朧」なのだ。なんとも救われない。

僕は、安吾ではない。僕は淋しげな微笑みをたたえて、「仰臥漫録」を読み終える。
(1984/11/7)
 

(再掲)《1984年1月24日のノート》

 
「ロオラン曰く、芸術の窮まる所無限の静なり。プウサンを見よ。ミシェルアンジュのごとき未だしと。また年長じていよいよゲエテの大を知る」
と成瀬語る。芥川それを聞きて
「しごくもっともなり」
と「我鬼窟日録」に記す。
それより半世紀隔てて我それを読み、そしてそれをここに写す。これこそ文学の糞の糞。ついに糞集めの道極めて世捨て人となるか。

性懲りも無く…
「落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害をのがれるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。」
「この涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の灯火をつつましやかにともしてくれる。」(「葱」芥川竜之介)

まどろみの中で…

読書に疲れて眠りについたのは、もう東の空が白み出した頃だったろう。だから昼近い強い日差しに起こされても、僕はまだ朦朧として寝床に横になっていた。すると、あのお君さんが部屋のドアを開けて入ってきた。二言三言ことばを交わしたのだろうか。お君さんは、書棚に並んだ僕の蔵書の背表紙を順繰りに調べ始めた。何とはなしに、僕も彼女の視線を追っていた。フローベル、ストリンドベリ、漱石、そして芥川、……新しい作家のものは一つもない、……と、お君さんが快活な声をあげた。

「あたしの大好きな本がみんなあるわ。特に『不如帰』なんか、もう何度も読んで、それでいていつでも泣いてしまうんですのよ。」

何も不思議な事ではない。「不如帰」も「藤村詩集」も「松井須磨子の一生」も、「新朝顔日記」も「カルメン」も、お君さんが好きだということは、「葱」を読んで前から知っているのだ。だからこそ、読んで君を理解するために買いおいてあるのだ。

〈ははあ、彼女は、まだ「葱」を読んでいないのだな、お君さんのこと、あんなにたくさん書いてあるというのに〉

そのお君さんは「不如帰」を手にとってパラパラと頁をめくっている。

〈いやそうじゃない、お君さんは死ぬまで「葱」など読まないのだろう。彼女の人生には、数冊の名作さえあれば、それで十分なのだ。〉《1984年1月24日のノート》

ふと、お君さんはもうその姿を消していた。


「俊寛」芥川龍之介……
「涙に透かして見れば、あの死んだ女房も、どのくらい美しい女に見えたか」
だが……
「わたしはあなたに慰められるよりも、笑われるほうが本望です。」
そして俊寛はとうとう吹き出した。
「葱」との違い。涙の芸術の嘘。
(1984/1/24)
 

昨日のこと、帰る日のことを語る

 
公開することに躊躇して、こっそり書いていた事なのだが。
僕は、僕のやろうとしていることを信じることにした。
僕のやろうとしていることを、僕自身が信じられないのだとしたら、他人など誰も信じてくれるわけがない。

ただ文学についてのみに思いをはせていることができるならどんなにうれしいことか。それを声にして語るという表現が、どんなに文学的におもしろいことか、それだけを伝えることができたなら、それでよかったのに。

なるべくわかりにくく…

アメリカに土地を貸して、お金を全身にまとい、座布団の下にも札束を押し込み、一歩も表に出ることなく、10億貯めて死んだというオバア。

ある有名な民謡歌手が、何の意図もなく、基地反対集会に呼ばれて歌ったら、たくさんの知り合いから怒られたという話を、まったくねえとくったくなく笑いながら語るオバア。
それは使命感を持って語り部となった人。

決して語ってはならないほんとうのこと。
熊送りはアイヌの悲しい悲しいお祭り。ひかりごけという小説。
それだけは、どうか忘れてください。後生ですから…

埼玉の素敵な位里さんを慕って集まった「戦士」たちと宜野湾のすばらしき美術館。
基地の中の祖先から受け継いだ広大な土地のごく一部をアメリカから取り返したお金持ちの奇跡を、あなたはやはり奇跡と呼ぶのか。
相手にしなかった日本政府。
面白がって許可した一人のアメリカ軍司令官。

北方領土が返ってくれば、きっと自然は破壊される。
おもろまちに聳える高値の花の高級マンション。あの仏像を競り落とした団体の異様に巨大な建物。そこに慰めを求めて集まる沖縄の悩める人々。
ユタという風習より、巨額な仏の方が信じられるというのだろうか。

沖縄の失業率。昼間からゴルフに興じるお金持ちたちも失業者。
小禄あたりで100坪もアメリカーに貸してればさ、働く必要などないさーね。土地が返ってきたらさー、働かんといかんさーねー…

そのゴルフ場から流れ出る農薬で減り続ける琉球のヤドカリたち。
マングローブに水の再生を託す研究。

おきなわでいちばんえらいのは、きっとさんしんとりゅうぶのせんせい。岡本太郎の評論など、彼らには必要ないのか。
口伝文学の歴史的運命の事例と沖縄の未来。

11万人が嘘だとかいう言説。
嘘ではないと信じている沖縄の普通の人たち。
新聞社への非難。
11万を受け入れる体制を作っておかなかった主催者の甘さは、沖縄ではありがちなこと。結局行きたくても行けなかったというたくさんの人たちの声。10人に1人、それが嘘だったとしても、きっとそれが沖縄の実感だと信じて疑わぬ普通の沖縄の人たちの実感を実感したというはなし。

