社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1983年12月17日のノート》

 
美的に語る…それが語ることにおいて理性に手を借りるとしても、理性によって美を弁護することであってはならない。例えばラディゲは、決して自己弁護をしようとも、嘘をつこうともしていないからこそ美的なのだ。

例えば〈不倫の恋を美しく語る〉
理性に勝った感情に就いて、理性はただ冷静に眺めるのみである。

しかし、それがいったい何になるのだろう……
(1983/12/17)
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(再掲)《1983年11月24日のノート》

 
三島由紀夫……

(「偉大な姉妹」)「新しい秩序が漸く固まり、なお多くの修正が正しいものと見做されたあの時代には、戦争も、暗殺も、立身出世も、あらゆるものが正義であった。」
「そのころ男たちは悉く剛愎な放蕩者であり、女たちは悉く剛愎な貞女であった。」
(「施餓鬼舟」)「芸術には人間的な目的というものはないのだ。」
「少しも修正を施さずに、誤謬も、誤謬でないものも、同じ仕方で正当化するのが芸術家の遣り口なのだ。どちらも同じ地点で落ち合うのでなければ、われわれは本当に生きたのだとは云えない。」
「それだから責任もない。」

『戦艦大和の最期』の巻末の批評は、「美しい世界観」を持つ者に対しての限りない讃美。
「ある世代は別なものに絶対とその美しさを求めたが、作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である」

「自己の生を切りひらくというもっとも本質的な誠実さ」という。
確かに「全体的に自己のもとに統一された生」は、「誠実な生」であり、「偽りの無い生」であり、だからこそ限りなく美しくもあるのかもしれない。
しかしその「誠実」は、他者にとって誠実でもなければ、「偽りの無い生」が、絶対的な真理に照らして偽りが無いというわけでもない。自己の世界観を持つ者へは憧憬を感じるが、自己の世界観は結局は自分だけの世界観でしかないという絶望を、彼らは感じることはないのか。
大和の「世代」の美しき誠実な人間性が、かの戦争を支え続けたのである。それに批評を加えるのだとすれば、美しき人間性に対する讃美ではなく、その悲しさを語る以外にないはずではないのか。
(1983/11/24)
 

ほんとうのこと(ある朗読会)

 
今日、沖縄から戻ってきた。
「ほんとのこと」について考えている。

「ほんとうのことを言おうか」
誰かの詩の一節だったと記憶している。本当のことを言ったわけではない。「ほんとうのことを言おうか」と言ってみただけのことだ。それでも詩になる。ほんとうのことをほんとうに言ってしまえば、消えてなくなってしまうかもしれぬ恐怖。ほんとうのことを言うとは、それほどにも覚悟のいることらしい。

沖縄へ出発する前の日、ある朗読会を観に行った。
朗読を聞くことに全く興味などなかったが、オーディオブックなる事業を始めたので、最近時々耳にする「朗読会」というものを、後学のために覗いてみるのもいいだろうと考えたのである。

元来、書物は読んで聞かせるようには書かれていない。はたして、朗読する人は、そうした書物を朗読するということを、どのように考えているのだろう。その困難を乗り越えてなお朗読しようとする動機は何なのだろう。ただ朗読するという行為だけが見える。きっと、書物にはあるだろう「ほんとうのこと」が、僕の耳にはいっこうに届いてこない。

最後にパオ・ニンの「戦争の悲しみ」の抜粋が朗読された。東西のイデオロギーとは関係なく、初めてベトナム戦争の真実を描いた作品として、最近評判になった本である。しかし、その真実を歪めて翻訳したとか、いつもの左翼と保守の間に起こる喧噪に巻き込まれている本でもある。いずれにしろ、パオ・ニン氏にとっては迷惑な話だ。朗読者はそれを知っているのかどうか、私には関係ない、それを見せないのが朗読ですとスマシテいる。圧倒的に上等な朗読ならまだしも、できることなら読んで欲しくはなかった。あの朗読に感動したと思われたくないから、本を買うことをやめた。朗読そのものは、もう記憶にない。だが、その朗読に先駆けて、ゲストとして招かれた訳者が語った話だけは、今も頭に残っている。
「ベトナム戦争で使われた弾薬の数は、第二次世界大戦において全世界で使用された弾薬の2倍に当たる」
衝撃的な話である。ベトナムに撃ち込まれた弾薬の多くは、沖縄の基地を飛び立った戦闘機や爆撃機がベトナムの地に持ち込んだものである。沖縄への米軍の爆撃を、鉄の暴風などど形容するが、ベトナムの規模は、それと較べようも無い。ベトナムへの最前線の基地が、あの「鉄の暴風」を経験したこの沖縄にあった、そしてその基地が、今もって沖縄にあり続けているという事実、この人間の愚かしさを許している厚顔無恥な者は、いったいどこに隠れているのか。

例えば「ヒロシマ」を伝えるために、吉永小百合は、ノーギャラでも朗読会を開く。吉永小百合の朗読の技術は窺い知れぬが、それを云々する者はいないだろう。重要なのは「ヒロシマ」である。
一方、著作権切れの文学作品を読む朗読会なるものを開く人々は、伝えたい作品を読むのではなく、朗読するための素材を選んでいるように見える。彼らは、何を伝えたいのだろう。伝えたいものがない限り、切実に技術を磨こうとすることなどあり得ない。芸術至上主義などというが、それは政治的イデオロギー喧伝の手段としないというに過ぎぬ。ゴッホは自分の美的才能を披歴したかったのではない。ひまわりの狂気を、伝えたかったのである。ゴッホの才能は、ゴッホの手段である。

僕は、改めて沖縄をオーディオブックにすることに確信を得た。「沖縄」を伝えるためにこそ語る。だが安易に語っては、逆に人々を「沖縄」から遠ざける。だから、ほんとうのプロにならねばならないのである。

沖縄で考えた「ほんとうのこと」については、また後日。
 

(再掲)《1987年6月12日のノート》

 
野方が言う。……「なにもこん度の十万円を、とやかくいうんじゃないよ。だけど僕は商売人だからね。ああいう男と取引はごめんなんだ。先で何をされるか、わからないからね」
葉子は思う。……「みんな口実だ」
はたして、どちらがより真実か。《1987年6月12日のノート》

大岡昇平は書いている。……「松崎が彼女の別れた男である以上、二人は駅で忙しくすれ違う人間より、もっと他人なのだ」
川端康成は言う。……「二人の離婚は美しかった、なぜなら彼らは友だちとなれる心を持っていたから」

