社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1983年の最後のノート》

 
56億7千万年、釈迦の説法を受けなかった全ての人々を救うという彌勒菩薩。それは地球が滅亡した後の話か。人の一生、たった五十年余りの歳月。

無数の対立……

東洋の微笑む神々と西洋の苦悩する唯一の神。
日本人たる僕。民族の血。東洋の心。
肉体と精神。芸術と哲学。美と道徳。自然とカント的自由。感動とストイック。
「蹉跌の美」……敢えて哲学風に「極限状況の美」、いや、やはり「蹉跌の美」。

煩悩を打ち消す除夜の鐘。
ノートに書き留めておきさえすれば、煩悩も消え、罪も軽くなり、もうそれでいいと思っている男。僕は文学の糞拾い。拾ったものは「文学の糞から生まれたような男」という気のきいたセンテンス。拾った場所は太宰治の『晩年』。

さらに、性懲りもなく密かに拾い続ける……

(芥川竜之介「猿」)
「猿は懲罰を許されても、人間は許されませんから。」

除夜の鐘に、煩悩という衣を剥ぎ取られむき出しにされた罪たちを、去り行く年に捨てていこうとする無責任な日本人たち。
(1983/12/31)
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(再掲)《1983年11月8日のノート》

 
カント「純粋理性批判」
「身体からの(心の)分離は、諸君の認識力の感性的使用の終わりであると同時に、また知性的使用の始まりである。それだから身体は、思惟の原因ではなくて、思惟を制限する条件にすぎない。従って身体は感性的、動物的生活を促進するものであるが、それだけにまた純粋な精神的生活に障碍を与えるものとも見なされるのである。感性的、動物的生活が、身体的性質に依存しているということは、我々の全生活が身体的諸器官の状態に依存しているということの証明にはならない。」

だがしかし、カントは言うのだ。「幸福をうけるに値するように行為せよ」と。キリストを信じない僕にとっては理解不能である。
精巧な設計図が、曖昧さに揺らぎ始める。

カントは、自らの幸福のために「純粋理性批判」を著したのではないのか。身も蓋もないことはよく分かっている。

どんなに論理的であっても、どんなに客観的妥当性を持っているという確信があっても、あらゆる結論の後に、「~と思うことが、僕にとっての幸福なのだ。僕にとって幸福であるからこその結論に過ぎないのだ」と付け加えることによって、僕はしばらく、あらゆる論戦から身を引いてみようと、決心してみた。
(1983/11/8)
 

(再掲)《83/7/19のノート》「統一の意思」のメモ

 
「物質から精神が生まれそしてそれは混沌である」
この一節の中に全ての誤謬の萌芽がある。だがそれは、論理の誤謬を意味しない。人間の逃れられない誤謬の原因を正確に表現しているに過ぎない。ただ、虚無と無限という対極の要素を内包した定理を始原として、その上に構築される《統一の意思》は、その論理の末に再び混沌が立ち現れることを示すこと以外に矛盾から逃れる道はない。
しかしそれは、虚無と無限との間の世界で、パスカルの言うところの中間者としての人間が、理念としての「始まり」から、やはり理念としての「終わり」へ向けて、非可逆的に歩む行程を、ひとつの弁証法的な実存のあり方として示唆することに他ならない。

僕は僕の感情を、片付けてしまいたいと望んでいる。
一方で、決して片付けてはならないと考えている。
深奥さへの憧憬を、絶対に失ってはならないと考えている。
(1983/7/19)
 

ある旧友への、9月の書簡(2)

 
誤解なのか、その通りなのか。沖縄をネタにして儲けようとするヤマトンチュというレッテル。
でも、僕のやろうとしていることを理解してくれたからこそ、大城先生も快く許諾してくださった、沖縄タイムスだって付き合ってくれる、他にもたくさんの沖縄の人たちが協力してくれている、それに報いるためにもなんとかできるだけ多くの人に知ってもらって、そして買ってもらいたいということなのです。 赤字を出しては続けていくことはできないのですから。

儲かると「商売」、じゃあ儲からなければよいかというと、今度は「政治」が顔を出す。
「気をつけたほうがいいよ、大城立裕を扱えば、どうしても政治的なことに巻き込まれる」と、ある方から言われた。それもそのとおりなのかもしれません。貴方からもそう誤解されかけているのですものね。
しかし断固政治ではないのです。敢えて言えば沖縄の「オジイ」の心です。それは沖縄病にかかっている沢山の若者にも理解できるはずです。「オバア」の心なら、こんな弁解など不要でしょう。「オバア」は誰が考えても沖縄の「文化」だから。
大城立裕という人は、決して政治について語ることの似合う人ではありません。それなのにどうしようもなく背負わされてしまった歴史的使命。なんだかそれは、沖縄の「オジイ」に共通した「悲しさ」のような気がするのです。