ああ、話が分かりやすくなりすぎた。 一番語りたくなかったこと。

大城立裕の「罪」という言い方と、そう口にするインテリな人々が愛する沖縄の「即時存在」の幸せ。
僕が言いたいのは弁証法のこと。しかし、あまりに古い戯言。
僕の子供に流れる「おきなわの血」。彼らの将来を見据える父の眼差しは、共犯者の目なのか。

それを何も言わず許す娘。立ち去る息子。

「カクテル・パーティー」のラストシーンさ。許さん父親とさー、全部だまって受け入れた娘さ。きっとさー、大城オジイも書いたときは考えていなかったはずよー

大城立裕氏が、「カクテル・パーティー」のその後の戯曲を送ってくださるという。
とてつもなく嬉しいこと、しかし、どこか読まずにすむものならという気もする。

全て分かっていたことなのに…
 

帰る日に着いた日のことを語る

 
沖縄に着いた日のこと。

空港から、そのまま沖縄タイムスへ出来上がったCDを届けに行った。
受付の山田さんに、大丈夫でしたか?と言われて、夕刊の早刷りを見せられた。
「自衛隊機がパンク」
それで急遽嘉手納に着陸した民間航空機もあったという。
「なるほど、それで着陸してからあんなに待たされたのか」

琉球新報へ。
たっぷりと話は聞いてくれた。思いは伝わった。
「500枚売れれば次に繋がるのです。」
後は記事にしてくれるのかどうか…
「沖縄タイムスにもお願いしているのですが…」
「大丈夫ですよ…」
仲良くしてくれよ、と願う。

たくさんの沖縄の顔。
一筋縄ではいかない。覚悟はしている。

「アイヌ」とは人間という意味。
「シサム」は本来「隣人」という意味。
だが転じて「シャモ」となった時、その言葉には憎しみの相貌が帯びる。
他者と出会うということの意味。

沖縄も同じこと。
沖縄の人々は、どのように他者である「大和」と出会ってきたのか。

大城立裕氏の他者との関わり方を疑問に思う人たち。
作家・大城立裕に今さら光を当てようとする僕の企ては、もしかすると不幸の始まりなのだろうか。
ならば僕の企てなど、成功しないほうがよい。

萱野茂さんを思い出す。
萱野茂さんが開いた二風谷の民族資料館を批判する多くのアイヌ同胞たち。
アイヌを見世物にして、まるでアイヌの代表のような顔をして、だからおれは、そんな萱野茂のいる二風谷が大嫌いだといって故郷を捨て、遥か遠くの沖縄を放浪していたあのゲンちゃんは、今どこでどうしているのだろう。会いたい。ムショウにゲンちゃんに会いたい。

ゲンちゃんのことを記した過去のノートを前にして、僕はその扱いに困って沈黙している。

だが…
国会の質問がアイヌ語でなされるなどということを、いったい誰が予想できただろうか。萱野茂という人物がいなければ、間違いなく実現はしなかっただろう。
萱野氏のように振舞う者がいなければ、シサムがこのようにアイヌと出会うことはなかったということも事実なのだ。その出会い方に異を唱えるものがいるのだとしても。それが僕の大好きなゲンちゃんだとしても。

大城立裕という歴史的人物が今は亡きアイヌ萱野茂と重なる。

「カクテル・パーティー」の主人公「私=お前」は、ウチナンチュでありながらウチナーグチをしゃべることはない。そういう作品だからこそ中央の文壇に認められたのだとしたら、というか、そういう作品でなければ認められなかったとするならば、それは余りにつらいことだ。
「カクテル・パーティー」という作品が、沖縄の作家の作品として、最初に芥川賞を取ってしまったということ、それは沖縄にとって、実は不幸なことだったのかもしれないとも思ってしまうのだ。

だが、たとえそうだとしても、それは「カクテル・パーティー」の文学的価値を傷つけるものではない。断固として。
 

(再掲)《1984年10月30日のノート》

 
寒かったのかもしれない。その晩、雪の夢を見たのだ。それは淡い、淡い雪だった。

「どうでもいい……」

けっして投げやりなのではなく、これは純白の雪の効用なのだ。うっすらと積もった雪の絨毯の彼方に、僕を待ちながら立ち尽くす女がいる。女……、それは「ひと」と読む、演歌のように、「ひと」と読む。

雪よ、もっと降れ、もっともっと降り積もれ。街も人も、全てを純白に埋め尽くせ。
(1984/10/30)
 

(再掲)《1984年6月11日のノート》

 
茅野から上田に抜ける県道、白樺湖が近づくにつれ、やがて辺り一面緑の景観となる。この緑はもはや春の明るい少年の緑ではない。梅雨曇りのどんよりした天気のせいでそう見えるのか、いや、この成熟した濃い緑は、これらの木々の葉そのものの属性であって、日の光の量とは無関係だと思われた。むしろ晴れていれば、この緑の深さはより強調されるちがいない。これは6月初旬のまだまだ寒い高原の、露骨過ぎるほどの夏の気配だ。

