社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1984年12月28日のノート》

 
日本は、ナチスと同盟を組んだのである。ナチスに苦しめられたヨーロッパの国々から、その日本はどのように見えているのか。
「広島、わが愛」では、被爆国日本に、被害者のイメージが重ねられていく。だから、アメリカに配慮して、フランスはカンヌへの出品をためらった。
フランス人、アラン・レネが描いた「ヒロシマ」。原題は“Hiroshima, mon amour”

アジアでは、日本は徹底的に加害者である。だがそれに異を唱える者たちが蠢く。
つまり、「加害者」と「被害者」という二重性は、単純な地理的要因で理解できるはずもなく、もっと曖昧に、加害者としての日本と、被害者としての日本が絡み合っている。

だが「広島、わが愛」は、日本での公開時、その邦題を「二十四時間の情事」に変更される。結局のところ、“Hiroshima, mon amour”において、「加害者」も「被害者」も、何の意味もないのだ。描かれていたのは、「加害」とか「被害」とかという概念を超えた「虚空」と「人間」との関係なのだ。

日本人は、なぜこの虚空を描くことができないのだろう。
「レトナ通りにて」を読んで、またそう思ったのである。
(1984/12/28)
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三太郎の偽者が現れた

 
「最初から順番に読んでもさっぱりわからないんですが。」
と突然現れたその青年は、《苦笑》と書かれた札を首からぶら下げている。
「パーツで見ると色と形がバラバラなモザイク模様も、少し離れて全体を眺めてみると、何らかの像を結ぶという事なんでしょうか。でも、まだまだ壮大なパズルのピースは足りないようですね《苦笑》」
ふふん、“さっぱりわからない”ねえ、でも、それが正しい読み方なのさ。
しかし君は勘違いしている。偉大な理解者は、作者を裏切りながら、散らばったピースを自ら組み立てるものなのだ。

「ところでさ、君は誰なの」
「三太郎です」

もし本当の三太郎なら、俺の掌に足跡を残しているはずだ。だが、こいつの身の丈はデカ過ぎる。
訝しがる俺の気持ちを察したのか、
「まともな世界の住人です」
なんとも中途半端な難解さ。

「私のような、いわゆるインフルエンサーが寄ってくる事もあるのではないかということです」
またまたちょこっと訳のわからないことを言う。インフルエンザならおととい来い。タミフルは効くのか。
「効果のほどは怪しいですが」

もし君が、三太郎の名を騙る偽者ならと、目を瞑って海を見た。
南の島の小高い丘の、こんもり繁った森の中の、一番立派な木の上に小屋を建て、海の見張り番として雇ってみるのも面白い。きっと毎年その島には、赤道直下の懐かしい国、あのポストリアから、見たことのない土産をいっぱい積んで、真っ赤な船がピチピチチャプチャプやってくるのだ……
俺は妄想をどんどんと膨らませ、しばし目の前の君を忘れてみた。《笑》

《苦笑》… 
「笑っちゃいかん」
どんなに奇想天外に見えることも、思い続けていると、結構実現するらしいということが、最近だんだんわかってきたのだ。

とは言うものの、やりたいことの全てをやり遂げるには、どうやら残された俺の人生は、十分な長さにはだいぶん足りないということを、君はわざわざ伝えに来てくれたらしい。俺が三太郎くらい若ければ、昼は黴臭い古書に読み耽り、夜は夜で、希望という広大な世界の不可能性について、過ぎる時を忘れて友と語りあっていたいのだが、もはやそんな贅沢は許されず、とっとと分かりやすさという武器を獲得しないと、誰からも相手にされなくなるということらしい。
友達などいらないと強がってはいるが、本音はさ、朝まで酒を酌み交わす新しい相手が欲しいのだ。旧友は、様々な理由で、一人ひとり去っていくものだから。