大城さんの「嵐花」とはいったいどんなお芝居なのかというご質問ですが、組踊(能と歌舞伎の中間のような沖縄芝居)の創始者玉城朝薫が、どのような内的苦悩を経て組踊を作り出したかを描いた芝居です。
中国と薩摩の間にあって、沖縄独自のアイデンティティーを探る朝薫、20年前に観た時は、とても重いものを突きつけられた気がしたという記憶があります。

それにしても観客動員はとても厳しいらしい。この芝居がどうのこうのということではなく、「国立劇場おきなわ」になかなかお客さんが来ない。
沖縄の経済状況は、普通なら暴動が起きてもおかしくないレヴェルとのこと、そんな中でお金を払って芝居なんかみる余裕は、一般的な沖縄の人たちにはないでしょう。僕のかみさんの実家は「国立劇場おきなわ」に近いところにあるのだけれど、観に来てなどと、とてもいえる状況ではありません。
では、沖縄以外の人はどうか。以前は東京の国立劇場でちょくちょく沖縄芝居や組踊などの公演があったのだけれど、沖縄に国立劇場が完成した後は、東京での公演が少なくなって、沖縄以外の人たちの沖縄芝居を見る機会が減った。その分、沖縄の上演に人が行くようになればいいわけですが、いくらなんでも本土からわざわざこの芝居を観る為に沖縄へ行く人たちなんていないでしょう。
とすれば、たよりは沖縄に住む本土出身の沖縄病患者とか、たまたま来ている観光客ってことになるんだけれど、mixiなどの状況をみると、厳しいなと思う。沖縄関連のコミュニティーはゴマンとあるが、「組踊」で検索しても殆ど引っかからない。大城立裕にいたってはひとつも見つけることができませんでした。
余談ですが、沖縄に移住したいというような書き込みに対して、生活するのは厳しいよなどと経験者の人たちがアドバイスしていたりするのだけれど、それは帰るところのある人同士のやりとり。そこに住むより他にしようのない人たちも読むのだろうに、無神経過ぎないかなと心配してしまいます。

話しのついでにmixiについてもう少し。
大城立裕の「カクテル・パーティー」という小説とmixi、妙に関連していて、ちょっと不思議な感じもするのです。カクテルとmix。
「カクテル・パーティー」ではミスターミラーは自分がCIAであることを隠して友好的に団欒している。 そういう「カクテル・パーティー」に意味が無いわけではない。見せかけだとしても、平和を維持するためにはどうしても必要なシステムだと登場人物たちは言う。しかし最後に、主人公は「カクテル・パーティー」の欺瞞を糾弾するのです。

mixiの安心感や平和な感じとmixiの隠された実態や現実との乖離。mixiは、その根本において楽な相手としか交流しない、そう言うサロンだと割り切って参加するならそれもいいでしょう。しかしそれだけでは済まない側面がある。mixiの中の繋がりは、他者を排斥する欺瞞に満ちたカクテル・パーティーではないか、そう思えて仕方がないのです。

でもきっと、これは外の世界でも同じなのかもしれませんね。
僕は今、「おきなわおーでぃおぶっく」を何とか成功させるために、夜ごとカクテルパーティーを開いています。そして、相手の奥底に潜む肝心要の爆弾には、決して触れぬように、ただおいしいお酒が飲めるように苦心惨憺しているのです。
 

(再掲)《1984年1月21日のノート》

 
「鼠小僧次郎吉」。
300円着服してクビになった国鉄職員に対して、同情を抱くべきであるのか否か。たとえ実際の出来事だとしても、よほど身近な者でなければ誰も同情などしないだろう。要するに喜劇的なのである……。

「尾生の信」。
悲劇的状況に妙に動かされる。いや違う、動かされているのではないらしい。停滞させられているのだ。
尾生が待っていたもの、例えば、あのウラジミールとエストラゴンが待っていたもの。
それらに比べて僕の待っているものは、ちっとも悲劇的ではない。きっとその有様は、解雇された国鉄職員の、あての無い怠惰な職探しに近いものだろうから。
要するに喜劇である。
(1984/1/21)
 

(再掲)《1984年6月19日のノート》

 
太宰治の「男女同権」という小説。
如何にダメな男であるか、日本で何人と数えられるほどダメな男ではなかろうか、という事に就いて問題にされた詩人の代表作は、「われ、あまりに愚かしければ、詐欺師もかえって銭を与う」。
その詩人、「こぞの道徳いまいずこ」なる詩集を出版して、一ぺんで完全にダメになる。
「ダメのまた下のダメという謂わば『ほんものの』ダメ、という事になりまして」失脚した男の話。

どうだ、参ったか。笑うか。むせび泣くか。
(1984/6/19)
 

(再掲)《1984年6月25日のノート》

 
形而上の諸問題に、完全なる死生観と宇宙観をもって解決を与えたとしても、この不可解なアンニュイは無くなりそうもない。形而上学の不可能がもたらす懐疑主義的アンニュイ、そんな高尚なものではありませんて。もっと俗、俗すぎて頭が痛くなる。

