社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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たくさんの疑問を乗り越えて

 
営業努力しなくても親会社が仕事をくれる、いいですね、と言われる。営業努力をしなかったわけではない、10年の積み重ねだと、胸を張って見せたいところだが、状況はそんなに甘くはない。3年ほど前から、このままではいずれ仕事はなくなるだろうと、みんなに伝えてきたのだが、はたして、どのように伝わっていたのか。
「無理して仕事をとってこなくてもいい」
そういってくれるものはひとりもいなかった。そのことを、何故僕は冷徹に見ようとしなかったのか。
「そうなったらそうなったで、新しい仕事を見つけるさ」
彼らの顔には、そう書いてあったではないか。何故僕は、その時僕自身の人生を考え直すことをしなかったのだろうか。

個人事業を会社にしたのも、少しでも仕事をもらえる環境を作るためであった。親会社の担当者から、会社にしろとせっつかれていた。
「会社じゃないと、仕事を出せない、そういう方向に動いている。」
悩んだが、親会社から仕事を貰うためには致し方ないと、法人にした。みんなのためだと思っていた。だが、ほんとうにそうだったのか、「みんな」とはいったい誰のことだったのか、「みんな」が、ひとりひとりの顔と結びついていたのか。

生まれた会社は、別の人格を持つモンスターであった。気をつけて世話をしないと、途端に牙を剥き、檻を蹴破って飼い主たちを襲うだろう。いつまでも、親会社から「餌」が供給されるという保障はどこにもなかった。自らの会社で創造したものを「商品」として持たなければ、会社というモンスターはいずれ飢えて死ぬ。だがそれより前に、まず我々がモンスターに食い殺される。

だから、CDを作ってみた。その頃は、まだのんびりとしたものであった。しかし、今年の初め、いよいよ「会社の死」が、現実味を帯びてきた。我々に作り出せるものが、もっと他にないのか、その答えを出すことが、切迫した課題となった。「もの」そのものを作れといっているわけではない、どこかに持ち込める企画でもいい、そう、社員に促した。半年が勝負だ、その間、赤字1千万までは覚悟している、そこまでなら何とかなる。半年後に結果を出せなどとは言わない。それは不可能であろう。その時点で少しでも可能性のある新しい企画が動いていれば、何とかして会社を潰さずに続けていく、そう宣言した。その決意は、伝わっていたのかいなかったのか。

半年が過ぎた。

結局、社員から、新しいアイデアは出てこなかった。ならばと、今までの本業である地図を生かした仕事の可能性を探るための営業を指示してみた。だが、それもダメであった。動けなかったのか、動かなかったのか。
親会社から、最悪の予想に反してイレギュラの仕事がいくつか入ってきた。社員はそれを今までのようにこなしてくれた。いや今まで以上にこなしてくれた。「くれた」? その言葉に違和感を持つのは、僕だけなのか。
それだけでは「死ぬ」と、何度も伝えたはずなのだが、それだけをこなすのがやっとだった。だが、本当に「やっと」だったのか。危機感を自分のこととして、勝負した者がいたのか、いなかったのか。

ひとつの「死」が、確実に、間近に迫っている。

一方で、僕に出来ることはだけは、何とか動かしてきた。たとえばCDの販売促進、新しいクラシックのイベント、そして沖縄にまつわること。会社を殺すわけにはいかなかった。だが会社が死んで本当に困るのは、いったい誰なのか。
会社が死ぬと見切った者は、沈没する前に船を下りるだろう。そして、会社と共に死ぬのは、マストに括られて逃れられない僕だけなのではないか。ならば、会社にまつわる全てが、結局僕自身のためだけにあったのだといえないか。

たくさんの疑問がある。だが、今となっては、それにひとつひとつ答えている時間などない。それらの疑問を全て飛び越して、先に進むことができるかどうかは、ただ次の一点にかかっていると思うのだ。

「芝居」や、「音楽」や、「沖縄」や、「商品」や、「ネットワーク」や、そしてそれらを関連付けて考えてみることから生まれる可能性、それを自らの切実な課題として考えてみることのできる人たちと出会えるかどうか。
そして、彼らはどこにいるのか、例えば、社員の中にいるのかどうか。

勿論、それで全てが解決するとは思わない。しかし、どうやら「社長」の才能が欠如しているらしいこの僕が、なんとか苛立たずに仕事を続けていける唯一の道は、そこにしかないように思えるのである。

「他力本願」ではある。
だが、何ものかに回帰しようとしている自分を、今、発見してもいる。

問題は、どこまで回帰するかだ。
 

(再掲)《1987年1月26日の頭痛日記》

 
アホらしい…
煙草、やめることにした。

この一週間、頭痛の無かった日は無い。藁にもすがる思いで一大決心(ということにしておこう)。
《禁煙》
やめられる自信は無いが。

喫煙と頭痛の因果関係を匂わすものは何もない。だが因果関係が存在しないという証明もない。疑わしければ勿論、疑わしくなくともアリバイが無ければ処罰する。今や僕は暴君だ。それほど僕は、この頭痛に悩まされている。

昼頃に「止める」と決めたのだ。決めたら、ふっつりと頭痛が止まった。

〈タルホ的物理学者として「月は三角だ」というような画期的真理を発見する可能性は最早これによって閉ざされてしまった〉

……というわけである。
 

(再掲)coffee break《1987年1月25日のノート》

 
当時の我が駒場高校において、不法にも煙草をふかす生徒どもは、120円の〈ハイライト派〉と大枚150円の〈ショッポ派〉に別れていた。〈ハイライト派〉はバンカラを気取り、〈ショッポ派〉はこだわりを強調した。〈ハイライト派〉の流れを汲む過激なチェーンスモーカーの〈ピー缶〉に憧れもあったが、ピー缶を腰にぶら下げて歩くことは、さすがに高校生には無理だった。その代行としての〈ロングピース〉という選択は、どこかカッコつけ過ぎでイヤラシかった。その他にもポピュラーな煙草として〈セブンスター〉なんてのもあるにはあったが、しかしそんな甘ったるい煙草を吸う奴などはいなかった。もしもそんなものを吸っていたりするやつがいたら、軟弱者と蔑んで遊んでなんかやらなかったに違いない。