はたして……

分析つくせないもの……、〈偶然〉〈人間〉
 

(再掲)《1984年7月1日のノート》

 
「僕を憫れんで呉れ!……さもなくば、僕は貴様を呪うぞ!」
(「或る禁断の書の為めの題詞」ボードレール)

誠実がどこかに飛び去ろうとする。僕の中に憎しみが生まれる事を恐れよなどと、いったい誰に向かって語ろうというのか。白紙だった。ただページの表示だけが忘れ去られた日付のように。何の比喩でもない、単なる象徴の、そのあまりの単純さに僕は目を背けた。僕は〈露骨〉から遠く離れたいと思い始めていた。配列された記号は重量の注釈でしかなかった。僕はそれから逃れるように歩いた。重量は残されたのだが。
しかし……

「そうだ、声が似ているのだ」

声の主も幻であったはずなのに、〈憎しみ〉によって幻は実在と結びついた。
「全てはあの声がいけないのだ」

足元を掘り起こしてみた。すると、僕の感情とは何の脈絡もない石灰色の「過古」が現われた。気が付くと、そこは墓場だった。一篇の叙事詩に過ぎなかった。僕はその心象風景に満足できるはずはなかった。もう、幻影ではないのだ。

僕は再び歩き始めた。だがもはや逃れるためではない。僕には微妙な感受性が影響していたのだ。それはおそらく「風」とシノニムだ。どこまでも墓場は続いている。僕は取り残された重量を握りしめていた。今となっては、重量が消滅するのをただ待つより仕方無いように思われた。
(1984/7/1)
 

(再掲)《1983年7月4日のノート》

 
「他人の生活に寄せる郷愁。それは外側から眺めると、その生活が一つのまとまった全体を形作っているからだ。一方われわれの生活は、内側から眺めると拡散しているように見える。われわれはまだ、統一の幻影を追っているのだ。」
「もし基本的な関心が統一の要求なら、そしてもし世界あるいは神がそれを満足させ得ないのなら、世界から遠ざかるにせよ、あるいは世界の中でにせよ、統一が作られるのは人間においてだ。こうしてこれから一つの道徳と一つの苦行が取り戻されるのだ。」
「試練を受け入れ、そこから統一をひきだすこと。もし他人がそれに応えなければ、その違和感のなかで死ぬこと。」
「ぼくのなかには或る混乱が、或る怖ろしい無秩序がある。創造することは、ぼくには無数の死に値してしまう。なぜなら、創造とは秩序に関わることだし、ぼくの全存在は秩序を拒絶するからだ。だが秩序がなければ、ぼくは拡散して死んでしまうだろう。」
(カミュ「手帖」より)

「理性そのもの」と、「理性的」との遥か遠い距離。「理性的」とは統一への幻想に対する侮蔑の言葉か。必ず犯すであろう誤謬を恐れながら、ともかく、僕はそれを、〈統一の意志〉と名付けたのだ。

「芸術」とは何か。
芸術「的」な事柄において、「身体-理性」の二元論は錯綜する。カミュの自覚された錯綜。

しかし…
「自覚された錯綜」とは、動的な印象が欠如していて詰まらぬ。従って「苦悩」の印象も無い。
二元論はまず解体され、そしてその後に錯綜するのだ。

「理性」に全く左右されない「《純粋な》感性的芸術」など存在しない。それは幻想。様々な「芸術」に対する幻想を検証すること。
「狂気が口述し理性が書き綴るものほど美しいものはない」ジイド
そして「才能」という絶望的な課題。

カミュの言うとおりだ。つまり君たちが幸せな様子をしていると、僕はがっかりするのだ。そして、僕は彼らに尋ね、君たちのその幸せが偽りであることを教え、君たちを僕の方に引っ張って、僕の世界に連れ戻したくなってしまうのだ。
自己嫌悪と、それから「愛する」という能力について。

そうだ。僕は裏切られたような印象を抱いているのだ。
自らには否を、他人には然りを、わかっちゃいるが、しかし、僕は、僕自身を責めるように君たちを責めるのだ。だが、それは詭弁だろうか。

「不条理。君によってモラルを復権すること。われわれが《報告せねばならぬ》別の世界があるとは私には思えない。だがすでにわれわれには、われわれの愛する者一切に対して、この世でなさねばならぬ報告がある。」とカミュは言ったのだが。

再び…
「道徳的であることと、誠実であることのディレンマ」ジイド
理性がモラルを呼び起こすのか、モラルが理性を必要とするのか。

ニーチェ曰く、「ソクラテスはあまりに近いので、私はほとんど絶え間なくかれとぶつかってしまう。」
(1983/7/4)
 

(再掲)《1986年12月2日の頭痛日記》

 
ゲーテが「ヘルマンとドロテーア」を書いたとき…
ゲーテは家庭を失っていたのか否か。「市民的秩序の喪失感」を抱いていたのか否か。
あるいは、ただ作家の眼で、「市民の家庭」を覗いていただけのことなのか。

さてもこの僕自身のこと。作家でも何でもない、「市民」ですらない僕のこと。
頭痛を治癒した(つまり失った)経験のない僕が、一生頭痛を抱え込むということ。

「おまえはどうするつもりなのだ」
「なるようにしかならない」

サルトルの自由論。
フランス革命における束の間の自由の顕現。その不連続性。
自由と「自由の感覚」の関係。
つまり、自由の実態は、自由の感覚以外の何ものでもないということ。
ヘンリーミラーは叫ぶ。「ぼくは自由なのだ!!」
改めて、「不連続」

僕のだらしのない連続。一見不連続なようだが、その正体は、要するに行き当たりばったり無為無策という情けない連続に過ぎぬ。

ニーチェを読んだら、大江が懐かしくなってきた。
ざまあみろ。だらしない不連続は、頭痛さえ消えてなくなる。このもっともだらしの無かった二日間、あいつはやってこないのだから。

別の頭痛はあるにしても。
(1986/12/2)
 

物語の始まりのエピソード

 
昨日書いた過去が、物語の始まりのエピソードなのではない。
昨日書いた過去について、ことさら何かを注釈するつもりはない。ただ、あの頃の自分自身の在りようを思い出している。
元々、公開するつもりのなかったその日のノートを昨日公開したのは、その日あったもうひとつの、何故か書き残すことをしなかった出来事の記憶を、鮮明にしたかったがためなのである。