昨日は一行も書見いたさなんだ。いい芝居したいんだよ、つまるところさ。
阿呆。センチなアンニュイから表現など生まれるか。要は意志の問題。
おもわずため息をして「こんなこと書きたかったんじゃないんだが」
石川淳はペンで考える。それがどうした。つまりね……、知るか、そんなこと。
「アーでもネー、コーでもネー」とは、誰かさんの口癖。

そうして僕は薄笑いを浮かべてみる。冗談を言ってみる。だが、僕の横隔膜はいつもよりちょっと上の方で硬直している。

何となく……
実はこいつが一番のくせ者で、むしろ大いなる悲劇にみまわれちまったほうが楽なのである。太宰治はそのことをよく知っていた。
(1984/6/25)
 

(再掲)《83/12/24のノート》25年前のクリスマス

 
何となくパチンコ屋に入った。「軍艦マーチ」ではなく「聖しこの夜」が流れていた。
何故だか、やけについた。出た玉を全部チョコレートに交換してみた。僕は甘いものが、それも特にチョコレートが大の苦手だというのに。
あてのないサンタクロース。大量のチョコレート、袋は重く、足取りも重く……。
(1983/12/24)
 

(再掲)《1985年8月29日の旅のノート》

 
真理の探求は人間存在そのものの要求であり、その根底には自由たらんとする人間があるとフロムは言う。僕はそれに同意するのだが、しかし僕は「自由たらんとする人間」の代わりに「永遠の生を求めて止まぬ人間」を置く。すると途端に、懐疑的なニュアンスとなる。
人は「死」から自由でいることはできない。ここに真の自由の不可能性があるのだが、そこに言及しないフロムのペテン。

しかし。

自由の論理のペテンを理由に、悠然と蟄居しているのだとしたら、それこそ自由から逃避していると罵られても仕方が無い。フロムの厳密性をとやかく言う前に、自分自身の「弱さ」を、凝視すべきである。
ただ楽しく生きていくために、やがて訪れる「死」など考えずにいたい、それが正直な感覚であることを自覚しながら、なお「死」の理論を並び立てている。この分裂は何なのだろう。いったいどちらが「ニセの自己」なのか。というより、権威主義的な論理の「弱さ」を隠す甲冑、それを現実に動かしているのは平板な感情に規定された自動機械である、という何ともお粗末な二面性、それは分裂などからは程遠い、要するに真の自分などどこにもない無力感に満たされた存在というに過ぎないのではないか。

孤独について。
しかし明日の舞台のために、いい加減に眠らねばならぬ。

人から期待されているであろうことを僕はする。彼らの期待する像から頑なに自由でありたいと思うのだが、結局僕は、彼らの期待する者になろうとする以外に術はない。何と大袈裟な物言いだろうと呆れるのだが、しかし僕は、思いやりという至極普通の美徳と、自我の喪失の境界を、全く見極めることが出来なくなってしまったのだ。何かが狂っている。
(1985/8/29)
 

寄せる波が破壊し返す波が奪い去る

 
「沖のリーフに白波が寄せる」
大城立裕が「カクテル・パーティー」の最後から二行目に、さり気なく挿入した一文。
僕もまた、神の高みからその光景を眺めているらしい。

沖縄の静かな浜に佇んで、耳を澄ませていると、遥か遠くのリーフに砕ける波音が微かに聞こえてくる。だが、寄せては返すその波は、実は激しく珊瑚を打ち砕き続け、その耳鳴りのような営みは、永久に繰り返すのだという絶望感に、僕は苛まれはじめる。
寄せる波が破壊し、返す波が奪い去っていくもの。

沖縄の激動の只中で生きてきた者たちに、僕の甘ったるい想念が拒否されていく。見知らぬ祖先が語る歴史ではない。お前には遠雷の音ように聞こえているのかもしれないが、たった今のこの時も、珊瑚は破壊され続け、足元の砂さえ削り取られているのだ。諦めては死を待つしかない。赦しては、生きる術を失う。だから、諦めてなどいない、赦してもいない、と。

間もなく執筆依頼の締め切りが迫る。旅人に、唯一度だけ寄せる甘い波。
 

(再掲)《1983年8月18日のメモ》ブレヒト

 
昨日のマルクスの論が正しいのなら、ブレヒトのいう「教育演劇」など、その効果はおぼつかない。
「今の自己と違う自己になる」のだとサルトルは言うが、所詮「なるように定められたものになる」だけのことではないのか。

ブレヒト……
「人類に先がけて戦った無名戦士の報告をすることだ。その人を熱心に見習うために。」

しかし、例えば石原吉郎はこう書いた。
「無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。」

「~への自由」を信じてスローガンを掲げる楽観。
「~からの自由」の不可能性を見つける悲観。
「無名」に対する反発は、個人の尊厳か、歴史の必然の証明か、あるいは、「自由」の拒絶なのか。

ブレヒトの存在条件……
当時の観客にあったマルクスへの同感。
しかし、マルクスは、正しく理解されていたのか。マルクスの理論に、必然はあっても自由は無い。

ブレヒトに欠けていたもの、
(自由を信じる楽観に欠けているもの)
……〈α〉

ブレヒト曰く「歴史哲学的な道草をはぶくために、云々」
気に入らない。
(1983/8/18)
 