しかし、やがて高校生活もその終わりが見えてきたころ、その〈セブンスター〉を吸う堕落者が現われ始めたのだ。その多くは、今まで煙草など吸うことのなかった真面目な生徒たちであった。彼らは「健全」に「一歩一歩」成長して、ようやく「大人」になろうとしていたのである。けれども決して冒険しない彼らがまず始めに体験する煙草は、当然のことに当時の最も軽い煙草である〈セブンスター〉だったのだ。かわいいものではないか。
ところがである。ところが驚いたことに、〈ハイライト派〉や〈ショッポ派〉から脱落して、〈セブンスター〉を吸う者たちが出てきたのである。そしてその数は徐々に増えていった。何故そんなことになったのか、今だによくわからない。きっとそれが時代の流れというやつなのだ。
しかし〈セブンスター〉を吸う者がいくら増えても〈セブンスター派〉などは出来なかった。なにしろ彼らには〈セブンスター〉を吸うことに何の主義も主張も無かったのだから。ただ軽いというだけのこと、それが証拠に、やがて〈マイルドセブン〉などという情けない煙草が新発売されると、彼らは挙ってそれに切り替えたのである。

時は流れ、煙草を吸って悪がきを装っていた我々の仲間たちひとりひとりに、日本国家から法的に喫煙が許可されていった。その頃、巷では煙草の害についての喧伝がなされるようになっていた。嫌煙運動などという聞くもおぞましい魔女狩りも始まった。気がつくと、〈ハイライト派〉も〈ショッポ派〉もすっかり解体していた。かつて〈ハイライト派〉に属していた僕も、とっくに〈マイルドセブン〉を吸うようになっていた。
「金がないからさ、親父の煙草を失敬するんだ」
そういって、堕落を貧乏のせいにして自己正当化した。決して親父に金を出してもらってるんじゃない。盗んでいるのだ、そういって突っ張っていたが、たまに自分で金を出して買う煙草も〈マイルドセブン〉だった。

そうして、ついに恐るべき時がやってきたのだ。煙草を止める仲間が出現したのである。もはやそんなやつを「仲間」と呼べるのだろうか、などと嘆いている暇もなく、禁煙の輪は拡がり続け、久しぶりに集まったりすると、喫煙者は僕だけという絶望的な状況が、度々僕を襲うようになった。
「何故だ!」
僕は、思わず叫びたくなることがある。不健康に美学を感じていた僕らの時代、あの素晴らしき日々はどこへいったのか!

ある日、こんなことを言った奴がいる。「まだ煙草なんか吸ってるの、はやらないよ」
《てめえ、誰に向かってモノ言ってやがるんだ! てめえはドアホか! てめえは流行で煙草止めたのか! 煙草やめれば女にもてるとでも思っていやがるのか! 鏡にテメエのその腑抜けた面を写して見やがれ!》
確かに、俺だって〈マイルドセブン〉にまで堕落してはいる。そいつは認める。しかし俺は、どうしても宣言せずにはいられなかった。
「俺は、死ぬまで、絶対に煙草を止めない! 煙草吸って、死んでやる!」

明日に続くのだ!!
(1987/1/25)
 

走馬灯のように

 
過去を語るとは、それぞれの時に応じて、都合のよい過去だけを思い出し、たったひとつのことがあたかも全ての場合に当てはまるがごとく思わせる巧妙な営業トークのようなもので、詐欺師との違いは、「語っていること」が本当にあった出来事かどうかということのみである。全体像を歪めることにおいては、どちらも同じだ。
全ての過去を陳列すれば、騙されるものはいない。

死ぬ間際に、走馬灯のように過去を思い出すなどというが、本当にそんなことがあるのかどうか、死ぬ間際というものを経験したことはないし、経験したことのある人にも会ったことがないので、確かめようもないのだけれど、もし本当にあるのだとしたら、その走馬灯は、人生の最後に、自分の真の姿を知りなさい、自分で自分を騙していたことに気づきなさいという、神から与えられた思し召しなのかもしれない。だとすれば、大概の人間にとって、それは耐えがたい試練となるであろう。
しかし……。

死ぬ間際に見る走馬灯の過去は、きちんと時系列の順番を守って訪れるのだろうか。なんだか、そうではないような気がしてならないのである。

「死ぬ間際」よりもだいぶ手前で書かれる自伝的な文章がたくさん世に出回っているが、その多くは、「耐えがたい試練」などからは遥かに遠く鼻につく。それは、神とは関係なく、自らの思い出を手前味噌に取捨選択して勝手な構成を加えているのだから当然とも言えるのだが、どうもそれだけではないと思うのである。
本来バラバラであって然るべき「出来事」なのに、それを時系列に並べて接続詞で繋ぐという作業が、否応無く原因と結果の連鎖という非可逆的な時間の論理の中に「出来事」を組み入れることとなり、本来はそれぞれ単独に完結していたのであろう「出来事たち」から、精気を奪い取っていく。そうして辻褄を合わされた人生は、色褪せた無縁仏として葬られていくのである。
しかしながら、人生とは、きっと、そうしたものなのである。人は神ではない。非可逆的な時間の論理から、逃れることは許されない。だからこそ、この世の我々にとっての問題は、自分の人生のひとコマひとコマを、どのような接続詞を選択して繋いでいくか、自分の人生を、どう解釈するのか、ということ以外にはないのである。