するとどうだろう。そんなふうに夏を確信してしまうと、今度はその夏の中にすでに秋が潜んでいるのが気になりだした。秋ハ夏ト同時ニヤッテクルと太宰は言ったが、夏のたんなる気配の中にも秋を感じるということは、夏というものの中に離れがたく秋が含まれているということらしい。つまり僕は、僕の心情などというあやふやなものにこの秋の原因を求めたくないのである。

「秋ニナルト、肌ガカワイテ、ナツカシイワネ」
「飛行機ハ、秋ガ一バンイイデスヨ」
(「ア、秋」太宰治)
(1984/6/11)
 

(再掲)《1987年6月3日のノート》

 
書くためには書く対象への思い入れがいる。しかしそれだけでは書けない。書くという行為そのものへも思い入れがなければ書けない。対象への思い入れが愛でも憎しみでもかまわぬように、書くという行為を憎みながらでも書くことは出来る。だが、書くことを愛しも憎みもしなければ書くことなど出来ない。

あまりにも対象に思い入れが過ぎると、書くという行為に分け与えるべき思い入れが少なくなる。そうすると書けない。書く時期を失うということがあるとすれば、きっとそういう事情なのだ。だから、書くことを忘れさせるような強烈な現実は、結局遥か遠い〈思い出〉としてしか書くことが出来ない。

ならば〈思い出〉として割り切って書いてしまえばそれでよいのだが、勿論そのためにも書くという行為に思い入れがなければ書けないのだが、何故なのだろう、そのふたつが揃っていても、それだけではやはり〈思い出〉に就いては書けそうもないという気がするのだ。人が〈思い出〉を語るのは、特別な何かがあるからなのだ。僕にはそれが無いから、過ぎ去った事どもに就いて、きっともう書けないだろうという気がするのだ。

日記に書かれたものに少しでも価値があるとすれば、今日のこの日の出来事が、特別な何かが無ければ書くことの出来ないような〈思い出〉となってしまう前にそそくさと書かれてしまって、おかげで現実が生のまま残るからなのかもしれない。だとすれば、僕の日記には、何の価値も無い。
(1987/6/3)
 

(再掲)《1984年10月19日のノート》

 
構造ばやり。構造を解明して、それだけで満足している文化人がうじゃうじゃいる。
A君とB君がけんかをしているのはこういうわけなんですよ。
それがどうした、ちったあケンカを止める努力をしろ。
雨漏りの原因を講釈している暇があったら、とっとと梯子かけて屋根にでも登れ。
首が重い。不快。この不快感が治らなきゃ、首の構造がいくらわかったって意味なしだ。
何が批判の学だ。批判する対象の中に自分が含まれていることを忘れてやがる。構造とやらの網の目に引っ掛かっている醜い自分を発見するには、高性能の感受性が必要なんだ。
ちょっと書いては首を振り、おかげで目が回ってきちまった。まるで壊れた扇風機。働いている奴が休む、働かない奴はサボる。壊れた扇風機は休んでいるのかサボっているのか。あー無っ茶苦茶。
(1984/10/19)
 

(再掲)のん氏への手紙《1989年1月4日のノート》

 
毛沢東を読んだのは去年の十月、以来ずっと何となくひっかかっていたことを、今日洗濯しながらつらつら考える。

いまさら毛沢東なんぞ読んでどうなるのか。現代において、あらためてマルクスについて問う事の意味は……、などと考え始めてはみたものの、さっぱりわからん。はて。

誰だったか、いつかテレビでニュースキャスターが言っていた。レーガンとゴルバチョフとが手を握りあわさざるを得ない時代なのですねと。曰く「いまやイデオロギーなど関係なく、経済が世界を動かしていく時代なんです」……わからん。ソ連が生まれるよりもずっと前のことだが、マルクスこそが「経済が世界を動かす」と言ったのだ。さっぱりわからん。

イデオロギーではもはや世界は変わらないという。確かに、世界を変えるようなひとりの独裁者によるファシズムなどは、少なくともいわゆる「先進国」においては、もう出現しないのかもしれない。しかし、もっと柔軟な構造的なファシズムの危険、などと評論家が言う。何か得体の知れない意識の集積が世界を動かすのだと。イデオロギーを「考え方」と解すなら、意識もひとつのイデオロギーである。「意識」は弁証法的に顕在化する。例えば固定化された価値としての貨幣。貨幣は価値観の結晶である。その貨幣が、世界を支配する。実はそのようにしてしか世界は動かないと、そう言ったのはマルクスではなかったか。ひとりの独裁者にしても、それは構造が作り出すとマルクスが言ったのではなかったか。
そういうマルクスが〈イデオロギー〉になった。それは何故か。つまらん。