4日前の日記で、思い切ってその方のお名前を公開してしまったわけだから、いまさら妙な小細工はしない。
あの日、その場所に劇団員が何名くらいいたのか、よく憶えてはいないが、「アイヌ」の文化について説明をしてくださっていた民族学者の姫田忠義氏が、わりと唐突に(と僕は記憶しているのだが)、その中にいた一人の女性を目ざとく見つけて、こう言った。

「そこのあなた、あなた沖縄の人だよねえ」
そして姫田氏は、彼女に苗字や生まれた場所などを聞いた。
「いいねえ、沖縄の人は。僕はね、沖縄の人が大好きなんだ」

細かいやり取りの記憶はないが、ただ俯く彼女の横顔を忘れてはいない。
最後に姫田氏は、十分な親しみを込めて、「ちょっと、色、黒いけどね」と、そう言って笑った。

姫田氏がどうのこうのというつもりは毛頭ない。
貴重な記録映像を目当てに氏の研究所を訪れる方は、当時たくさんいらっしゃったのだろうから、こんな小さな昔のエピソードを、今の氏が憶えていらっしゃるとも思えない。それをここで、ほとんど誰も読みに来ないような「ブログ」とはいうものの、ご紹介してしまったことについては、どうかお許しいただきたいと思う。ただ僕は、沖縄から出てきて間もない若い女性が、皆のいる中で評されて、どんな気持ちで俯いていたのか、それを、誰にというわけでもなく、想像してみて貰いたいと思うのみである。

この時の女性が、今の僕の子供たちの、大切な母親なのである。
 

(再掲)《1985年7月18日のことを記すノート》

 
新宿へ。
「アイヌ」の記録フィルムを観に行く。
「人間」と「自然」の「正常な関わり」、フィルムを記録した民族学者が、アイヌ民族の精神を賛美する。
しかし、と僕は感じている。
「アイヌ」の「素晴らしき精神」は、アイヌ固有の信仰と切り離せるものではない。信仰があってこそ、その土台の上に成立するものだ。だが僕は、アイヌと信仰を共有していない。あらゆる信仰から自由でありたいと考える僕にとって、たとえそれがどれほど素晴らしいものであったとしても、「信仰」を前提とする精神を受け入れるとは、はたしてどういう精神の営みなのか。
民族学者は、「民族学者」の眼を通して「アイヌ」を見ている。
僕は、「役者」という虚ろな精神を持って、「アイヌ」を受け入れようとしている。
そういう関わり方を、アイヌの人々は許してくれるのだろうか。
(1985/7/18)
 

(再掲)《1986年1月21日のノート》

 
もう少し書こう、もう少し何か……
何というか、感情というか、もっと書いておきたいことがあったのだが、結局書けそうもない。あの日あの時のあの考え、忘れたわけではないのだが、いまさら文字にするには何かが足りない。足りないものは〈熱〉よりも〈重さ〉に近い何かだ。

忙しさのせいにするつもりはないが、忙しかった間に何かが切れた。
つなごうとしてみたが、つながらぬ。だから、また新しく始めよう。

何から始めようか。まずは「量子理論」、そしてフッサールの残り、ハイデカーに寄り道してメルロポンティへ、ルソーとスピノザ、ソシュールからレヴィ=ストロース、それからマルクス「資本論」。
ぜんぶやっつけて、それからおもむろに現代哲学へ……

結局、やっぱり僕は手順を踏まねば気が済まないらしい。絶望的な気分。
(1986/1/21)
 

(再掲)《1985年12月15日のノート》

 
二日続けて夢を見た。ヘリコプターが頭上に落ちてくる夢、それからもう一つは……、忘れた。
酒を飲んで、そして眠くなったら眠る。文字通り眠る。ただそれだけ。何もない。ちっとも不思議なことじゃない。僕にもし欲求不満があるとすれば、忙しくて本が読めないということ。それだけ、それ以外にはない。

一昨日から稽古が始まった。そうか、すると夢を見るのは芝居の稽古の所為なのかもしれない。演じるとはスカトロジー、排便は快感、だが出したくもない糞を無理矢理出さねばならぬとしたら、悪夢に悩まされるのも当然か。
 
芝居を始めたあの頃から、僕はどう変わったのか、どう変わってしまったのか。肉体的で生理的で性的なことに、いつからこれほど嫌悪を覚えるようになったのか。僕は再び変わるのか、変わることを、僕は望んでいるのか。

頭蓋骨の内側に何かの残りカスがへばりついていて、それがどうしても取れない。取りたくて取りたくて仕方がないのだが、しかしもしそれを剥ぎ落としてしまったら僕は何者でもなくなってしまいそうな不安。何者かになるためには、まず何者でもなくなることがその条件だというのに……。

もっと本が読みたい、なのに何かを表現することを強制させられている、つまり入力と出力のバランスが狂っている、そういうことだ。そういうことなのだ、きっと。
ああ、今思い出した。
二つめの夢、……英語をしゃべろうとしている夢。ある人がガンに侵されてしまったということを、なんとか英語でみんなに知らせようとしている夢。

あのセンチメンタルな風よ吹け、音楽よ高鳴れ、涙よやってこい。灰を燃やす、何としても。灰ではなかったということを証明するために。

そして、わずかな読書の時間とささやかな平和な眠りを。
(1985/12/15)
 

普遍から個性へ

 
昨日、11月19日付の朝日新聞。
81年に亡くなった民俗学者、宮本常一氏の記事。
彼の著作のほとんどは、記憶やメモを頼りに書かれたエッセー風なもので、事実誤認も多く、きちんとした研究論文としては使えない、それが学会の評価なのだという。だが、「文献ではさぐりあてられないものがたくさんある」、そう語る宮本常一氏が、歩いて見て聞いて集めた膨大な「情報」、特に10万枚という写真は、今、貴重な「材料」として注目を集めているのだ、という記事。

自戒を込めて。
書斎の中でたどり着いた結論の危うさ。だが一方で、見たり聞いたりした経験は、「読む」よりもはるかに重いので、数少ない偏った経験をもって全体を語ってしまう間違いもままあることだ。論敵から見れば、意図的に都合のよい例だけを持ち出している、ということになる。
守るべきは結論ではない。結論を導き出す元となった材料を、結論から切り離して、今一度見つめ直してみること、加えて、新しい材料にも謙虚であること。頑なになってしまった脳みそにとっては、なかなか困難な仕事に違いないのだが。