だからこそ、「死ぬ間際に見る走馬灯の過去」は、きっと時系列には並んでいない、と思いたいのだ。全ての接続詞から切り離された過去たちは、「過去」であることからも解放され、神が気まぐれに振ったサイコロの目によって、フラッシュバックのように現れては消え、消えては現れ、それぞれが鮮やかな悠久の今となって立ち現れてくるのだ。死に行く者は、その走馬灯を静かに眺めながら、全てが許されたのだと深く実感して、黄泉の国へと旅立つことができるのである。

これは、この「ブログらしきもの」の解釈であり、改めての予告であり、そして、色褪せた無縁仏たちの為の「弁明」でもある。
 

(再掲)《1984年7月8日のノート》

 
今日はひとつ結論めいたことを書いてやろう。なるほど僕は勘違いしていたのだ。絶望は、もっと前から坦々と僕の中にあった。そうだ、絶望とは坦々としたものなのだ。だから、こんなものは絶望でも何でもありゃしない。こいつはたんなる淋しさだ。そして、僕はいつも誰かと、その淋しさを分かち合いたいと、ずいぶんと甘ったれた希望を抱いていたんだ。そうして、幾度、僕は負け犬として塒へ戻って来たことか。もういいだろう。帰ろう、あの懐かしい〈坦々とした絶望〉の世界に。

そうして、そこで僕は何を考えようか。肉体と精神の関係、しかし今度は肉体に拘束された精神についてではなく、精神を肉体に還元する可能性について考えるのだ。それは、言葉が肉体を持ちながら、なお自由であり得るかという表現の問題でもあるのだ。何故そんなことを考えるのか。僕は書くことを通じてふたつのことを知ったのだ。絶望は表現されることによってのみその名を変えること、言葉は肉体を持って初めて力を得ること。そして残された課題は〈自由〉であるということ。そのことに気付かせてくれたあの人に感謝しよう。

だが〈坦々とした絶望〉へ戻っていくなどと言う前に、お前はその〈坦々とした絶望〉とやらを疑ってみるべきではないのか。〈坦々とした絶望〉こそ、お前の〈甘ったれた淋しさ〉そのものではないのか。いや、そんなふうに概念の世界に閉じこもる前に、お前は、今ここでやり残した事はないのか。
(1984/7/8)
 

(再掲)《1984年6月18日のノート》

 
個人から関係へ。
心理学から社会学へ。
そういう展開がなんとも絶望的な気がして。

「希望」という言葉が存在するという事の絶望感。

太宰治の「舌切雀」。
「かえらぬ昔の夢を、未来の希望と置きかえて、そうしてご自身を慰めているんだわ」
(1984/6/18)
 

萱野茂「アイヌの碑」と《過去の解釈》

 
過去のノートの、1985年の8月26日に記した文章の後に、何をどう反省したのか、「特筆すべきことが無かった」はずの一週間の出来事を、僕は箇条書きにメモしている。

22日 新潟泊
23日 小樽へ
24日 積丹半島神威岬、特筆すべき美しさ
    生うに丼、1300円、特筆すべき旨さと値段
    余市ニッカウ井スキー、試飲、蛇足
25日 札幌入

そして、さらに続けて、躊躇したような乱雑な書き込み。

19日 萱野茂「アイヌの碑」、自画自賛、駄作、あくまで読み物として

当時の僕に、正しい批評眼があったとは思えない。そんな僕の勝手な落書きを、ここで無責任に公開することは、もしかすると許されることではないのかもしれないが、これはあくまでも自らの未熟を報告するためのこと、どうかご容赦いただきたい。
いわゆる「観光アイヌ」としても働き、長老のアイヌ式の葬儀を、参列者からの白い目の中で記録し、失われていくアイヌの民具を買い集め、それらを展示する資料館を建設し、そういうふうに単純に並べてみれば、もしかするとアイヌの同胞たちから批判されかねない半生の、その苦労を綴るその語り口を、当時の僕は「自画自賛」と感じ、読み物としては「駄作」だと規定したのである。
萱野氏の半生に横たわる「ほんとうの出来ごと」に対して想像力を働かせることをせずに、「自画自賛」としか感じ取ることができなかった僕に非があることは間違いない。

といいながら、「駄作」などと言い放ったのと同じ間違いを、再び犯すかもしれないと恐れつつ、僕は今、萱野茂氏の「アイヌの碑」について、こう思っている。
萱野さんは、離れていった愛する同胞たちに向けて、必死に弁解していたのではないだろうか。「これが僕の本当の気持ちだったのだよ」と。
そう思って改めて「アイヌの碑」を開くと、やさしい文体で書かれてはいるのだが、僕はそのいたるところに深い悲しみを見つけ、涙なしに読み進めることが出来ないのである。

実際にお会いした萱野茂氏が話した「日本語」は、氏の著作の言葉とは全く違い、独特に滞り、独特に躓き、決してネイティブな「日本人」が扱う日本語とは思えなかった。何故そうだったのか、僕は、一生忘れ得ぬ萱野さんの「独特な声」を思い出しながら、いつかゆっくりとそのことについて考えてみたいと思っている。
 

(再掲)《1985年8月26日の旅のノート》

 
この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった。
「何一つ特筆すべきことが無い」という表現を思いついて、僕は安心している。
問題は、何があったなかったということではなく、特筆すべきことがあったかなかったかでもなく、日記を埋める題材があったのかなかったのかということでもなく、ただ日記の空欄に何らかの意味ある文字を書き残し得たのかどうか、それのみが問題なのである、というふうに、どうやら僕は考えているらしい。いったい、どんな強迫観念が僕に影響しているのだろうか。