ロシア革命はマルクスのイデオロギーによって成ったのか否か、わからん。
どうもイデオロギーという言葉が曖昧なんだ。ならばこれではどうか。ロシア革命はマルクスの指導論理によって成ったのか否か。わからん。
例えば小林秀雄はそうではないと言う。そうではないとして、だからといってロシア革命がマルクスの論理を裏付ける材料にならないという事にもならないだろう。それは全く別問題なのだ。マルクスの考えは「資本論」に尽きている。その「資本論」に限っていえば、もともとそこに指導論理など存在しない。マルクスはただ革命の必然性を説くだけだ。つまり、「ロシア革命はマルクスの指導論理によって成ったのか否か」という問いでは的を射ていないのだ。知りたいのは、ロシア革命成立の事実がマルクスの論理の真理性を証明したのか否か、という事だ。毛沢東は証明したという。小林秀雄はそれについては何も言わぬ。言うのも無駄だとすましている。そしてドストエフスキーの目でロシア革命という事件を眺めている。きっとそうなのだろうと僕も思う。ロシア革命はマルクスにとってさえも〈以外な事件〉だったのだろうと。

つまらん、と、洗濯しながら考えている。

なるほど、仮にロシア革命が共産主義革命とは似て非なるものだとすれば、ロシア革命について何かものを言うということは、それはロシア革命という歴史的事件について語るというだけのことで、論理的な意味での共産主義革命については何程も語ることにはならないのだ。つまらん。

ならばロシア革命から離れて話を一般化しよう。過去において、共産革命と呼ばれる革命によって幾つもの共産主義社会が成立した。はたしてそれらの歴史的事実はマルクスの理論の正しさを証明する材料といえるのか。それらの事件が全くマルクスの理論と矛盾しないとして、それでマルクスの理論が正しいといえるのか……。
ああつまらん、話を一般化したらますますつまらなくなった。

こうなったらとことんつまらなくしてみるか。
ではこれではどうだ。何ひとつとしてマルクスの理論に異議を差し挟む余地が無いとして、だからといってマルクス主義の指導論理に従って革命を企てることが果たして許されるのか。問うべきはそこだ。しかしそれは倫理的な問題ではない。倫理的問題は全く別の課題なのだ。倫理に対する問いでは話がずれてしまう。それでは本当につまらない。あくまで正当的なつまらなさを追うのだ。〈革命を企てることが論理的に許されるのか〉、あくまでつまらない無味乾燥な論理的な問題としてそれを問うのだ。そのために問いをひとつ戻す。
〈共産主義革命による共産主義社会の成立、その事実は共産主義革命が歴史的な必然であるというマルクスの理論の正しさを証明するのか〉。

もしもマルクスの理論が正しければ、マルクスの指導論理によろうがよるまいが共産主義社会は成立する。だがより速やかにそれを成立させようと思えば、マルクスの指導論理に従って革命を起こすのがよいという訳だ。ほっておいてもいつか雷は鳴る。だが条件を整えてやれば、実験室の中でも思うように雷を作ることができる。例えとしてちょっと違うのかもしれないが、ほっておいても成立するものを早めるという意味において、マルクスの指導論理は実験の手引きのようなものだ。〈共産主義社会は必然的に成立する〉という理論を証明するために革命という実験を行なう。その結果共産主義社会が成立する。実験は成功である。しかし果たしてその実験で、共産主義社会成立の必然性を証明したといえるのか。

なんだかよくわからん。つまらないのは望むところだったが、しかしわからないのは予定外。話をわかりやすくしよう。

〈僕は必然的に左へ行く〉ということを証明するために僕は左へ行ってみせる。そうして、ほらこれが実験の結果だ、どうだ、〈僕は必然的に左へ行く〉というのは真理だったろう……、誰がそんなこと納得するものか。つまりだ、革命の成功が共産主義社会成立の必然性を証明するというためには、〈必然的に共産主義社会は成立するという命題が真理でなければいかなる革命も成功しない〉ということをまず証明しておかなければならないということか。
ちっともわかりやすくない。

最先端の物理学の世界の話。机上の理論を証明するために実験する。その実験結果が理論を裏切ることは絶対にない。なぜならばその実験方法は、その証明されるべき理論によって都合よく考え出された方法であるから。
ちょっと違う、いや大分違う。この話はそれほどわかりやすいものじゃない。
つまり、理論と実験方法とは不可分であり、理論に影響された実験方法は結果に影響する。その結果をはじめの理論で読み取れば、理論は常に実験によって証明されている。
ずいぶんとわかりにくくなった。もっとわかりにくくしよう。
実験の対象である素粒子の世界は、アインシュタインの相対性理論を適用しなければ解読不能なミクロの世界であるにもかかわらず、実験する人間はどう頑張ってもニュートンの理論で十分な大雑把な感覚によってしかその実験を観察することが出来ない。この主体と客体のギャップが、どういう訳かおかしなことに、理論が期待する通りの実験結果を導いてしまう。いわばどうしても期待が結果に影響してしまうというのである。本当はもっとわかりにくい話らしい。原因が結果を生むのではなく、結果が原因を規定する。洗濯するから汚れが落ちるというのが普通だが、先に汚れが落ちて、だからさあ洗濯しろといわれることもありえるというはなし。

すっかりわからない。相変わらずつまらない。
ともかく、物理学でさえ訳のわからない時代、革命が科学的実験だなんてのはもはや通用しないと、毛沢東を読んで思ったということ。洗濯しなけりゃ汚れは落ちない、洗ったパンツは干さなきゃ乾かないというのが現実であるということ。ああ本当につまらないことになっちまった。