(再掲)《1983年8月17日のメモ》マルクス

 
なるほど、マルクスに人間の生死に対する深いこだわりがあったからこそ、彼の理論は生まれたのである。
マルクスはこうも言った。
「人間は自ら解決しうる課題をしか持ちえない」
(1983/8/17)
 

(再掲)《1985年8月28日の旅のノート》

 
昨夜、滝川で大酒に溺れ、今日、紋別へ移動。体調、すこぶる悪し。自業自得。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、第一次世界大戦中の刊行。その所為なのか、自由を切実に求めるが故に、「自由の存在」について、彼は疑うことをしない。
しかし。

死ぬ自由はあっても、生まれてしまった限り、生きた事実から自由になることは出来ない。厳密には、真の自由の実現は不可能事なのであろう。

でも、だからといって、自由は形而上学の俎上で分析されるべきだなどと言いたい訳ではない。そんなことになれば、自由の存在はたちまち危うくなり、議論はそこから一歩も先へ進めないということにもなりかねない。今この時に、命を賭しても手に入れたいと思う現実的自由は、そこにはない。
フロムの扱う自由が、形而下に留まる限りはそれでよい。世俗的には、様々な自由が、到る所に転がっている。しかし、フロムの自由は、多分に理念なのである。にもかかわらず、その存在を信じて疑わない彼の、無反省で楽観的な論調が不満である。

実現できないものを理念に据えてはならぬという法はない。むしろ、実現出来ぬからこそ理念になり得るのだ。実現不可能な希望を理念に据える確信は、実現不可能であるという分析の上になされてはじめて力を持つのではないか。

もしかすると、自由から逃避しようとする者の方が、自由の不可能性という本質を、無意識に捉えているのかもしれない。蹲り怯えるそうした弱き者たちを立ち上がらせて、再び自由へと向かわせるためには、どのような自由が不可能であり、どの自由なら手に入れることができるのかを、はっきりと指し示すことが必要なのである。その時になって初めて、不可能な形而上の自由ですら、理念となりうるということを、彼らに受け入れてもらえるに違いない。

だが……。

しかしそれは、明日にしよう。体調が僕を規定する。ことここにおいて、僕に全く自由はない。詰まらぬ論理の原因が体調の悪さなどというのは、勘弁である。
(1985/8/28 紋別にて)
 

(再掲)《1994年6月15日の新たなノート》

 
「いってきます!」

「いってらっしゃい」と言った時にはもういなかった。窓の外をのぞけば、一目散に走っていくあいつが見える。
肩から半分ズレ下がって引きずりそうな黄色いカバンと、アゴ紐のおかげでかろうじて首にぶらさがっている紺色のベレー帽。
幼稚園は楽しいかと聞けば、楽しいと答える。本当かな、とちょっと気に掛かる。楽しくないと言えば、親が心配するということを、あいつはもう知っているのかもしれないと思う。

もう4歳か。

早いものだと思う。あまりにも。
(1994/6/15)
 

(再掲)《1984年1月15日のノート》

 
雪に埋もれた旅館の狭い六畳の和室で、ひとりただ読み耽る。

「ああ、汝、堤宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、いわんやまた、天地作者の方寸をや」……。
悪魔。
「右の眼は『いんへるの』の無間の暗を見」、「左の眼は『はらいそ』の光のうるわしと、常に天上をながむる」……。
「弥陀も女人も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡のたぐいにほかならぬ」……。

だが、しかし……

棺桶然とした暗い部屋でも、窓を開け放てば眼を痛める程の光、清新な冷気の向こうには箱庭の如きスキー場が眩しく見える。そこに友を探すこと不可能。遠く小さく蠢く原色の者たち、あたかも傀儡のように。
(1984/1/15)
 

破綻し、言葉を失っていく。

 
今日も、破たんしている。

整理券をインターネットからダウンロードして、なおかつ先着順にするということに、どういう意味があるのか。整理券が何枚ダウンロードされたかを管理しているならともかく、そうではないと関係者から聞いた。つまり、何枚整理券が出回っているのか、全く把握してはいないのだと。ならば単なる先着順と、どう違うのか。

しかしそれが決められたルールなら、それに従って並ぶつもりでいた。
ところが、あちらこちらから招待券を準備しているという連絡が来た。とてつもなく忙しいから、30分でも事務所に長く居られるのはとても有難い。

大隈講堂前には、たくさんの人が集まっていた。僕の席は、すでに確保されているらしい。こういう特別待遇は、なんとも申し訳ない。差別を告発する伝説の舞台、すべての観客を同等に扱う、そう発想するスタッフが、一人や二人いなかったのだろうか、などと、勝手なことを思ったりする。
案内された席は、たくさんの招待席の中にあった。できればご遠慮申し上げたかったのだが、知った方々の手前、そうもいかない。