この記事の中に、懐かしい名前があった。民族文化映像研究所所長、姫田忠義さんである。氏は、この記事に寄せて、宮本常一さんとの出会いについて書いている。姫田さんのやってこられた数々のすばらしい仕事の原点は、宮本さんとの出会いにあったのだということを、この記事を読んで、初めて知った。
もう20年以上も前のこと。アイヌの芝居を作るにあたって、姫田さんの研究所に伺って見せていただいた熊祭りの映像は、今も鮮明に僕の記憶の中に残っている。
だが、その日のもう一つの記憶が、この「ブログらしきもの」の、ほんとうの物語の始まりなのである。

いくつかのアイヌのエピソードを綴ってからでないと、「沖縄のこと」にたどり着けないと、そのように何度か書いてきた。それは、「材料」をスッ飛ばして、今僕が考えている結論だけを語るのでは、伝えたいことが伝わらない、言い換えれば、「物語」として成立しないということなのだ。ところが、その材料たるエピソードを語るということが、どうもやっかいなのである。

僕は、この「ブログらしきもの」に、よほど著名な方以外については、その素性がわかるようなことを載せるつもりはなかった。しかし、それではいっこうに話を先に進められないという事態に至って、ここのところ腕組みして首を傾げる毎晩だった。
(この記事は10月20日の日付になっているが、実際に公開したのは11月の10日。ずいぶんと躊躇していたものだ。)

1985年の夏、それまで、「精神現象学」だ、「資本論」だ、グロトフスキだと読み耽っていた。その頃の僕は、ナショナリズムの真反対の地点にしか終着駅はないと思い込んでいた。普遍的な人格、それを獲得することの希望と絶望について、ひたすら考えていた。民族などという人間を区別する禍々しき概念を、人類が完全に捨てることになる遠い未来を、僕は夢想していたのである。だから、その頃の僕の「過去のノート」は、昔の夢想家たちという登場人物と、僕自身の身勝手な対話だけで、ほとんど事足りていた。

そんな時、「アイヌ」の芝居をやらなければならなくなった。
「日本」という「普遍を装った民族」に対峙する「アイヌ」という個性の存在は、僕を憂鬱にするに十分だった。

普遍なる人など存在し得ぬならば、否定されるべきは個性ではなく普遍ではないか。
価値あるものとは、普遍などではなく個性ではないのか。

僕は初めて、まともに隣人の顔を見た。

物語の始まりのエピソードは、また後日、嘘っぱちの日付で書く。
 

「生活のための仕事は辞めろ」

 
本日付けの朝日新聞から。
右上に「全面広告」と書かれた紙面に掲載された記事は、誰がどのような意図で企画したものなのか、よく分からないのだけれど…

そこに、「そんな生活のための仕事なんか全部辞めちまえ」と、世界の小沢征爾に言われたという佐渡裕氏の話が載っている。

はたして、「世界の小沢」のこの言葉の、「そんな」とはいったい何を指しているのだろうと、僕は考え始めてしまった。そうしたら、いろんなことが頭に浮かんできて、なんとも厄介なことになってなってきた。

小沢征爾氏が佐渡氏に向かって言った「そんな」とは、「生活のための仕事」のすべてを指しているのか、あるいは「生活のため」にやる音楽の仕事だけに限定して言っているのだろうか。

今、うちの会社は、自分のやりたいことだけやっていてはとても食べていけない役者やミュージシャンがたくさん手伝ってくれていて、彼らが提供してくれる労働力に支えられて成り立っている。もし、世界の小沢の「そんな」が、すべての生活のための仕事を差しているのだとしたら、彼らにとってそうした助言は「死ね」という言葉に等しいし、みんなそれに従って仕事を辞めてしまったら、「弊社」はたくさんの労働力を失う羽目になる。

ともかく、佐渡裕氏は「世界の小沢」の言葉を聞いて、その瞬間によし辞めようと「思った」というのである。
で、実際に仕事を全部辞めたのかどうかは語られていないのであるが、当時の佐渡氏は、月に80万円くらい稼いでいたということなので、もしかしたら1年や2年、仕事しなくても大丈夫なくらいの蓄えがあったのかもしれないし、あるいはいつでもその程度は稼げるという自信があって、だから実際に辞められたのかもしれない。

佐渡氏は言う。
「小沢先生の言葉の意味は、腰を据えて本格的な勉強をしろということだったと思います。」
そうして佐渡氏はウィーンに移り住み、かのレナード・バーンスタインを追い求めることになる。

はたして佐渡裕氏は、その後どのように生活費を捻出していたのだろうか。

僕は、佐渡裕氏の揚げ足を取ろうとしているわけではない。ただ、僕の頭の中を駆け巡っている思いを、そっと差し出しているだけである。

昨日のこと、津嘉山正種氏が、後輩の役者さんに説教していたこと。
「お前、芝居を教えているのか。そんな仕事なんかやめちまえ、今お前にはもっと他にやるべきことがあるだろう。自分の芝居のためにやらなきゃいけないことがあるだろう」
「つーさんは、ずっと第一線でやってきているから言えるんですよ」

何年か前のこと。ふじたあさや氏の芝居を観にいった。面白かった。ロビーでふじた氏に声を掛けた。
「おもしろかったです」
「学生に戻ったような気分なんだよ。一年以上も前から若い役者たちと時間を共有して、訓練を重ねて、金のことは考えずにたっぷり時間をかけて作ったんだ。ここのところもう何十年も、頼まれ仕事で、時間に追われて芝居を作ることがほとんどだったからなあ。」
そんなふうなことを言われたと記憶している。特に僕は何を言ったわけでもないのに、あさやさんは、僕の顔から何か読み取ったのだろうか。

自分の好きなことだけやって食べていける役者やミュージシャンなんて、ほんの一握りにしかいやしない。多少不満があっても、この業界でそれなりのお金を稼いで、それだけで生活していける人も僅かだ。そうした数少ない成功した人たちの語る清貧の話は、なんだかとても芸談ぽくて興味深いのだが、僕らの周りに転がっているたくさんの現実は、もっとドロドロしていて、切実で、悲しいのだということを、なんだか大声出して言いたくなったのである。

今日の新聞で見つけたもう一つの記事。
それについては、明日(明日の日付の記事で)書く。
 

回帰する場所

 
昨日のこと

齢を重ねられ
夢丸さんは落語へ
津嘉山さんは沖縄へ

それぞれ回帰されていく
新しい冒険心を携えて

僕も…

(ここらで)
(淋しげな画像など)
(貼りつけたりして…)

あの頃の
僕に
戻りたい

(絵文字なんか)
(入れてみたりして)

携帯の狭い画面の
スクロール対応仕様

手抜きだろう、これって!
 