「あの壁は、その内側に正義が存在すると、固く信じて疑わないものにしか突破出来ない。そこに正義が存在することに、いささかでも疑いを抱いてしまったら、そいつには壁は突破出来ない。そいつは、疑いながらも永遠に壁に支配されつづけなければならない。私が革命家として駄目になったのは、そのせいだ……。」
(「太郎の屋根に雪降りつむ」別役実)

はたして、洗濯なんかしたせいで駄目になった革命家というのもいるんだろうか。

「生活というのは、一人で思い悩んだり、何かの理想のために苦しんだりすることとは別のところに、もっと折目正しく創られているんです。」
(「街と飛行船」別役実)
(1989/1/4)
 

(再掲)《1984年8月22日のノート》

 
単純な感情など、そう滅多にあるものではない。単純な言葉が歓迎されるとすれば、それは実生活に於て単に有効であるというに過ぎない。どうもややこしい僕の気持ちを表すために、僕自身の言葉の無力を感じながらも、僕はそれを放棄する事ができない。

無数の空気が衝突し、あるいは交錯し、結合と分裂を繰り返しながら、それぞれ複雑な形態を持つ大小の群れとなって渦を巻き、ある時は柔らかく、突如激しく、それらは僕の乾いた皮膚を様々な角度で愛撫する。久しく、僕はこの風を忘れていた。遠い街の喧噪、遥かな海上で軋む漁船、そうした空想はどんなにか僕を楽しませる筈だった。だが、テレビから流れて来る露骨な台風情報は、僕の叙情的な写実画を無惨に引き裂いてしまう。

「気に入った空想が伴わなければ、この風も余り僕を惹きつけない」

僕は揺れ動く風の中を歩き乍ら、そんな事を考えていたのだが、僕の肉体は、その表面から次第に内部へと、しかし内部とは無関係に、静かにこの風に影響され乍ら、安定した快楽で、侵蝕されていった。
(1984/8/22)
 

(再掲)《1984年8月18日のノート》

 
担々とした絶望の層の上には、余りに安易な、だからこそ懐かしい平安の層が重なり、掘り起こしてみたところで、それは時の経過を示す以外に何も語りはしない。僕はその地表を歩きながら、ひたすらに保障された嵐を待っている。それは豪奢な気分だ。感傷などない。水分は瞬時に気化してゆく。〈満たされている〉という事が、残された広大な世界を顧みないことなら、深遠な高揚などもはや訪れることはない。

僕はいつしか立ち止まり、そして再び歩き出す事を放棄するだろう。その時、なお僕に僅かでも硬直に対する敵意があれば、後は地熱を足裏に捉え、いまだ名を持たぬ地層の怠惰を糾弾するのみだ。

「しかし、損害はただ僕だけにはとどまらない。」
それこそ怠惰を隠す偽善だと君は言うのか。そうではない。純粋な無償の行為が不可能なのと同様に、全くの偽善も有り得ないのだし、何よりも〈愛〉は分析される事を拒みながら確かに存在しているのだ。

だが、遠く離れている事に、ある安堵感を覚えている。
(1984/8/18)
 

(再掲)《1984年9月11日のノート》

 
「希望とは、死ぬか生きるかの荒あらしい戦いの場にいるものの言葉だ。友情もまた戦いの時代のものだ」「おれは遅れて生まれてきた」
(「われらの時代」大江健三郎)

〈男〉とは男に付された名であるが、〈女でないもの〉とは名ではない。それは何者でもない。
〈戦争を知らない子供たち〉とは、あの時代の青年たちが自らに付した名であるが、現代の青年たちは、もはや〈戦争を知らない子供たち〉ではない。といって、当然のことだが、それは「戦争を知る子供たち」を意味しない。敢えて言えば、彼らは〈かつて「戦争を知らない子供たち」がいたということすら知らない子供たち〉である。それはやはり名ではない。それは何者でもない。

遅れて生まれてきた青年たちは、「遅れて生まれてきた」と叫んだ。それは悲痛な叫びだが、しかし彼らは「彼らの時代」を持っていた。〈遅れて生まれてきた青年〉という名を持った仲間たちを持っていた。
ところでこの僕は、「〈遅れて生まれてきた青年〉からも遅れて生まれてきた」と、ひとりで叫んでみるのだが、それは何の意味もない叫びなのだ。〈「遅れて生まれてきた青年」からも遅れて生まれてきた青年〉とは、要するに何者でもない。
(1984/9/11)
 

「アイヌ」のこと

 
何の気なしにテレビをつけたら、大滝修治氏の顔が大写しになった。ドラマの中で延々と演説をしている。北海道の地方局が制作したドラマらしい。

かつて僕は、今は亡き演出家の加藤新吉さんに、声の良さを褒められたことがある。それがとても嫌だった。その新吉さんから、いい声だと思う役者は誰だと問われたことがある。僕はあえて悪声の大滝修治さんの名を挙げた。新吉さんは、屈折した奴だとでも言いたげに、皮肉っぽいうすら笑いを浮かべた。