1903年。大阪天王寺で開催された博覧会。「人類館」というパビリオンに「支那」「朝鮮」「アイヌ」「台湾生蕃」「琉球」「印度」「爪哇」「バルガリー」の人々が、生身で「展示」されることになった。
清国などからの抗議によって、「支那」「朝鮮」の「展示」は中止される。
開館後、沖縄もまた抗議を開始する。
「どこから連れてきたのかわからない娼婦を琉球人と称して、沖縄をアイヌや生蕃と同じように扱うとは何事か」

開演前、延々と主催者の挨拶があった。
なるほど、ここは劇場ではないのだと、改めて思った。そうして周りを窺うと、シンポジウムのような雰囲気がしないでもない。

差別されるものが差別する側に変わる、それがひとつの大きなテーマだが、「沖縄」が「沖縄」自身を差別するという構図までが限界である。「アイヌ」も「生蕃」も、置き去りにされている。
しかし、それを理由に、この舞台の価値を云々するつもりはない。出発点は、ここでもよい。

初演から30年以上の時を隔てて、例えば日の丸を焼き捨てる場面などは削除された。この改変の理由は何なのか。時代が変わったということか。それも確かにある、と思う。だが変わらぬことが多過ぎる。何かを恐れているのなら、断固違う。

しかし、今日の僕が破たんしているのは、そういうことではない。

今の沖縄ブームこそ、巨大な人類館なのではないか、シンポジウムで、学者はそう言い放つ。
その指摘は、沖縄の女性を妻に持つこの僕自身をも刺す。

だが、それも今日の破たんとは無関係だ。

僕の斜め前に座ったひとりの「ウチナンチュ」。その人は、3人の出演者が拍手喝采に笑顔で答えている時にいたっても、腕組みを決して崩すことはなかった。
「この芝居は、やはり3人で演じるべきものだと思わせて欲しかった」と、後で彼は語った。

ロビーに、3人の役者が並んでいる。インテリたちは、彼らのところへ殺到するような、そんなハシタナイことはしない。
「おお久し振り、今なにしてるの」などと、それぞれ別のところで、再会の挨拶などを交わしている。
3人の役者が、とても小さく見える。
ここが、現代の人類館なのではないか、そんな錯覚に襲われて、僕は身震いをする。
はたして観客は、一冊の優れた解説書を読むのとは異質の、見知らぬ何ものかに出会ったのか。

お芝居ごっこ。

やはり招待された若き演出家が饒舌に正論を述べる。
「登場人物たちは、陳列されていなければならなかったのに」
「女は娼婦なのに」
「調教師は圧倒的でなければならないのに」
彼は、今日の舞台に、何を見たのか。

見ようとしなければ見えぬものもある。確かにそれは、プロの表現者が使うことの許されぬロジックである。
しかし、僕は破たんしている。
いったい僕は何をすべきなのか、何を見続けるのか。はたして僕は、何を伝えようとしているのか。

僕は、破たんしていい、と思っている。
彼は、沖縄からの闇のような眼差しに曝された経験があるのだろうか。彼は、沖縄の何を知っているのだろうか。

「それはそうなのだが」
しかし、彼に同意することを、何かが妨げている。それは何なのか。
あのロビーでの3人の姿が、僕の脳裏から離れない。きっと、あの3人が、沖縄に生まれたからこそ抱えているであろう何か。そして僕は、言葉を失うのだ。

若き演出家が、饒舌に正論を述べている。

腕組みをして、舞台を凝視していたのと同じ眼が、僕を撃つ。沖縄云々を語る以前に、お前は、表現者ではないのか、と。

「あなたはどこのご出身ですか。なぜあなたは、沖縄に対して、自分をナイチャーと言うのですか。なぜ自分の出身地を言わないのですか」

若き大和の演出家は、それに同意する。
そう言えば、彼の出身地を、僕は知らない。

僕には故郷はないと、僕は破たんし、そして、愈々言葉を失っていく。

現代という名の人類館。
僕はそこに物見遊山でやってきたのっぺらぼうの宇宙人なのか。
いや、そうではない。ショーウィンドウに映ったおぞましい自分の顔を見てみるがよい。虚ろな眼は淀み、半開きの唇は紫に渇き、眉間の皺は友を寄せ付けず、お前の顔は、死相が漂いながらもなお未だ生臭い悪臭を放っているのだ。思考だけではなく、その顔もまた、破たんしている。

お前とは、俺である。
 

(再掲)《1983年9月24日のノート》

 
皆それぞれの友と語り
皆それぞれの恋人と時を過ごし
我は一人この典型の世界に潜む
 我が類型を信じ あらゆる典型を死せるものと見下し
 なのに君が類型を疑い 我が類型をも見失う
 今 典型にすがるより他なし
いつか 我が類型より生じたる典型、我が力の根元となれ

自己否定と自己肯定の重層性

まるでナチスの行進のようだ
(1983/9/24)
 