(再掲)《1986年12月10日の頭痛日記》

 
「黒い雨」を読んでも、僕は何も感じない。僕はあの〈ヒロシマ〉から限りなく遠い。
そしてきっと「アイヌ」からも……。
そんなふうに確認してしまうことが積み重なっていく。
そして最後に残るものは単調な頭痛。

情報過多、こんな言葉も聞き飽きた。もう何が起こっても誰も驚かない。何を見ても感動しない。いつか人間は想像力を失う。明日、自分の住む町に原爆が落ちるかもしれない、そんな時ですら、人はいつかテレビで見たきのこ雲を思い出すだけだ。想像力がなければ恐怖も生まれない。そして次の日、本当に原爆が落ちてくる。

「黒い雨」の一節。
「僕は或る詩人の詩の句を思い出した。少年のころ雑誌か何かで見た詩ではないかと思う。《おお蛆虫よ、我が友よ……》 もう一つ、こんなのを思い出した。《天よ、裂けよ。地は燃えよ。人は、死ね死ね。何という感激だ、何という壮観だ……》 いまいましい言葉である。蛆虫が我が友だなんて、まるで人蝿が云うようなことを云っている。馬鹿を云うにも程がある。八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ。『許せないぞ。何が壮観だ、何が我が友だ』 僕は、はっきり口に出して云った。」

書き写し乍ら、僕は僕自身のひ弱な想像力を刺激し続ける。僕の想像力、肥大せよ、と。
(1986/12/10)
 

(再掲)《1985年9月9日の旅のノート》

 
紋別、名寄、白滝村…
ずっと空はぐずっていた。そして、寒かった。《1985年9月9日の旅のノート》

「海は、ある日、ある時刻、不意にその輝かしい魅力を失ってしまう、人間たちは海から開放され秋が来る。秋、海はおとなしい老婆のようにちぢこまる」

「叫び声」の一節。
夏は開放的な季節だという健康的な固定観念、だが、むしろ夏的なものからこそ人は解放されたいのではないか。僕はそれに同意している。

そして、狩勝峠は満点の星。

誰に読ませるわけでもないのに、僕は全てを書こうとしない。本当の自分について、決して書こうとはしない。
何を見るのでもなく、ただぼんやりと車の窓から暗い外に目をやりながら、僕は、自殺… する… ことを… 思い浮べて、そして嘆き悲しんでいる。
愛するという事は、一個の人格を尊敬するという事…
故郷から遠く離れた身勝手な幻想。

〈さりげなく…〉

どこかで微かに響く誰かの呟き。独立した一個の人格、一体何の事だ、僕には全く理解できない。

ただ確かな存在の手触りのみ。全ての幻想よ、去って構わぬ。
僕が騙し続けたいと信じる過去と、守り続けたいと願う未来。

満天の星、それが僕を圧し潰す。
明日は久しぶりに晴れるのだろう。そうすれば、きっと忘れる。そして、本当の自分を隠して、この単調な現実だけを生きていく。
明日になったら、もう二度と思い出すことは無いだろう。だから、対向車のヘッドライトの明かりを頼りにして、車の中で必死にペンを走らせている。
(1985/9/9)
 

(再掲)《1986年12月9日の頭痛日記》

 
民族と愛、それと革命の弁証法。確かに考えていたのだ。だが、〈執拗〉に考えようとしていたか。「資本論」を今年中に読み終えるつもりだったが、見通しは極めて暗い。

世の中に弁証法など、そう都合よく存在するものではない。というより、すべての現実が弁証法の結果なのかもしれぬが、その必然性を証明することなど不可能事だという気がする。結局、それはミネルヴァの梟なのではないか。「世の中とは所詮こんなものでした」といった抹香臭い説教。

何となく身体がだるい。しかし、そういう時は、たいがい頭の方は痛くない。
してみると、冷徹な認識力を放棄することこそが、頭痛に対する特効薬なのかもしれない。
(1986/12/9)
 

しなければならないこと

 
一年ほど前は、事務所はいつも人でごった返していた。
そのころの僕の仕事は、殆どシステムを構築することだったから、自宅の書斎に会社と同じPC環境を作って、事務所に行かないでも仕事ができるようにした。
でも今は、事務所も大概さっぱりしているので、書斎へ避難する必要はないし、だいたいがシステムを構築しているような時間の余裕がなくなって、目先のことをこなしていくのが精一杯で、そんなわけだから、書斎の環境を利用することはめっきり減った。
でもほんとうは、CDの在庫管理やら、営業履歴のデータベース化など、新しい業務に対応したシステムを作っておくことは、ちょっと長い目での効率を考えれば、絶対に必要なことなのだが、これが自転車操業というものの辛さ、貧すれば鈍するとはこのこと、悪循環である。

あくまでも一般論の話だが、世の「社員」という方々は、たとえばシステムを苦労して構築することがいかに大切か、それがどれほど業務に恩恵を与えるこのになるのか、このあたりの事情について、理屈としては理解できるが、実感が伴わないという方が、案外多いらしい。人は、最終的には実感でしか動けない。特に苦しい状況に置かれればなおさらのこと、実感の伴わない理屈は、忘れ去られるのが定めなのである。

建前より本音という価値観。くそくらえである。お役所仕事は建前だと批判するが、断固違うと僕は思う。お役所仕事は、役人の怠惰な本音が現象となって表れたものだ。役人がほんとうに建前で仕事をしてくれたら、どんなにいい国になることか。役人の建前は、公僕であるということではないか。役人は、国民のために仕事を「しなければならない」のである。
人間はどうあるべきか、これも同じこと、こいつは本音ではない。壮大な建前である。人間は、本音を捨てて生きることのできる唯一の動物なのである…