本日のネタは、三太郎という妖精の住むミクロの世界で綴った日記から拾ってきたので、並べた日付はむちゃくちゃな時系列。

でも、難解な言葉のほうが後世まで生き残るのは何故なのだろう。
「なるほど、それは考えてみる価値がありますね。」

騙されてはいけない。なんだか今日は、俺が三太郎のようだ。
妄想は、意図に反し、「難解」という世界に向けて加速していく……
 

(再掲)《1984年12月29日のノート》

 
理解させることではなく
感動させることである。
それには、「力」が必要なのである。
(1984/12/29)
 

かつて「mixi」に…

 
それほど昔ではないけれど…
昨年の9月4日。初めて「mixi」とやらに日記を書いてみた。

 「カクテル・パーティー」とは
 沖縄の作家が初めて芥川賞を取った小説の題名。

 mix チャンプル… 連想ゲームが始まる予感。

 昼間は…
 http://lince.jp/hito/
 公式の懇親会。

 夜は…
 http://lince.jp/mugon/
 深夜の書斎での酒盛り。

 で、この日記は…
 休日の「カクテル・パーティー」

9月9日の「mixi」の日記

 神楽坂へ。
 まだ公開できないこと。ミステリー。

 僕はこのmixiという隔絶された世界の日記に、
 僕の足跡をそっと記録していく。
 

(再掲)《1984年1月17日の読書ノートの残り》

 
(太宰治「十五年間」)
「新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めようと試みる。無理だよ、婆さん。所詮、合いませんて。」
「もっと気弱くなれ!偉いのはお前じゃないんだ!学問なんて、そんなものは捨てちまえ!」

「嘘をつけ。君の憂鬱は食料不足よりも、道徳の煩悶だろう。」

人類に課せられた進化。太宰のような人間を淘汰する。
だが、それは哀しいこと。とてつもなく…
(1984/1/17の読書ノート)

 

なれなれしくなく…

 
去年の6月に、初めて大城立裕氏に沖縄でお会いした。ブログというものも既に始めてはいたが、大城氏に会ったことは、一切記事にしてはいない。以来、幾度もお話する機会を頂いて、しかしそれからはその都度ブログとやらでご紹介し、ついには「立裕おじい」などとなれなれしく失礼なことも書くようになってしまった。ちなみに、「なれる」とは、「慣れる」でも「馴れる」でもなく、「狎れる」と書く。
大城先生に、2度目にお会いしたのは9月であった。その沖縄の旅から帰ってすぐ、僕は書斎に篭って、架空の一通の手紙を書いた。そして、実際にその内容を簡単にした短い文章を、幾人かの知人に送ってみたりしたのだが、しかし、ブログで公開することは控えた。その前に、見極めなければいけないことがあるような気がしたのである。
それから4ヶ月、決して見極めがついたわけではない。しかし、ここいらで、一度復元ポイントをきっちり残しておかなければ、この先、何かを責任もって言うことが、ひどく面倒になると考えた。だから今、躊躇はあるが、それを公開しようと思う。

前略。
今さっき、自宅に戻りました。
さっそく本棚から、新川明氏の「沖縄・統合と反逆」を取り出して読み直しています。 大城立裕著「光源を求めて」と対比させながら。
「沖縄・統合と反逆」には、大城さんとちょっと立場を異にする儀間進さんのことが書かれていたりして、大城さんの誕生会で、そのお二人を引き合わせてしまったわけですが、あらためて考えると、えらいことをしてしまったなあと、冷や汗が出てきます。知らないということはオソロシイ。
でも、結局のところは、お二人の会話は実に面白かった。二人の立場の違いが分かれば尚更で、思い出しては、ほくそ笑んでもいるのです。もしかすると、僕たちの無知がなければ、お二人が遭われる事は、金輪際なかったのかもしれません。