そういえばこんなことを言われたこともあった。君は花を見て素直に美しいと思ったことがあるかと。僕は記憶にないと答えた。

車の免許を取ることにした。すると新吉さんは、役者が車の免許なんか取っちゃだめだと言った。なぜという僕の問いに、タクシーの運転手になっちゃうよとの答え。タクシーの運転手がいけないというのではない。役者を目指す者が、潰しのきく資格を持ってしまったら、あっという間に食えない役者など辞めてしまうだろう、自分を逃げ場のないところに追い込まなければ、いっぱしの役者になんか到底なれるものではないという苦言であった。

何年か経って、僕が悶々と穴ぼこに落ち込んでいたころ、久々に会った新吉さんに、どうやら僕は天才ではないということが分かりましたと、半ば冗談で言ったら、やっと気がついたの、よかったね、と真顔で言われた。

そんなことをつらつらと思い出しながらテレビの画面を眺めていたら、最後に流れていくテロップの中に、知った人の名前を見つけた。かつて一緒に芝居をしていた女優さんの名前。彼女は旦那さんの転勤で故郷の北海道に帰ったのだが、しばらくしてその彼女から、アイヌの芝居をやりたいから脚本を書いて欲しいという長文の手紙が届いた。しかし結局、僕は彼女の期待に答えることができなかった。

アイヌのことは、確かに考え続けていた。そのことを彼女は知っていた。一本の芝居をでっち上げるくらいのネタは持っていた。だがネタが増えれば増えるほど、逆に書くことが困難になった。
あれほど考えていたアイヌのことなのに、公開を始めた僕の過去のノートのどこを探しても、まともにアイヌについて書いた文章は見つからない。
今日だって、新吉さんの遠い話あたりから始めないと、アイヌまで辿り着くことができないのだから情けない。

白状すると、「沖縄」はなおさらで、最初にアイヌのことを語ってからでないと、沖縄について何事も語ることは許されないと、どうやら僕は思い込んでいるらしいのである。
ああ、こういう言い方がまずい。まず「アイヌのこと」という言い方がどうなんだろう。しかし、殊更気を使って「アイヌの人たちのこと」と言い換えてみても、それはそれでしっくりこないのだ。「アイヌの人たち」という配慮を考えなければならないというそのことが、何か違うのである。あるいはまた、決して「アイヌのこと」が「沖縄のこと」より簡単なわけではないし、また「アイヌのこと」と「沖縄のこと」は、同列に並べられるようなものでもないはずだ。
それにしても僕は、いくつかの「アイヌ」に関わるエピソードを語ってからでなくては、やっぱり先に進めないような気がして仕方がないのである。

僕は、インターネットという世界に向けては、思想的な立場での発言は一切しないと決めてみたのだが、たぶん具体的なことに触れるようになれば、そうもいかなくなるに違いない。だから、なんとも憂鬱なのである。

まずひとつ。

ちょっと前のこと。東京都の某知事が某「東京なんたらテレビ」で語っていたこと。「日本人の原点は縄文人で、それは北のアイヌと南の沖縄に受け継がれていて、つまりアイヌと沖縄は全く同じなんですよ」云々。そういう考え方がないわけではないが、しかし今は、アイヌと沖縄とは違うルーツを持つというのがかなり有力な説であって、けれども私はこう考えるというのならまだしも、まるで答えはひとつだみたいな断定をするのは、勉強不足のせいなのか、あるいは確信犯なのか、いずれにしろこういう人が人気があるって、そんなことでいいのだろうかと、ひどく悲しくなった、というエピソード。

今日はもうこれ以上何も言わないことに決めたのだ。
 

(再掲)《1988年6月1日のノート》

 
いけないと思いつつ、アイヌの事、途切れている。沖縄の事、途切れようがないのに、それも途切れている。途切れたってどうってことないものも全部途切れている。それから「小林秀雄」も途切れている。「大江健三郎」、無念にも途切れている。こんなにもいろんな課題が途切れちまったのは、ずうっと抱え込んでいる「資本論」のせいだ。「資本論」に係ってから、87年がとっくに88年になった。その間に結婚して劇団も辞めた。
なるほど、ズタズタなのは意識ではなかった。というより、何というか、物理的に、というか、どう言おうとどうでもいいけれど、実際の、現実のズタズタが、この意識をもズタズタにした、そういうことなのかもしれない。
ズタズタな世界を、ヘーゲルは「意識」でもって繋ぎ合わせて見せたけれど、マルクスにしてみれば、ちっともズタズタでないヘーゲルのその「意識」とやらが気に喰わなくて、そこでマルクスは、今度は〈赤い〉糸で世界を繋いでみた。そうして出来た「資本論」も、僕のこのズタズタを繋いではくれない。ヘーゲルにしろマルクスにしろ、どうも糸が太すぎるのだ。生身の人間の肉体に、スッと入り込んでこられる糸は、きっともっとずっと細くなければいけないのだ。赤いのか黒いのか、色など見分けられぬほどの細い糸。肉体に入ってこないこの「資本論」は、どういうわけか空気のようだ。そういえば、何もかもが空気のようだ。遠い昔の空気のようだ。最高裁の相変わらずの逆転判決、レーガン・ゴルバチョフの核軍縮の調印、それらは今日の事なのに、今日のニュースも、やっぱり遠い昔の空気のようだ。
(1988/6/1)
 