おいおい、どこまでへ行くんだよ。戻ってこいよ。

そんなことを考えているからというわけでもないのだろうが、書斎ではPCの画面を眺めているより、本のページをめくっていることの方が多くなってきた。
ふと気がつくと、朦朧としていることがある。そんな時、休まなければ死ぬと、実感としてそう思う。意を決して、書斎の万年床に潜り込む。「眠りたい」から眠るのではない、眠ることを「しなければならない」のだと自分に言い聞かせる。すると、あっという間に眠りに落ちる。しかし数時間と寝ていられない。長時間眠る体力がないのである。そして再び机に向かってみるのだが、眠る前より体の具合が悪くなっているのが常である。その具合の悪さを払拭するために、僕はそそくさと事務所へ出かけていく。事務所に行って、仕事を「しなければならない」からである。
 

(再掲)《1984年7月7日のノート》

 
だが、僕は君を置き去りにして遥か遠い高原に独り来てしまった。さらに小高い丘を見つけて、その青々とした野の草の上に腰を下ろし、眼下に広がる潅木の林の緑を僕は眺めている。心地よい風は、軽快なリズムで僕に「悲しみ」を運んでくる。

「僕は君の眼を覚えていない。ああ、僕は悪臭を放つ死体だ。僕の萎えた腕は、永久にその腕力を取り戻さないだろう。」

僕は号泣したい衝動に駆られていた。
(1984/7/7)
 

(再掲)《1984年3月6日のノート》

 
別役実の戯曲のこと。
舞台上には形而上と形而下を結ぶ電信柱がある。だが劇場と街を結ぶものは……。
全く、別次元の回路。
(1984/3/6)
 

お百姓さんが一番偉い

 
昨日、青年座へ。今日、本業の親会社へ。

ただ役者だけをやっていればそれでよかった頃、よほど座主が泣きごとを言って頼んで来ない限り、僕は自分の出る芝居の宣伝をしたことがない。
自分の仕事に自信があった頃、僕は僕を使っている会社に、一度も仕事をくれなどと言ったことは無い。

お客さんが入らなければ、CDが売れなければ、仕事が貰えなければ会社が存続できないという至極当たり前の事態に至って、僕は毎日、宣伝に奔走し、親会社で頭を下げている。
一番、嫌いだったことをしている。

大和生命が破綻した。また、失業者が巷に溢れる。

何かが、狂っている。

「切符、売れているのですか」
「どうしたら売れるのか、教えて欲しい」
青年座でもそうなのだから、じっと我慢するしかない。

やっぱり、お百姓さんが一番偉いのだと思う。
虚業に生きることに、時々嫌気がさしてくる。
 

ある表現者からの手紙に答えて

 
拝啓。お手紙、拝読させていただきました。

「録音」には興味がない、ライブが好きだ、というあなた様のお言葉に対して、僕も100パーセント同意いたします。

ただ、僕の場合、いくつか別の事情があるのです。
まず「沖縄」のこと。それから「商品」というもののこと。そして、「音楽」のこと。
でも、それはここでは申しません。なぜならそれらは、あなた様が考えていらっしゃる言葉の表現そのものとは、別の次元の事柄でしょうから。

人は、何故表現するのでしょうか。
絵でも小説でも、なぜ人は自らの想念を「かたち」として残そうとするのでしょうか。

唐突ですが、「かたちあるもの」とは「死」なのではないか、と僕は思うのです。言葉もまたひとつのかたちです。一度発せられた言葉は、この世界の中で瞬時に凝固し、取り返しのつかない存在となって、発した者の支配から逃れていく。それは、ライブでも同じことです。
(なんだか、禅問答のようで、ごめんなさいね。)

生の舞台でも、終わった時、「もの」の感触を感じられる時が、僕にとってこの上なく幸せな時です。でも、今まで30年以上、3000ステージほどの舞台に立ってきましたが、そんな至福の経験は、数えられるくらいしかないのです。

そんなふうに、表現と死を関係付けて僕が考えるようになったのは、15年ほど前のこと、きっとその時の、死を覚悟した経験が影響しているように思うのです。
僕の「社長とは呼ばないで」というブログ(?)は、僕の子供たちへ向けた遺書でもあります。実は、かなり先の結末を見据えて、「たくらみ」ながら書き綴っているのです。もしよろしければ、どうぞ最初から読んでみてください。

僕のブログ(?)の最初の頃に書いた一節を、ここに再掲します。
「今日のこの日のこの観客以外に伝える相手を持たない芝居の、時代とともに変わらざるをえぬ〈軽薄な風貌〉と、薄れあるいは歪められやがて消滅する〈曖昧な記憶〉の運命に、僕は虚しさを感じた。本当は、それこそが芝居であったのに。」

昔、僕は舞台の仕事だけで食べていました。とはいえ、とても貧乏でした。それでも、アルバイトなどはしませんでした。そんな僕に、ある有名な役者さんが、舞台だけで食べていけるのはすごいことだよねと言ってくださった。その言葉に、とても励まされた思い出があります。
人に伝える言葉も、またひとつの「死」です。妙な言い方ですが、言葉が「確実な死」になってこそ、それを記憶した人の中に生き続けるのだと思うのです。
もしかすると、生きることの意味は、如何に死ぬか、「死のかたち」の中にしか存在しない、だからこそ人は、表現せずにはいられないということなのかもしれません。

また、いつでもお手紙ください。返事を差し上げて、ご迷惑でなければ。

(この文章を書くきっかけをくださった何人かの方々に、感謝の念を奉げます。)

 

(再掲)《1984年7日4日のノート》

 
夜の246を、僕は横浜に向けて車を走らせていた。近頃こいつのエンジンの調子がおかしい。速度を上げて暫く走っていると、時々アクセルとは無関係に回転数が異常に上るのだ。だがそんなこと、知ったこっちゃない。僕はしたたか酔っていた。

(ほら、また始まった…)

車は、僕の意志とは無関係に爆音をあげて加速し始めた。その音に怯えるように、歩道の女が、風に髪をなびかせて振り返った。

(俺のせいじゃない…)

上向きのライトは、一瞬間死人のようなその女の顔を浮かび上がらせたが、直後それは後方へ飛び去ってしまった。僕はエアコンを消し、窓を開け、カーステレオのボリュームを上げた。だが、女の顔の残像は、いつまでたっても消えることがない。しかし、そのカタルシスは快楽であった……。

一日かけて書き終えた日記。クラシックギターの機械的な指の動き。ほんのわずか増えた過去という時間。僕は、このいつ崩れるかわからない静寂の間に、一挙に深淵な苦悩に捉えられてしまえばよいと思い始めた。

「死者の奢り」……
だから、この日読んだ小説の題名を、こうしてノートに書き写すことをしても、昨日までのように、空虚な思いに苛まれることはなかった。無関係な他人の言葉も、ある程度消化出来るように思われたのだ。