新川明氏は、大城立裕氏について、氏はその小説群の中で、魅力的な主人公を生み出したことがないと評しています。確かに認めざるを得ない部分もあるとは思う。しかしあの時代、魅力的な一個の個人を描くより、もっと描くべき「状況」があったからではないのでしょうか。そうした状況を描くためには、突出した魅力を持つ登場人物は、むしろマイナスでしょう。沖縄の状況とは、映画のヒーローをおそう危機一髪のそれとは全く違うもの、それは、ごく普通の人間に課せられた苦悩だったのですから。
そうした時代の中で、大城立裕以上に魅力的な小説を書いた人が、沖縄にどれほどいたのでしょうか。僕は大城立裕以前の沖縄の小説で、これはと思う作品に、未だ出会えてはいません。まあ、その原因の殆どは僕の不勉強であり、ましてや全網羅的に探索した経験などないわけですから、決して断定的に言えるようなことではありませんが。

そのあたりの批評の的確さはともかくとして、僕はこう思うのです。文学者が描くべきは、思想ではなく文学的世界であるべきはずなのに、それが許されなかった時代の真っ只中に、あの伝説の『琉大文学』があったのであろう、そしてもしかすると、今もそうした矛盾を、沖縄の表現者たちは背負わされているのではないのかと。

これから僕は、僕の新しい仕事を通じて、そのことを確かめ続けていこうと考えているのです。沖縄に「なれる」ことなく。

小説とは限らず、あの頃の、読むべきものをご存知なら、是非とも教えてください。なんとか手に入れて、読んでみたいと思っています。 はっきりと、あの時代を見極めるために。

ではまた、沖縄でお会いできることを楽しみにしております。草々
 

(再掲)《1987年2月2日の頭痛日記》

 
いつもの通り、朝起きて、小一時間程経つと痛み出す。ズキンというより、チクンという感じ。ここのところ、痛みは弱まっている。だが、痛んでいる時間は前よりもずっと長くなった。ほとんど休みなく痛んでいる。そんな、気がする。
だが今日は、本番が終ってしばらくすると痛みが消えた。下関から倉敷まで長い移動。日が没して、車の中で本が読めなくなった頃、再び痛み出す。
でも、それほどイライラはない。

明日が休みの所為だ。きっと。
(1987/2/2)
 

(再掲)《1984年2月21日の愛しいノート》

 
ひと月ぶりに戻った東京。午後8時。親父はまだ帰って来てはいないらしい。

歴史の中で崩れていく大きな権威もあれば、人知れない個的な人生の中で薄れていく権威もある。運命でもあり、そうあるべきであっても、やはりそれは哀しいことなのだし、その哀しさにおいては、どちらも同価値だ。フロイトやフッサールが、芥川や太宰が感じていたであろう歴史の哀しさを、「父」というシンボルを通して感じている。

老いを恐れるが故に、むしろ死があるからこそ人は歩くのだ。当然のことなのだが。
(1984/2/21)
 

(再掲)《1984年1月31日の読書ノート》

 
旅での読書

芥川龍之介から南部修太郎への書簡(「南京の基督」評に答えて)
「僕等作家が人生からOdious truthを掴んだ場合、その曝露に躊躇する気もちはあの日本の旅行家が悩んでいる心もちと同じではないか。君自身そういう心もちを感じるほど残酷な人生に対した事はないのか。君自身無数の金花たちを君の周囲に見た覚えはないのか。そうして彼等の幻を破る事が反って彼等を不幸にする苦痛を甞めた事はないのか。」

ここは長崎の街。段々家屋。街は、街そのものの心を表している。
(1984/1/31)
 

裏切られた青年が商売を始める。

 
昔の読書ノートを眺めることが多くなった。

 1984年1月17日の読書ノート
 (「津軽」太宰治)
  「大人とは裏切られた青年の姿である。」
  「つつしむべきは士族の商法、文士の政談」
 フム。

当時、「裏切られた青年」と「文士の政談」という言葉に、まだ青年であった僕は引っ掛かったということらしい。では、「士族の商法」の方はどうだったのか。

それから25年経って、「文士の商法」は慎まなくてもいいのだろうかと、年齢的にはすっかり大人になっちまった僕は考えている。士族だろうが文士だろうが、乞食になる清貧な精神と勇気がないのなら、金を稼ぐ算段をしなければ、残念ながら生きていけない。