(再掲)《1988年5月15日のノート》

 
人生は出会いだけで作られる。出会いは全て偶然である。人生は、だから偶然の集合体である。なのにあたかも人生が必然の連続にみえるのは、今の意識が過去を繋ぐからだ。その意識の糸は、はたして赤い糸であるのか。

人生? そんな大げさな事ではない。たった半年。この途切れた半年間を意識の糸で繋ぐ。だがその意識がズタズタならどうする。ならば意識の糸そのものを新たに紡ぐのだ。紡いだらその糸を赤く染めよう。そうしてようやく時を繋ぐことが出来るのだ、その赤い糸で。焦ることはない。

問題はもう日記などではない。大笑いだ。笑え。血が出るまで笑え。その血が糸を赤く染めるのだ。紡ぐのはその後でよい。笑え。大笑いを笑え。
(1988/5/15)
 

(再掲)《1984年10月6日の妄想》

 
「芝居の楽日と兄の結婚式とが重なってるんです。両親は当然私が兄の結婚式に出ると思い込んでます。兄の結婚式に妹が出席しないなんてそんな非常識なこと、彼らにはとても考えられないらしい。でも、私には楽の日に劇場に手伝いに行かないことのほうが考えられない。私の価値観と彼らの価値観が全然違うんです。私、結婚式なんて意味無いと思うんです。」

初日の芝居の後、待っていて欲しい、相談したいことがあるから、電話でそう言われて気やすく承諾してしまったのを、僕は少しばかり後悔し始めた。僕は、彼女が自分の父や母のことを「彼ら」と呼ぶのをはじめて聞いた。その硬質な違和感。
「そうかな。君の兄さんたちにとっては、結婚式、とても大切なんじゃないの」
「常識家なんですね」
「あのさ、どうして芝居は必要なの? 結婚式が無意味というなら、芝居なんかもっと無意味じゃないかね」
僕と同様、彼女ももうこの話題に殆ど興味を失っているようだった。
「毎日毎日同じ事の繰り返し、だから人間はさ、たまに芝居でも観て、それで非日常というやつを経験して元気を取り戻すんだ。祭りの代用みたいなもんだ。結婚式もおんなじ事さ。人生は単調だ。だから結婚する二人には、せめて結婚式っていうお祭りが、人生の区切りとしてどうしたって必要なんだ。祭りとしちゃあ、芝居なんかよりはるかに結婚式のほうが重要じゃないかね。」
なんで僕はこんな心にもないことをしゃべっているのだろう。
「こんな事私が言ったらどう思われるか、とっても不安なんですけれど……」
そう前置きして彼女は話し始めた。不意に現れた深み。それは予期していなかったわけでもないのだが。彼女は何を言っているのか。羅列された無意味な記号、訝しがる僕の目に、戸惑いながらもなお発せられる彼女の言葉を僕は一言も理解することができない。だが、僕は全てを理解した。
「わかりますか、私の言っている意味。」
「よくわからない。」
「これでわかって欲しかったんですけど。」
「俺、常識家かね。」
「そう思います。」
「非常識なことを言うが、今晩泊めて欲しい。」

彼女がうちの劇団を抜けてからもうどのくらいたったのだろう。やりがいのある芝居がしたいのだと、彼女は新しい劇団を選んだ。居酒屋でアルバイトを始めた。短めの髪をさらに短く切り、うっすらとしていた化粧もやめた。そしてごく最近、親の家を出て劇場の近くに部屋を借りたのだという。それからなのかもしれない、彼女が両親を「彼ら」と呼ぶようになったのは。

「ずっと悩んでいました。」
寝具一式の他は文字通り何もない部屋。深夜の静寂の中に落ちてゆく彼女の呟きと息づかい、「あなた…」、その硬質な違和感。
僕は勃起していたのか。ただ射精能力の無いことを僕は確信していた。だからこそ、平然とここまでやってこられたのだが、彼女にとってはそれは侮辱だったのか。

これが大江健三郎の言う「愛」でもなく「欲望」でもない「勃起」というやつか。
〈性器が勃起するということは、がいして生理的な側面のできごとにすぎない。勃起した性器を射精にまでみちびくこと、それは精神にかかわる人間的な作業だ〉
なるほど奴の言うとおりだ。意志がなけりゃ始末がつけられないという訳だ。まして侮辱などできるわけがない。俺は酔っているだけのことだ。

彼女の思い切った決意、こうまでして外したい足枷とはいったい何なのか。意志というものを持たないこの僕に、彼女は何を期待しているのか。
「君、素敵なのにね、今までなんにも無かったなんて、どうしてだろう。」
「性格です。私、コンプレックスがあるから。」
「そんなの、性格とはいわない。」
彼女の皮膚はすっかり乾いていた。それは何者とも無関係のようだった。
「そういえば、お兄さん、結婚するんだな。」
彼女は黙っていた。頑なに、何者とも無関係であるというように、ただ彼女は黙っていた。
(1984/10/6)
 