(再掲)《1983年8月20日のノート》

 
クラリネットの見捨てられたひとつの穴。
いや違う。
直接指で触れることのできるその唯一の穴は、見捨てられたのではなく、自ら金属の装飾を頑なに拒否しているようにみえる。それはクラリネットという極めて複雑に進化した楽器の、太古の笛の痕跡のようなのである。
(1983/8/20)
 

ある旧友への、9月の書簡

 
お久しぶりです。
こんなブログを見つけ出して、読んでくださっているなんて、思いもかけぬことで、とても恐縮しています。
相変わらず宣伝は大っきらいなのだけれど、会社にして、それなりに名のある方々と仕事をするようになって、もうわがまま言ってはいられなくなりました。それで、毎日ホームページなどをいじくって、今まで書いたことのないような、片目を瞑った文章を、一生懸命に捏造しています。そのガス抜きを、「社長とは呼ばないで」というブログでやっているのです。
あんなにインターネットが嫌いだったのに、自分でも信じられません。ガス抜きを、やっぱりブログでやっているというのだから、我ながら相当おかしくなっていると思います。

「許す」ということ、ずっと考えています。おきなわおーでぃおぶっくのサイトで僕が書いた「カクテル・パーティー」についての文章は、実はかなりそのことを意識している、でも、オフィシャルなサイトでは、あそこまでしか書けません。その不足を、僕は「社長とは呼ばないで」というブログに託しています。

「社長とは呼ばないで」は、実はブログといいながら、ほとんど計画されたひとつの連続した作品を書いているつもりなのです。mapafter5情報というブログも、ほんとは僕が書いている。「社長とは呼ばないで」が裏なら、「mapafter5情報」が表。そしてその二つを合わせた全体が「カクテルされたパーティー」、チャンプルーなのです。

許すことの結末は、まだだいぶ先のことだけれど、どうか時々、お暇な折にでも、覗きに来てください。でも、出来ることならば、前に読んだ続きから、読んでいただきたいのです。
しかし、そんなブログ、誰も読んでなんかくれませんよね。

よろしければ、感想など、お待ちしています。心から。
いずれ、また。
 

(再掲)《1984年9月13日のノート》

 
人は何故祝福しないのだろう。幸福は拡がらない。幸福とは、当事者だけのものだ。そして外部へ汚物をたれ流しながら、彼らは笑っている。《1984年9月13日のノート》

またぞろ幸福絶対量保存の法則。
〈それは「ほんとうのさいわい」ではないのだよ。〉
「カンパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「うん僕だってそうだ」カンパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
ジョバンニが言いました。

「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
宮沢賢治。
(1984/9/13)
 

(再掲)《1984年3月14日のノート》

 
60年安保を知らぬことに負目を持ち、マルクスの幻想を追い、誰かが幸福になれば、その分だけどこかで誰かが不幸になることを、何故か信じて疑わなかった。だからみんなが少しづつ不幸になればいいと思っていた。

別役実の「赤色エレジー」。

「アラカワの不幸は、バイキンみたいに、次第に周囲に広がってゆくんだ」
なんとグロテスクな闘争ではないか。「アラカワ」は首を吊って自殺するのである。

太宰治の「おさん」……
「革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません」
(1984/3/14)
            
 

「愛」と「出発」、「希望」と「自殺」

 
相も変わらず、昔の読書ノート。
古き思い出の言葉の積み木遊び。

1984年
9月11日
大江健三郎「われらの時代」
「日本でリアリスチクな論理の眼を保ちつづけているとコミュニストは絶望せざるをえません。したがってかれはリアリズムを放棄することでコミュニストの純潔を保つ。」
「愛」と「出発」は、両立不可能。

9月14日
マルキ・ド・サド「ファクスランジュ あるいは野心の罪」
「人間は希望をもてばもつだけ、自殺ができなくなるものなのだ」

三太郎が、ひと月ぶりに残した落書き。
「弁解」
 

最も清潔なふしあわせ

 
昔の読書ノートを眺めている。

1984年9月14日
別役実の「そよそよ族の叛乱」
「人間てのはねえ、そいつが同じ部屋の中にいたら、関係しないわけにはいかないんだよ」
「人の分」を食べて生きている。
「最も清潔なふしあわせ」
「インドの、そしてアフリカのそよそよ族のみなさん。みなさんは今、飢えながら夜空の星を見上げております。その清潔なふしあわせの中で餓死する事を私は許可します。そして出来れば、そうするよう……命令します。夜空の星のための幻想は、そのようにしてしか守れないのであり、私もまたそれに参加しようと思っているからです。」

2008年の暮れ。
とてつもない不景気。
会社に詰め寄る派遣社員たち。テレビに映る彼らの顔。
「清潔なふしあわせ」などというものは、所詮、美しき幻想なのか。
なのか? 多分僕は、あした朝、事務所の鍵を開け、現実の人たちの働く姿を思い浮かべれば、「それは幻想である」と断言するだろう。
一方、顔の見えぬ役員。大企業とこの会社を同じに括られてはかなわぬが、選び取る方法に大差はない。そうしなければ守れない現実がある。