だが……

「お前は、娼婦と寝ても、薄汚い大量の言葉をたれ流すのだろう。お前の気に入っている人間性とは、実は動物的な情念と、植物的な想念の出会う地点でしかない。それは生きた人間とは没交渉の『死者の奢り』なのだ。」

結局、躓くのはこうした言葉……。
それは〈深淵〉とは程遠い、揮発性の苦痛だった。 

また、性懲りも無く、過去形だけで書かれた日記を、書いて、いる。
(1984/7/4)
 

(再掲)《1984年4月10日のノート》

 
瞑想しない女。号令しない女。創造しない女。
観念の女と、現実の女。

真の女を描けない作家は……、美しい無知。
(1984/4/10)
 

(再掲)《1984年2月27日のノート》

 
読みかけの「判断力批判」。
急いでいるはずなのに、どうしても僕は、古典を飛び越して新しいものを手に取る気がしない。

デリタがどうだ、ドゥルーズがこうだと能書はたれるが、彼らの著作など勿論読んじゃいない、流行の浅田彰の受け売り、借り物の言葉。ヘーゲル、マルクスなど、当然なんにも知らないくせに、〈ありゃ遺物だ〉などと分かったような御高論。そんな輩に虫酸が走る。

〈君は真面目な性格なんだね、流行らないよ、今時。〉

くそくらえだ。
さて、そんなふうに意気込んで、衿を正して、再び「判断力批判」を開いて読み始めるのだが、しかし、遅々としていっこうに進まない。

だからまた、妙なことを考え始める。

最近感性が信じられなくなったが、味覚だけはまだ大丈夫などという戯言。味覚だけでも信じられるものがあるのなら幸せってもんだ。それこそ時代の最先端、おもしろがられて、軽薄な評論家が喜んで記事でも書くんじゃなかろうか。

「器官なき身体」をもじって「器官なき身体検査」と題した展覧会、「構造と力」ならぬ「小僧と力」、つまらぬ駄洒落を〈時代の感性〉といって面白がる。

ここらで〈真面目〉という時代遅れの「性格」を変えたフリをして、新しいものをつまみ食いでもしておかないと、一生ひとりぼっちで煮干食って生きる羽目になるのかもしれない。味覚しか信じられない時代なら、今風の化学調味料で味付けされた残飯は、食い過ぎないで、つまみ食いくらいに抑えておけば、それはことのほか旨いのかもしれない。
何とも腹立たしい……。
(1984/2/27)
 

(再掲)《1983年12月26日のノート》

 
「わが友、読者よ!
 君なくば、
 我はそも何ぞ!
 感ずるところみな独りごとに終わり、
 わが喜びもことばを知らず。」
(「作者」ゲーテ)

独りごと。恋でもしたら、ゲーテの恋の詩(うた)でも読もうか。
やがて父となるようなことがあったとして、そして子供が死んでしまうというような災いに見舞われたならば、「魔王」を読んで悲しみに浸るのだ。
老いてなお気力が残っていたら、「真夜中に」を傍らにおいてまどろむのはどうだろう。
そうして、本当に孤独になった時、君は「竪琴弾き」に何かを思うのだろうか。
しかし、今の僕ときたら、結局何者でも無いから、だからきっと、何も感じないのだ。

ゲーテの逆説と機知。その豊富さ。だが…
「いつも変わらなくてこそ、ほんとの愛だ」といい…
「移ろいやすいものだけを美しくしたのだ」というならば…
美しいものを美しいが故に愛するのは偽りの愛なのか。

ゲーテの多情は矛盾の異名。その全てひとつひとつがゲーテ。
つまり…
「かの一なるもの永遠にして、多に分かたる、
 しかも一にして、永遠に唯一つなり。
 一の中に多を見出だし、多を一のごとく感ぜよ。
 さらば、芸術の初めと終りを会得せん。」

「ともあれかくもあれ、人生はよい!」
そうなのか? 本当に。
(1983/12/26)
 

起承転結の「承」の始まり

 
【三太郎からの投稿】
《1985年7月13日のノート》を読ませていただきました。今か今かと待っていましたが、ようやくですね。
穴凹からの一歩。なんのことはない、俳優という答えが、足もとに転がっていたことに気がついたということなのでしょうか。灯台下暗し、あんまり遠くを見過ぎていたのかな。
沖縄へ続く道の「アイヌ」という入口。起承転結の「承」の始まり。
今後の展開を楽しみにしています。

【三太郎への返信】
ありがとう。しかし、灯台下暗しなんて簡単なことではなかったのだ。
7月13日の前の半年くらい、僕のノートは膨大な文字で埋め尽くされている。キルケゴールとヘーゲル、そして「資本論」、フッサールから現象学、数多くの戯曲と心理学関係の専門書、果ては大江健三郎の「万延元年のフットボール」までの全著作。それらについて書かれた僕の文章は、諧謔と、不信と、間違った解釈と、自己嫌悪に満ちている。三太郎、君はそのことを知っているはずではないか。
実のところ、それを通り過ぎなければ7月13日にたどり着けなかったし、それ以降だって、僕は揺れ続け、そうして最後には相対性理論からエントロピーまで持ち出すことになる。そしてやはり僕は、そのことも合わせて伝えなければ、僕の「沖縄」を理解してもらうことは不可能だという気がしているのだ。残念ながら君の期待に反して、僕はまだまだ躓くことになりそうだ。

【三太郎の罵詈雑言】
せっかく貴方のことを考えて協力して差し上げたつもりなのに、貴方はまた余計なことを書いて混ぜっ返す。なんで「ありがとう、これからもよろしくね」ってなこと言って、後はうっちゃっておくくらいの裁量を持っていらっしゃらないのでしょうか。貴方は沖縄をどこへ持っていこうとされているのか。貴方の妄想で作られた貴方だけの沖縄を押し付けられては不愉快です。もはや貴方の言葉を聞いてくれた好意的な人たちの誰もが、きっと口を閉ざすでしょう。やがて誰もが耳を塞ぐでしょう。そして貴方の声は、このわたくしにしか届かなくなるのです。
しかし、わたくしは貴方様が孤独になることを許しはしません。御安心なさい。あなたが黄泉の国へ召されるまで、わたくしの憎しみの目は貴方様の震える指先を捉え続け、またわたくしの悲しみの耳は、貴方様の苦悶の呼吸を響かせ続けることでしょう。