何をしたとか、どこへ行ったとか、海がきれいだったとか、そうしたことを書けないのは、なんともつまらないと思っていたのだ。だが、考えればこの言い草も妙だ。どこへも行かず、きれいな海も見ることなく、要するに何もしなかったことがつまらないというなら分かるが、そうしたことを書けないことがつまらないとはどういうことだろう。

ともかく僕は、宿の和室の机の上に、このノートを開いたまま、しばらく仰向けに寝転がって天井を眺めていたわけなのだが、「この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった」という言葉を思いついて、やおら起き上がってノートにその文字を書きつけてみた。そうしてみたら、なんだか僕は、とても満足しているらしいのである。

はたして、何をしたとかどこへ行ったとか、そういう具体的な事柄で毎日の日記を埋めていける人とは、どういう種類の人間なのだろうか。
人は言葉によって考えているのだろうから、考えたことを書けばいいというだけのことならば、少し乱暴だが、自動書記的にも行い得るはずだ。頭の中にある言葉に、ただ文字を与えて書き記すだけのことなのだから。しかし、何かをしたとかどこどこへ行ったという事実を、「何をした」「どこへ行った」という言葉に置き換える作業は、何か別個の衝動がなければできないことのように思うのだ。

どうやら僕にとって、一日の終わりにその日の出来事を記すことなどはどうでもよくて、「特筆すべきこと無し」でもなんでもよいから、何かまず書いてみて、その言葉から始まる想念だけが重要なのである。きっと僕の日記は、一日の結果なのではなく、何かの原因となる因子なのだ。
それならば、一日の終わりに書くのではなく、朝一番に書くほうがいい。しかしそんなことをしたら、きっと僕は、一日中このノートに向かっていることになりそうだ。

結局のところ、未だ僕は、現実の自分は虚ろであり、書く自分は現実と断裂している。
(1985/8/26 札幌の宿にて)
 

(再掲)《1985年8月19日の旅のノート》

 
今日から長い旅に出る。
東京に戻る頃は、もうすっかり秋だろう。もはや今年の僕の夏は終った。というより、何事も始まることの無かった夏であった。終るべき何ものも生み出すことなく、内容の無いひとつの夏が、ただ形式的に過ぎ去っていく。

日航機墜落。奇跡的に助かった4名の治療に当たった医師の言葉。
「助かった人たちは、何か目に見えない大きな力に守られているように感じます」
守られなかった大多数の人々の遺族は、これを聞いて何と思うのだろうと、若干の違和感を抱きながらも、僕は医師という論理的な職業に携わる者が語った「奇跡」という言葉に、少なからず心動かされてもいたのだが。
昨日だったか一昨日だったか、生き残ったひとりの、墜落直後は父も妹もまだ生きていたという証言が報道された。機内最後部の乗客たちの多くが、即死ではなかったかもしれないという事。その可能性の検証を待たずに、「奇跡」などという言葉を使ってしまうことの危うさを、今日考えた。
「人為的責任」
生き残った人の奇跡を語る前に、死んでいった人々に思いを致す事。

むりやり世の出来事について感想を述べてはみたが、どれほどそれを積み重ねても、何もない僕の夏が、それで満たされることなどあり得ないので、なんとも気が進まない。

まずは佐渡へ渡る。
(1985/8/19)
 

(再掲)《1984年1月25日のノート》

 
1+1=2である。何の比喩でもない。なのに、うっかり「1足す1は2でしかない」などと言うと総スカンを喰う。
何かがでしゃばっている。おかしな時代だ。

混同と調和とは違うものである。
(1984/1/25)
 

(再掲)《1984年1月3日のノート》

 
新厚生大臣、就任しての開口一番。

「たばこは健康にいい」

ばっかじゃなかろうか。
長屋のくまさんなら気のきいた台詞だが……。
日本の政治家の程度を疑う。
 
僕は何をイライラしているのだ?
(1984/1/3)
 

(再掲)《1998年5月1日のノート》

 
「ダルマサンコロンダ」……

十(とお)数えてふり返ると、今の今までそこにいたはずのダルマサンの姿が見当たらない。探せばダルマは坂の下。ローリングストーン、光陰矢の如し、そんな言葉のスピード感とは裏腹の不動の達磨、ならば落ち行く達磨は似非達磨。急坂を手も足も出さずに転がる達磨人形の姿は、重心が尻に寄っているから尚更、飛ぶ矢とは比ぶべくもなくみっともない有様に違いない。

はたしてこの僕こそがその惨めなダルマサンであったのか、などとは言いたくないけれど、少なくとも去年の8月に役者でなくなってしまってから、転がっていく状況を止める努力もせずに、アッという間に9ヵ月が経ってしまったことに間違いはない。なんで今頃こんなこと言い出したのかといえば、思い出したから。何を思い出したのかといえば、ちょいと昔まで自分はダルマでなくて役者だったということ。何で思い出したのかといえば、9ヵ月ぶりに役者としての仕事の予定が入ったから。

「ダールマサン、ダールマサン、にーらめっこしーましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷっ……」
つい笑ってしまう情けなさ。
笑ったほうが負けとは、なんともおかしな遊びだこと。
(1998/5/1)
 