四半世紀前、確かに深く思い悩み、「夜空の星のための幻想」を守ることにも同意し、餓死する生き方を選び取っても構わぬと、決して嘘ではなくそう思っていたはずだ。
しかし今となっては、餓死するしかないような「清潔」になど何の意味も無く、例えばインドでもアフリカでも構わぬが、飢えた人々が、この此岸の世界で少しでも豊かになるような、そうしたことに手助けができるような、そういう「清潔」な会社のあり方を探して右往左往している。
だが、「清潔な会社のあり方などあるわけがない。清潔な個人の生き方すらあり得ない。真の清潔とは、飢えて死ぬ生き方の、その先にしか存在しないのだ」、という夢の中の声に、僕は毎晩うなされ、呻き声をあげて寝返りを打っている。
やがて目指していることが、事業として順調にまわりはじめるような、そんな幸福な事態が訪れた時、僕は笑顔でこう語るのかもしれない。
「あなたがたのために、僕は清潔に生きてきました。」

その時僕は、現実の「清潔らしき生き方」とは所詮至極ありふれた悪を重ねる生き方でしかないのだということすら忘れて、静かで穏やかな睡眠を貪るほど幸せでいられるのだろうか。

真の清潔とは、夜空の星にしか存在しない。それでも、できるだけのことをする。ただそれだけのこと。
ここに到る極私的な道程を、僕はただ報告し続けるしかない。死の直前で見る、走馬灯のフラッシュバックのように。
 

(再掲)《1985年8月27日の旅のノートの読書メモ》

 
旅の読書メモ。

「ブレイク詩集」
いつものことだが、翻訳の詩集はきつい。

ハンスと名づけられたぬいぐるみの「息子」を持つ小此木啓吾。
「この社会のなかで、ある子どもはどうして登校拒否にならずに学校に通い続け、ある女性はフリーセックスをしていても神経症になることはないのか」
なるほどその通りだなどと、危うく騙されるところだった。まず、ハンスの物語でも書けばいいのに。

活字に反応して神経症のフリをする。僕の精神とは、いったいどのようなモノなのか。

ガンに侵された老フロイトの言葉。
「ボンヤリするくらいなら痛みのさなかでものを考える方がましだ」

知識だけで形成された虚構のアイデンティティー。ハンスの方がマシか。

大江健三郎。
「良い警官より、つまらない小説家が尊敬されたりするのはまちがっている」
良い警官とは、神経症などには決してならぬ実弟のこと。

この旅で、萱野茂氏に会う。
(1985/8/27 滝川の宿にて)
 

(再掲)《1984年11月6日のノート》

 
(大江健三郎「われらの時代」)
「人間は友情とともに孤独であることができる。孤独な自由の城を守りつづけることが友情の保持にとって最良の条件であることさえある。しかし人間は連帯する時、孤独であることはできない。かれは連帯した時、孤独と自由とを放棄する。かれはおのれの孤独の城の門を開く、そしてかれ独りの自由はうしなわれる。友情には勇気が必要でないが、連帯には絶望的な勇気が要求される」

思い出。否が応でも相手の中に自分が残ってしまうのだと、フトそう思った。そう思ったら、何故かとてもつらかった。
(1984/11/6)
 

(再掲)《1987年1月29日の頭痛日記》

 
いよいよ医者のお世話になるか。東京へ帰ったら医者に行くと、昨晩、決心した。だが、怠惰がその決心を挫かぬ用心に、医者に行くことをあいつと約束した。

今日の朝は頭痛なし。が、やがて一発ズキンと来れば、それから後はいつもと同じ。
煙草を止めても、吸ってみてもだめ。アンメルツ、アリナミン、昼寝、うたた寝、熟睡、風呂、サウナ、気晴らしの会話……、全て効果なし。東京へ戻れば医者に行く、そう自分に言い聞かせることが、今のところ一番効き目がある。

なんとなくの不安、それはきっと、漠とした《死》の恐怖が滲み出てくるのだ。もう、あの頃のように子供ではないから、恐怖がはっきりした形で現れることなどもうないが、決して解放されたわけでもない。解放されるわけもない。
(1987/1/29)
 

(再掲)新たなノートの始まり《1994年6月12日のノート》

 
4月の20日以来、毎日暇さえあれば昔のノートをパソコンで打ち続けている。仕事のある日も、帰ってくればすぐさまパソコンの前に座り込む。
昨日今日と久しぶりの休み、ここぞとばかりに朝からずっと椅子に根を生やしている。
すると母ちゃんの使い、サァノミナサイと、娘が効果の定かでない漢方薬を水といっしょに運んで来た。
「ありがとうね」
飲めば「マズイ?」と僕の顔をのぞき込む。僕はわざと顔をしかめて頷いて見せる。すると彼女は、なんとも嬉しそうな笑顔を見せる……。