【呟き】
三太郎よ。
この僕に、今のこの時の僕自身を語る以外に、いったいどんな術があるというのか。全ての人について、人は自分以外について語ることなどできないと、君は思わないのか。

【三太郎の無言の呟き】
わたくしは、貴方です。
 

(再掲)《1985年7月13日のノート》

 
アイヌとなって舞台に立つ。
アイヌの精神を受け入れること。そのために、まず自分を空にすること。グロトフスキの方法。自己開示。どうすればではなく、なにをしてはいけないのか、それを確認した後でアイヌの精神を受け入れること。

自己を統一することができないのなら、統一しようとしている自己を捨ててしまうことだ。自己を空にする。自己が空になってしまえば、自己統一などに拘る必要はなくなる。統一すべき厄介なものなど、どこにもないのだから。ただ「自己」という入れ物が、目の前に、たった一個ポツネンと転がっているだけだ。
そんなことが可能なのかどうか、不可能に決まっているのだが、敢えてそう考えてみることによって、一つの視野が開かれる。可能性を信じることが出来る。

例えば、W・ジェイムズの「プラグマティズム」。「徳」「人本主義」「信ずる意志」「われわれ」「信頼」といった言葉が、楽観的に過ぎてなんとも無力だと思うのだが、しかし心情的には殆ど同意している。その程度のところで収めておかないと、間近に迫ったアイヌを演じるという課題に対処ができない。

「統一性」と規定するから「多様性」と対立する。「統一性」を「全体性」として捉え直す。〈統一された自己〉を〈全体としての自己〉と言い換えてみる。

「空っぽ」にした自己にまず「アイヌ」と「役者の客観的な目」を放り込んで「全体性」を獲得する。そう考えてみると、役者として当たり前にやってきたことではないか。
問題は論理的な厳密性。
しかし僕は、しばらく、それを放棄する。「アイヌ」という重い現実だけを見る。
(1985/7/13)
 

(再掲)《1983年7月10日のノート》

 
ねえ君、僕はもう君を慰めたりしないことにした。君の苦しみを取り除こうなんて、僕はつまらないことを考えていたものだ。今の君の苦しさは、きっと君の宝物だ。君の心の中で、君の真正な意思と戦っている相手を、君は憎んではいけない。それは君の純粋な愛なのだから。それは死と、そして生の戦いなのだ。君にとって一番大切なことは、決してそこから目をそらさないことなのだ。
(1983/7/10)
 

無花果の積まれた荷車の影に

 
読むパラさんで、「おきなわおーでぃおぶっく」のCDを扱ってくれることになった。読むパラさんのホームページでは、きっと「山猫合奏団」のCDと並べて販売してくれるのだろうと思う。
どちらも我々の会社で制作したCDなのに、「山猫合奏団」のサイトで「おきなわおーでぃおぶっく」のCDの宣伝はしにくい。逆もまたしかりである。
何もかもごちゃまぜにした世界を構築したい、そんな風に考えているわけなのだが、これしきのmixさえママならぬのだからどうしようもない。

実は、mixiという世界をうろうろして人探しなどしてみたのだが、なかなかうまくいかない。それには色々理由があるのだろうが、ひとつmixiの印象らしきものを言えば、コミュニティとかカテゴリとかでがんじがらめになっていて(というか、そうなるより仕方がないのだが)、そこに下手に彷徨いこんで場違いなことを言おうものなら、「トピずれ」と指摘されたりする。これが「KY」というやつか。
どうやらmixiの住人は、守られていると信じてmixiという隔絶された世界に安住し、無理解な外部との接触を嫌うらしい。誤解は困る。mixiを利用する人々イコール外部との接触を嫌う人々だといっているわけではない。mixiというシステムがそうさせるのであり、普段どんなに外の世界で闊歩している人でも、mixiの中ではそのような振舞いになるらしいと言いたいだけだ。いいとか悪いとかの話ではない。

mixiの日記に、そっとこう書いてみた。

0:30
深夜だというのに、そして雨も降っているというのに、今晩は妙に強気になっている。
どうやら若かったあの頃を思い出して、もう一度世の中というものを見据えてみようかなどと、自分でも不思議なのだが、そんな感覚が沸いてきたらしいのだ。
mixiの平穏も、もしかしたら世の中のガス抜きになっていて、シメシメとほくそ笑んでいる巨大な影を感じたりもするのだ。
ビジネスが、常にビジネスであるわけではない。
僕は、mixiの中の心優しき人々を連れ出して、mixiの外で、文責の署名が必要な世界で、未来を見据えて遊びたいと思ったのだが。
世界中から集まった商人たちのカーニバルの喧騒に、砂漠の市に迷い込んだ太った王が、無花果の積まれた荷車の影に隠れて怯えている。
(2008/9/20)

「読むパラ」さんは読書に関連した商品を扱っているわけだから、まさか野菜や果物を売ってくれなんていったって無理な話なのだが、それにしても僕は最近、大航海時代の商人のロマンに思いを馳せていたりするのだ。
海洋民族ウチナンチュ、沖縄のチャンプルなどと引っ付けてみたりすると、火花が散ってソワソワする。しかし、そうした商人たちのバイタリティーが、世界中に点在して住み分けていた多様な秩序をぐちゃぐちゃにして、実は出会わずにいれば幸せだったかもしれない人々を街の中へ連れ出して、彼らから、安らかに流れていた悠久の時間を奪ってしまったことも事実なのだが。

いまや「多様な時代」だという。ひとりひとりのアイデンティティーという。その中でたくさんのコミュニティーが乱立し、ルールといえば他者との距離のとり方のみに終始し、もはや「人間として考えるべきこと」などという「重量」はどこにも存在しない。

本来人間とは、もしかすると唯一絶対なものに頼らずには生きていけない存在ではないのかという疑念を持ち続けていないと、とてつもない落とし穴にはまり込んで、そしてそれに気がつかないということになるのではないかと、やはり僕は、あの頃の若き日の自分の想念を、忘れることができないのである。

ならば、ただすべてを確信犯的にごちゃまぜにすることのみに活路があると、そんな着想が曼荼羅を求める理由であったのだが、あでやかな色を全てよく混ぜてしまえば、灰色の世界にしかならないということも、また、自明のことなのである。

僕は、自分の結婚式以来、カチャーシーを踊ることを拒否し続けている。
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