岐路

 
子どもが大きくなり、芝居だけではどうにも食えないことに気がついて、そうして始めた仕事が忙しくなって、なかなか芝居が出来なくなった。

それでも四年ほど前、殺人的に忙しい仕事の合間をぬって稽古を重ね、舞台に立った。
自分から出てもいいよなどと言っておきながら、実際に出演を打診されると、結構迷った。アマチュアのサークルで芝居をやるわけではない。仕事帰りにちょっと稽古に参加するというわけにはいかない。プロなら、稽古以外の時間に、やっておかなければならぬことがある。
当時、まだ法人ではなかったが、仕事の量は、今と変わらなかった。そして、あらゆる業務で、最終的に僕が関わらなければ片がつかないという状況であった。むしろそういう状況を変えるためにこそ、芝居に出るのも悪くないのではないか、そうみんなに言われて、出演を決めた。

はたして、結果はどうであったのか。

朝、誰よりも早く事務所に入った。稽古にぎりぎり間に合う時間まで机に向い、促されて慌てて飛び出した。少し体を絞る必要もあったから、稽古場まで自転車で通った。3時間程度の稽古を終えると、そそくさと稽古場を出て、夜の町を事務所に向かって自転車のペダルを踏んだ。事務所に戻れば、やらなければならない仕事が山積みになって待っていた。

世間を風刺する演出家は、世のおじさんたちを、ポンチ絵のように語った。親会社のサラリーマンたちの顔が浮かんだ。全くもってその通りだとほくそ笑む自分と、素直に受け入れることのできない歳とった自分が共存していた。

一方、事務所ではどうだったのか。納品期日に間に合うかどうかの瀬戸際だというのに、延々と喫煙して談笑する者たちに苛立った。やはり俺がいなければケリがつかないのだろうかというふうに。

きっとその時から、僕は住み慣れた芝居の世界からも、アルバイトの延長のようだったビジネスからも、はみ出してしまったのだと、今にして思うのである。
僕はあの時、どちらかを捨てるべきであったのかもしれない。しかしそれができなかった。捨てたいのはビジネスであった。しかし、生きていくためには、ビジネスがどうしても必要であった。
 

(再掲)《1987年1月21日のノート》(2)

 
魯迅が本当の〈高士〉というものについて書いている。
その高士は靴すら履けないほど貧乏だった。それを伝え聞いてわざわざ靴を届けに訪れてくれた人に対し、彼は黙って裸足の足を差し出した。本当の高士とはそういうものだと。
してみると「たまには貧乏もいい」などとのたまう種田山頭火なる最近はやりの俳人は、魯迅言うところの本当の高士とは似て非なるものらしい。「梅花一枝を裏の畑から盗んで来て瓶に挿した、多過ぎるほど花がついている、これで仏間の春がととのうた」とは山頭火。一方の本当の高士が、はたして盗みをはたらくか否かは別として、たとえ盗んできたとしても、けっして「盗んだ」とは言いそうもない。否、盗んだという自覚すらないのだろう。やはり似て非である。
山頭火のほうは日本的で甘いのである。「水と空気とがタダだからありがたい」、ここまでくると不快である。日本特有の御利益宗教、それには自然に感謝する深い祈りが欠けている、そう言葉にするとなんとも薄っぺらだけれど、少なくとも〈タダ〉というのはどうもいただけない。水と空気がありがたいとしても、それは〈タダ〉だからではあるまい。
いずれにしろ、中途半端な優しさなど、糞食らえである。
(1987/1/21)
 

(再掲)《1987年1月21日の頭痛日記》《1987年1月21日のノート》(1)

 
その宿屋の女将はどういうわけか妊婦で、二階の物干し台にどっかと立って、「富士山が見えますよ」と何度も大声で繰り返している。妙な客寄せだなと、帰宅途中の僕は懐かしい路地の隅からその光景を眺めている。
帰る家はもうすぐそこだ。玄関を入って戸を閉めると、外で若い男の声がする。妊娠している女将の弟か、お腹の子供の父親か、僕はその男に首を絞められている……

フェリーに揺られ、いやな夢を見た。これも頭痛のせいなのか。
朝8時20分、船は小倉に着く。船を下りて、そしてすぐに鹿児島へ向かう。
(1987/1/21)
 

(再掲)《1983年の僕を1994年の僕が解釈する:5》

 
【1983年の自己を解釈する(5)】
もはや〈本郷〉にも学生運動など無く、ましてや〈駒場〉の近くの高校に〈政治的〉な何かがあろうはずもなかった。ただ民青の残党がどぶ鼠のように活動しているだけ、だが、というより、だからこそ、《サークル》のような〈甘ったるい〉ものじゃなく、〈尖った〉《徒党》を組まねばならぬと思った。しかし挫折した。僕らの〈主張〉に「君たちの言う事はよく分かるが、受験が近いからね」と答える連中、こいつらに〈過激な〉政治的言葉など無力だと思った。だが、〈主張〉などあったのだろうか。「僕らのやるべき事は政治ではない」と僕は言った。挫折したからそう言ったのではない。こんなこと、はじめからわかっていたはずだ、と僕は思っていた。
(1994/5/28)


 

(再掲)《1983年9月3日のノート》

 
「徒党を!」と叫んだ。しかし徒党など作れなかった。
僕に必要なのは徒党ではなく、芝居の仲間なのだと気がついた。だが仲間も出来なかった。なぜなら、僕の欲した仲間は、相も変らず徒党のようなものでなければならなかったから。
やがて、徒党が組めないのなら、僕は孤独であるべきなのだと思うようになった。そして周りを見ず、ただ深さのみを志向した。
そんな僕に向かって、ブレヒトが言う。「《非党派的》であることは、芸術にとっては《支配しつつある》階級に属することでしかない」と。何かを思い起せとばかりに。
(1983/9/3)
 