頑固に変わらぬこの自分、それに対して、この子供たちは何と劇的な速度で成長し変わっていくことか、そう思ったら子供たちの事をどうしたって書いておかなければという気になった。といっても、あいも変わらぬ僕の事だから、結局は子供たちを鏡にして、そして自分の事を書くことになるのだろう。だがそれでもいい、〈書く〉とは所詮そういう事なのだ。むしろ、子供たちそのものを書き残しておけると思い込む事の方が傲慢なのだ。

そして、僕はやおらこの《新たなノート》を書き始めた。

「とうさん、おしっこ」

娘のSOSである。
「ほんのちょっと待ってね」
僕は生返事をして、区切りのいいところまでとモニターから目を離さない。

ああ、そして、振り返ればもう手遅れ、そこには水溜まりの中に立ち尽くし、恨めしそうにじっと僕を見つめている娘がいた。
なるほど、やっぱり僕は、子供のことを書くといいながら、現実の子供の危機をそっちのけにして、自分について書いていたのである。

まだ僕にも、こんな軽口を書き残すことができるのかと、妙に納得している。
(1994/6/12)
 

破たんした企み

 
腎臓がんに完治というものはないらしい。20年経っても転移する。だから僕は、もう保険には入れないらしい。
肺に転移する可能性が一番高い。次に脳、そして骨。まれに皮下。肺に転移しても、一個づつゆっくり出てくるようなら、モグラ叩きの要領でいちいち潰していけばなんとかなる。だが一度に複数ポコポコ出てくるようだと、なかなか厳しい。骨が痛くなったらすぐ来いと医者は言う。脳はちょっとねえ、などという。時々背中とか二の腕を触って、しこりがないか確かめろともいう。
思い切って聞いてみたことがある。
「もし骨とか脳とかに転移したとして、それが分かったとして、助かるものなんですかね。」
「まあ、難しいですよね」

片腎だから、残った一個の腎臓を大切にしろと言われた。だが、どうすればいいのかよく分からない。
尿路結石は命取りになる。小便が出なくなったら、すぐ救急車を呼ぶこと。2、3時間遅れると命がない。

こう書いていても、なんともつまらない。つまらないから、人間は、単なる不摂生が祟っての病気なのに、それに意味を持たせたりして、なんとかそれにしがみついて、何かを乗り越えようとするらしい。《頭痛日記》も、また然りである。

過去の体の変調は、ほぼ完璧にこの「社長とは呼ばないで」のロジックの中に組み込まれ、そしてこの長編小説は、当初の計画通りに進んでいくはずであった。だが、現在進行中の毎日が、計算されたロジックを嘲笑い反逆していくのだ。とはいうものの、今の僕を取り巻く現実が、全く僕の支配の及ばぬところにあるということではなく、例えば自分で創造した小説の主人公が、筆を進めていくうちに、勝手に予期せぬ形へと変貌していくような、そんな快感に似ている。

今日の僕の論理は、完全に破たんしている。

大城立裕氏が、沖縄タイムスに自伝的な文章を連載していた。だがそれには、氏のご家族のことは一切出てこない。なんだか今の僕には、それにノンを唱えたいといういたずら心があるのだ。

大城先生、あなたの人生にも、予期せぬたくさんの苦しみや、そしてごくごく単純な楽しみもまたあったのではないですか。それらは、大城先生の人生のロジックを、ほんのちょっとでも破たんさせたのではないですか。

僕は、このブログらしきものの姿をした企てに、あの手術から後に起こったちいさな出来事たちを、ほんとに時々だけれど、載せてみようと思う。いったい、どんな破たんが訪れ、そしてあたらしい展開が生まれるのか。
なぜだかちっとも説明がつかないのだけれど、どうしてもそうしてみたくなったのだ。

今日の僕は、完全に破たんしている。
 

(再掲)《1987年1月28日の頭痛日記》

 
頭痛は、結局のところ、目論見に反して煙草を止める前よりひどくなった。禁煙してびっくりするほど体調は良くなったが、それは頭部以外の身体に限った事で、体がすっきりした分だけ頭痛に対しては敏感なってしまったようだ。頭痛のイライラが増し、さらに煙草の禁断症状のイライラがそれに重なるのだから、たまったものじゃない。たまらず、ついに煙草を精神安定剤として服用する事にした。
正味三日の禁煙。本当の三日坊主。
しかし、おかげで〈煙草を吸い続ける〉という志は捨てずにすんだというわけだ。ざまあない、じゃない、間違えた、ざまあみろ。

「三日坊主も持続も、どっちも怠惰の結果」

うるさい!
(1987/1/28)
 

(再掲)《1983年8月13日のノート》

 
芥川龍之介
「西方の人」…

マリア「永遠に守らんとするもの」
聖霊「永遠に超えんとするもの」

僕は、守りたいのか、超えたいのか。

クリスト「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし」
芥川「我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではない」

僕は、塒などいらぬのか。

「続西方の人」…

「仏陀は成道する為に何年かを雪山の中に暮した。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食の後、忽ち古代のジャアナリストになった。」

そして僕は、真理を待っているのか、あるいは、何かのために急いでいるのか。
(1983/8/13)
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