(再掲)《1984年7月20日の夢日記》

 
〈夢の手記〉
僕は鬱蒼としたジャングルの中を塒へと向かっていた。
頭上には腕のように太い幾本もの蔦が、複雑な模様を織り出していた。その内の特に太い一本は灰色の蛇だった。
突然そこに角の無い鹿が現われ、その大蛇を銜えて、そして猿のように枝から枝へと飛び去っていった。
僕が塒へ着くと、その片隅にさっきの鹿がその巨体を横たえていた。このジャングルの、僕を含めた全ての動物たちが塒を共有しているという観念を、僕はごく自然に受け入れていた。
蛇は鹿に飲み込まれていた。その蛇は未だ鹿の食道の中途にいてもがいているのであろう、鹿の喉は生々しく波打っていた。鹿は、蛇の力がやがて衰えるのを静かに待っていた。それは、あたかも小動物を飲み込んだ直後の蛇の姿だった。
僕は、苦しんでいる蛇に対する哀れみからか、横たわる無抵抗の鹿に向かって、何かひどくあくどい事をしたようだったが、いったい何をしたのか、目覚めた僕がそれを思い出すことを何かが妨げている。蛇は僕に救われたのか、ついに鹿の口からその頭を覗かせ、首をくねらせて鹿の喉笛に食い付いた。鹿は悲鳴を上げた、まるで後悔でもしているかのように。だが、鹿の悲鳴は僕の悲鳴だった。鹿の体内にまだ残されているはずの蛇の胴体に僕の右足が飲み込まれていたのだ。僕は今までのように冷静でいられるはずはなかった。僕は今度は懸命に僕自身の右足を救い出した。見ると、鹿はすでに息絶えていた。蛇は半死半生でぐったりしてはいたが、時が経てばその傷は癒えるに違いないと思われた。
全てがコンクリート色の世界だった。
僕は、何故か僕の喉に引っ掛かっている蛇の堅い皮を、必死に吐き出そうとしていた。そうしながら僕は考えた。「青々としたあの懐かしい草原へすぐにも出て行こう。」それは容易なことのように思えた。なぜなら、僕の今いるこのジャングルは、広大な草原に囲まれた、ちっぽけな長方形の世界なのだから。
(1984/7/20)
 

《1987年7月と10月のノート》を公開

 
本日、久しぶりに税理士の宮島さんがいらっしゃいます。久しぶりなわけはこちらの計算がちっとも進んでいなかったから。進んでいなかったわけは、いそがしくて金の計算どころじゃなかったから。しかし、実は会社にとって、金の計算は最も重要な業務なのである。これって、当たり前のようで、なかなか理解できない人たちがいる、ということを、税理士さんとか、いっぱしの企業に勤める友達とかに言うと、そっちのほうが理解しがたいという。
そんなこんなを記念して、1987年のノートを公開。

1987年7月9日
ひと月後に結婚式を控えていて、やんなきゃいけないことがたくさんあるというのに、「資本論」を再び読み始めちまった。
マルクス曰く「労働は人間の生存の自然的条件である」
労働などしていたら「資本論」を読む暇はない。マルクスを理解するためには労働を差し控えねば無理である。

1987年10月11日
読み続けている「資本論」の余白に書かれたメモ。
〈言葉→文字、ドラマ→シネマ〉
自分で書いたのに全く意味不明。

昭和16年、「白い壁画」という〈シネマ〉のシナリオに対する伊丹万作の批評。シナリオは「琉球の一孤島にだけ存在する特殊な風土病を研究」し「同じ病に感染してたおれる一医師の犠牲的な生涯を扱った」もの。伊丹曰く、「椎名(医師の名)のような逸材が、きわめて一部の人間にしか関係を持たない特殊な問題のために一命をなげうつことが惜しまれてならない」。

伊丹万作は大江健三郎のお気に入り。まさか義理の父親だからというわけではあるまいが、伊丹万作に対しては実に寛容。しかし三島由紀夫のことは決して許そうとしない大江。

僕はあげ足取りか。あがっている足を見つけると僕は書く気になる。というより、それだけが僕に書くことを促す。結婚生活はそれとは正反対、いかに地に足をつけていられるかが問題。それだから僕は結婚してから書かなくなってしまったのか。だとすれば、結婚前に書いていた僕の文章ってなんだったのだろう。ならばこれからは足で書いてみるか。

文庫の「良心宣言」に挟まったしおりに〈ソンケイ、シソウ、ベンキョウ、ラーメン〉と書いてある。これもまったく意味不明。先月、札幌でラーメンの出来るのを待っている時に書いたらしい。その時何かひらめいたんだろうが永久に思い出す気配なし。でも気にしちゃいない。どうせたいしたことじゃないだろう。きっとラーメン屋の偏屈おやじのちょっくら持ち上げた足を見て、犬のションベンでも思い起したくらいのことだろうから。

小林秀雄曰く、「生活するとは人と交わる事である」。
あなたのあげた足を、そっと手にとっておろしてあげるのが生活なのだ、きっと。
(1987)
 

(再掲)《1984年1月5日のノート》

 
〈嘘〉……「思い出」。

この数日、なぜだかとても苦しかった。あの時のような苦悩ではなかったが、狂気に誘われる不安があった。恐かった。怖ろしかった。
どうにかその不安は消えた。ちょっと町へ出てみただけのことなのだが。

「やっと何か書けそうだったのに」と呟いてみた。
(1984/1/5)
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