(再掲)《1983年7月21日のノート》

 
ボールを追いかけて遊んでいる子供たちと、どれほどの違いがあるのか。苦しさに託けてはいるが、結局ゲームに過ぎないのではないか。
鏡に映った僕の顔に、軽蔑すべき自分の姿が何重にも重なって、僕のたった今の表情を掻き消してしまう。
組立てられた稚拙な論理は、苦悩を閉じこめるためにあるどころか、実は見慣れた感情の屁理屈に過ぎない。
そして子供のたわいない遊びが、至上の価値あるものに見えてくる。
それでも、僕はこのゲームから逃れられない。
(1983/7/21)
 

(再掲)《1983年7月12日のノート》

 
〈精神-肉体-科学〉か、〈科学-精神-肉体〉か。

(ジイド「田園交響楽」)
「明確な観念を把握できない限りあらゆる概念はいつまでも不安と焦慮の種になった。」
(1983/7/12)
 

無理な話

 
CTの結果は経過観察。
運命の日だと思っていたのに、なんとも間の抜けた話だ。

どのくらい自分が強くなったのか、確かめてもみたかった。そして、もしかすると代表の重責から逃れられるかもと、ほんとうに若干期待していたのだが、全て致し方なしである。

体に心配がないのなら、人がいないので調査に出なければならないらしい。
対外的には、「社長」が作業で忙しいような会社は信用されない。だがそれは、社長の発想力と判断力が優れていて、黙っていてもそれを理解し行動する優秀な社員がいる会社のことであって、ただあてがわれた仕事のみをこなしている社員ばかりの小さい会社で社長が働かなければ、このご時勢、そんな会社は、あっという間に墜落するだろう。

とはいうものの、刈り取り作業ばかりやっていては、来年出る芽はない。
せめて、じっくり天気を見極めて、種を蒔くタイミングを図るくらいの余裕が欲しい。

僕は「社長」などではないのに社長なので、イライラするなというほうが無理な話なのである。
 

(再掲)《1985年7月16日のノート》

 
R.D.レインはいう。日常的な精神は、身体と意識の平和な共存を信じている。しかし、真実を見透かす分裂病者は、身体と意識の馴れ合いに安住できず、結果、正常な「身体化」は失われ、そのかわりに「非身体化-自己と身体の分離」が訪れるのだと。
分裂病者は、見慣れぬ自分の身体に、「にせの自己」を注入する。彼らの生は、自己が崩壊する恐怖と不安の中でおこなわれる壮絶な演技である。

「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないという。いったいそれは、どういう意味なのか。

分裂病者は、必死に自己の存在を確かめようとしているのだ。だが僕は、僕の肉体が確実にこの世界に存在していることを認識しているのである。僕にとって、身体と自己を分離させてみる実験は、帰宅時間が来ればそそくさと切り上げることのできる、夕暮れ前のママごとに過ぎない。僕の犯す「真正ならざる罪」は僕の精神の責任ではないと、舞台の上でいくら叫んでみても、僕の精神がコントロールしている僕の身体がこの世界の中にあって「真正ならざる罪」を犯し続けているという責任から、僕の精神は決して逃れることが出来ないのである。

分裂病者は、自己の存在を確かめるために、「罪」であることを知りながら、「真正ならざる罪」を切実に求めているのだが、一方で僕は、「分裂病者」などではなく、「分裂病者」になることも望んでいないのである。
つまり、「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないというロジックは、巷に溢れる「スキゾル」などという流行の造語のような安易さにまみれているのではないか。

僕らは「真正ならざる罪」の意識さえ、真に所有してはいないのである。

役者などという「あり方」に甘えて、分裂病者を装うことを、決して選択してはならないのだと思う。
こんな中途半端な状態では、レインのいう「真正な罪」という概念を断固拒否すべきなのだ。実存主義者のスローガンを、安易に掲げることもやめよう。
そして、あくまでも狂気ではない「分裂者」の道を探るのだ。「役者」などという不誠実な人種から、程遠い場所で、僕は何かを探すのだ。

矛盾している。そんなことはわかっている。だが、思い起こせ。僕は、芝居という武器を持って、この地平のかなたの悪に対して、絶望的な戦いを挑んだのではなかったか。それを目指したのではなかったか。町へ出ろ! そのためにまず、この肉体を自分のものとすることに同意するのだ。その為にこそ、小さな罪を犯すことを、犯し続けることを受け入れなければならないのだ。

グロフスキは、どこへ行ってしまったのか、僕はレインに、自分の欺瞞を暴かれ、自己を空にするというような目論見が、どうやら極めて怪しいことのように思われ、だから僕は、ひとまずグロトフスキについては棚上げすることに決めたのだ…

決めた? 驚いたもんだ。この僕に、まだ「決める」能力が残されていたとは驚きである。
(1985/7/16)
 

決して話さない理由

 
もうオジイオバアとなってしまった沖縄の「父」や「母」が、自分が体験した沖縄戦のことを子供に話して聞かさない理由のひとつについて、こんなことを聞いたことがある。
話してしまったら、子供達の中に、大和に対する憎しみが生まれてしまうだろう。子供達は、これから日本人として生きていかなければならないのに、その日本を憎まざるをえないとしたら、子供達の未来は、とても生きにくいものとなってしまうだろう。だから、実の子供達には、彼らの将来の幸福のために、沖縄戦について、決して本当のことは話さないのだと。

目取真俊氏の発言は、時に過激で、取り付く島のないことがある。
「目取真俊の父親は、息子を連れて自分が沖縄戦で辿った道を歩き、自分の体験について、克明に語って聞かせたらしい」という話を、儀間進氏から伺った。

自分が体験した沖縄戦について決して話さない人が100人いれば、やはり100通りの理由があるのに違いない。どこかから、もう一切詮索などしないことにしましょうね、という声が、聞こえてくる。その言葉に、素直に従える時代が来ることを、心から願う。

三太郎。
今のところは、この程度で許して欲しい。いずれ僕のところに、確固たる確信が訪れたなら、また少しづつ、話してみようと思っているから。

アイヌについても、ボチボチと少しづつ…
 

(再掲)《1984月5月12日のノート》

 
僕は孤独なのではなく、ただ怠惰にも争いを恐れて、敗れる争いを恐れて、そして孤独のふりをしていると君は言うのか。
争いを避けて星となったあのヨタカに、君は何の想いも寄せることはないのか。
(1984/5/12)
 

(再掲)《1984年4月18日のノート》

 
町へ出る。そして「遊戯」する。
だが、その現実の局面に於いて、どう我々は行為を選び取っていけばよいというのか。全ての行為を「遊戯」だと嘯くなら、殺人行為も「遊戯」の概念の中で拡散していく。もし「殺人」さえ「賭け」だと、なおも言い張るのならば、僕は永遠に蹲っていてよいと思うのだ。
(1984/4/18)
 

(再掲)《1984年1月17日のノート》

 
わが紺珠、常に獲麟なり。

「私は、純粋というものにあこがれた。無報酬の行為。まったく利己の無い生活。けれども、それは至難の業であった。私はただ、やけ酒を飲むばかりであった。私の最も憎悪したものは、偽善であった。」
(太宰治「苦悩の年鑑」)

「まったく利己の無い生活」などあり得ない。ならば全て偽善だというのか。
いずれにしろ、今の僕には、現実から得る感動が少な過ぎる。

寺山修司は「町へ出よ」と言ったのだが、僕は寺山のこの「嘘」に騙されてみるのもいいかなと思った。僕は哲学から少し離れようと思った。哲学にしか逃れる道はないと、いまだに考えているのだとしても。
(1984/1/17)
 

三太郎からのバースデーカード

 
前略。
お久しぶりでございます。ほぼひと月ぶりですなあ。
相変わらず、なかなか先へ進まないご様子。「ほんとうのこと」に、あまりにもこだわり過ぎていらっしゃるようで。

あなたのお好きな儀間進オジイは、たしか二つの負い目があるとおっしゃったのではないですか?あなたは、そのうちの「戦争体験がない」という、ひとつめの負い目だけは語ったが、しかしふたつめの負い目についてはどうしようかと躊躇している。このまま進まぬ物語に付き合わされるのはかなわない、だからオイラが代わって発表しましょう。ばっさりと。

儀間進氏曰く
「私には負い目がふたつあります。ひとつは戦争体験がないこと、そしてもうひとつは、琉大文学をクビにならなかったことです。」

どうです? すっきりなさったのでは? そんな怖い顔でオイラを見ないでください。あなたはmixiという、開かれてるんだか内輪なんだかよくわからない場所の、「沖縄の独立を考える」なる「コミュ」とかなんとかいうところに、既にこんな文章を書き込んでいらっしゃるではありませんか。

《mixiへのコメント》
「アイヌ」という言葉は、本来「人間」という意味であったと記憶しています。「シサム(隣人)」である大和と出会うまで、「アイヌ」にとっての他者は、多分「自然」であったのだと思うのです。「アイヌ」にとってのアイデンティティーは、偉大なる他者としての「自然」を鏡にして、そこに自分たちの姿を写し出すことによって、確かに成立していたのではないでしょうか。「人間」という名のアイデンティティーです。
ところが「不幸(?)」にも「シサム」と出会ってしまった時から、「シサム」という他者の名前は、「シャモ」という憎しみを帯びた言葉に変貌し、元来人間を意味した「アイヌ」という言葉は、「シャモ」と区別された「自ら」を規定する呼び名となったのです。
僕は、「沖縄」を考える時、いつも普遍的な地表に導かれていってしまいます。人が、他者と出会い、そして理解し合うとはどういうことなのか。「わたし」は「あなた」を本当に理解できるのだろうか、というふうに。
新川明氏の反復帰論はご存知でしょうか。彼は沖縄独立論者として自分が規定されることに異を唱えます。「独立論」の先には、結局、国家が存在するから。新川明氏は、遠い遠い彼方に「国家」という枠組みのない世界を見据えて、今現在、沖縄はどうあるべきかを、模索し続けてこられたように思うのです。
一方で、新川明とは対極にいる作家・大城立裕氏と、今僕は仕事をさせていただいています。大和の言葉で、基地内で開かれる「カクテル・パーティー」の親善の欺瞞を告発し、沖縄に始めて芥川賞を齎しました。氏のあり方もまた、我々がとやかく言うことの出来ない、沖縄のひとつの選択であったのだろうと思うのです。
50歳にして、今僕は、たくさんの沖縄の方々と出会い、たくさんの勉強をさせてもいただいています。
そうして今、僕は、妻の故郷である「沖縄」を通して、僕のなかの「大和」を、問い続けているような気がするのです。
(2008/10/18)


あなた様がこの書き込みをされた途端、それまで盛り上がっていた議論が、ピタリとストップしてしまいました。あなたのお言葉は、いつも周りに冷や水を浴びせて沈黙を生み出します。それは「ほんとうのこと」と関係があるのでしょうか。それとも…

新川明氏は、琉大文学を「クビ」になった方。儀間進氏は、今も時々新川明氏とお会いになるという…

これについてはオイラの出番はここまで。この後の続きはお任せいたします。

そして、もうひとつのほんとうのこと。誰にも言えないほんとうのこと。それは言わぬが花、それこそはミステリーということにして、もういい加減に先へお進みになられることを期待しております。

お誕生日、おめでとうございます。誰も祝ってくれないあなた様への、オイラのお祝いのメッセージでした。
えへへ…
 

(再掲)coffee break《1985年1月31日のノート》

 
黒色テントの斎藤晴彦さんに、何故早口なのかと尋ねてみたことがある。
「恥ずかしいから、一刻も早く引っ込みたいんです」
ウソだよな、きっと……
(1985/1/31)
 

(再掲)《1985年1月28日のノート》

 
「『日記』は事実を書いておく方がいい、と花袋は言っている。こう思ったとか、ああ思ったということよりも、こういうことをした、ああいうことをしたという行為を書いておく方が『日記』というものの本来の性質にかなっている。自己の後年の追懐のためにする上から言ってもその方が便利だ』。私もそのつもりでいたが、事実だけだと何か味気なく、『こう思ったとか、ああ思ったということ』を書き出した。そこに面白味が出てきたが、先日、日記がさっぱり書けなくなった。その原因は、思うにその『面白味』に対する嫌悪にあったのだから、おかしい。」
「鴎外などの日記は、事実だけなので腐らない。私の日記は、……腐ってもいい。いや、腐っていい。」
(高見順の日記)

何かピリッとしない。何となく靄がかかっているようで、やっぱり頭がボーッとしている。胃がシクシク痛んでいる所為か、この寒さの所為か、髪が伸び過ぎている所為か。

日記をつけたいと思う。〈日記〉というものをつけたいと思う。なるべく事務的なものがよい。考えた事ではなく、あった事を。曖昧な事ではなく、確実な事を。どこへ行ったとか、何を食べたとか、そういう具体的な事を書き続けることによって、初めて〈本当の考え〉が生まれるのだと思う、きっと……。

正月の三日から働いている。四日から九日まで、自分の家で寝ることの出来たのは五日の夜だけ、後は稽古場で暗幕に包まって眠る。十日、銚子に宿泊し翌十一日公演、終わってその日流山まで移動、十二日公演、トラックで帰宅。十三日練馬公演。十四日から旅、フェリーで九州へ。福岡を中心に今日まで十一ヵ所で公演……。

つまらない。何の考えも生まれる気配はない。

海を渡って徳島で別班と合流。でも四国での公演は一日だけ、その後はまた九州。帰るのは二月の十九日。きっと、やっぱり何も生まれやしないだろう。
きっかけ。日記のきっかけ。思索のきっかけ。
(1985/1/28)
 

(再掲)《1984年1月14日のノート》

 
三島由紀夫「旅の墓碑銘」。

「……僕はそれらのものに化身する。その瞬間、見る者と見られる者との差別は失せ、すべては等価値になり、調和の中に並存し、世界を充たした僕の不在を、今度はあらゆるものとの僕の存在の聯関が埋めるんだ。こういう世界の深みまで降りてゆかない精神が、どうして作品などという確実な物体に化身することができるものか!」
「そのとき僕の肉体が占めていたほどの確乎たる僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかったんだ」

三島は極限から戻ってきたのだ。決して越えたのではない。
いや、越えたのかもしれない。しかしいずれにしろ、極限にとどまっていた訳ではない。
極限を見たのだとしても、三島はそこから逃げ帰ってきたのだ……。

そんな「感想」を見つけ出して、ようやく僕は、穏やかにしていられる。
(1984/1/14)
 

儀間進氏の「ほんとうのはなし」

 
「話したくない戦争のことを初めて話す時のね、その言葉は、ほんとうに伝わってくるのだが、語り部の方々は慣れてしまってねえ、スラスラと話して感動がないのです。ちょっとつっかかるような演技をすればいいのだけれど、プロではないからねえ」と儀間進氏は屈託無く笑った。
それがたとえ「ほんとうのはなし」だとしても、「内地」の人間には、とても語れるようなことではない。沖縄の人の気もちを傷つけはしないかと躊躇して、語り部の方々の話に感動がないなどとは、とても言えるものではない。ましてや初めてしゃべるように演技すればいいなんて、冗談にも口には出せない。それを儀間氏が語ると、なぜかとてもうれしくなる。

「100人いれば100通りの戦争体験がありますからねえ。いい日本兵もいた。絶対に死んではならないと必死に説得し、最後まで住民を守ろうとした日本兵もいました。その反対もいたけれどねえ。」

安易な結論を導き出してはならないと思う。決して。

「対馬丸が沈んだのは、公然の秘密だったねえ。」
「え? そうなんですか」
「対馬丸が撃沈されて、たくさんの子供たちが死んだのではないかという噂は、どこからともなく流れてきました。僕は、その一週間くらいあとの船に乗って九州にひとり疎開したのだが、対馬丸が沈んだらしいということを知ったうえで船に乗り込むのだから、それなりの覚悟は、みんなあった。」
その後、あの悲惨な沖縄戦が始まる。そうなれば、誰も対馬丸の噂にかまけてなどいられなかった。自分の命を守ることで、誰もが必死だった。対馬丸は、みんなの記憶から消えた。

儀間氏は言った。自分に戦争体験がないことが負い目なのだと。だが、撃沈されるかもしれないという覚悟を持って疎開船に乗ったという経験が、どうして戦争体験でないといえようか。しかし、儀間氏のいう負い目とは、あの沖縄戦を沖縄の人々とともに体験しなかったということなのだ。

沖縄が大変なことになっていることは、疎開した九州にも知らされた。
「しかし、ちっとも悲しくありませんでした。なんでもなかった。ニヒルでしたねえ。戦争が終わって、沖縄に戻って、焼け野原になった沖縄を見ても、何も感じませんでした。きっと、頭がおかしかったんだろうねえ」

僕は、この儀間進という大好きなオジイから、もっともっとたくさんの話しを聞きたいと、心から思っていた。
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