この「未曾有」の不景気に、ついに革命の起こる日が近いと目を輝かしている青年が、どこかにいれば会って酒でも酌み交わしたいと思うのだが、親が食わしてくれるからなのだろうか、最近の若者は、みんな親に優しくてつまらない。信念で、家族を捨てるべきだというような、アナーキーな思想の持ち主は、もう今はいないのだろうか。

若い頃にマルクスに傾倒しないのも、大人になってまでマルクス主義にかぶれているのも、どちらも馬鹿だといった評論家がいたけれど、あんまりセンスのいいコメントではない。

僕は、マルクス主義に裏切られたから商売しているわけではないのだが、確かに昔ほど、変革を求めていないことに気がついて、何故かとても反省しているのだ。

気がつけば、僕には、守るべき故郷も、捨てるべき故郷もない。
 

(再掲)《1985年9月12日の旅のノート》

 
10日の、札幌の夜のこと。
今度のアイヌの芝居のことを記事にしてくれるというので、毎日新聞札幌支社の報道デスク某氏と会食。学生時代に、この劇団でアルバイトをしていたという縁。

「いいなあ、わかるなあ」、そう言っては彼は酒を注ぐ。こちらはまだ何もしゃべっていないのに、彼にはもうわかっているらしい。酔うほどに「お経」のように繰り返す。
「いいなあ、わかるなあ」。
何がいいのか、何がわかっているのか、こっちはちっとも判らない。よっぽど新聞社の仕事に不満でもあるのだろうか。男の得体の知れない思い込みが、僕らしかいない二階の座敷部屋に浮遊して、その場を支配している。

芝居に携わっているものに対しても、アイヌの問題に対しても、どことなく高みから見下ろしているようなところが彼にはある。現実を見ろというようなことを時々ブツブツほざくのだが、ならばその現実とは何かと丁重にお伺いしても、とっとと酔ってしまったその男は何も答えない。相手に伝える気があるのかないのか、内容のない言葉ばかりを連呼している。

「お前たちは雑魚だ」。
何を血迷ったのか、挙句に男は、なんの脈絡もなく、そんな事を言い出した。そして、今度はそれを連発し始めたのだ。

要は、ひどく酒癖の悪い男と酒宴をともにしてしまった不幸というだけのことなのかもしれない。しかし、それで済ましていいようなことなのだろうか。「雑魚」という言葉。終電車で泥酔したおっさんに絡まれたようなものだが、ここは終電車の車内ではない。初対面の相手に「雑魚」とは、酔態だからといって許される言葉ではないだろう。それまでは、惨めなコンプレックスでも抱えているのかなと、白けながらも同情していたのだが、ことここに到って、こういう男が新聞を通じて何かを発信しているということが、とても許せなくなってきた。妙な空気の中で飲んでいるから、こっちも妙な酔い方をしている。
「酔っ払いの戯言と我慢して聞いてやっていたが、もう限界だ。お前こそ雑魚だ。」
怒鳴ってしまって、こっちも結局雑魚に堕した。

11日の夜は浦河。三浦和義逮捕。民放全局あげての報道。まるで天下の一大事だというふうに。

アイヌのこと。
こう書いただけで気分が重い。やはり、どこかとても醒めている。毎日新聞の馬鹿記者との一件で、ますます萎えてきた。見なければいけない現実はたくさんあるに違いない。しかし、ああいう低劣な「現実」に、今後も煩わされていかなければならないのか。
解決すべき問題が、すべて現実をどう対処するかというだけなら、その現実が低劣であろうが上等であろうが関係はない。そしてそれは政治で解決すべき事柄であって、芝居の出番などそこにはない。現実を喧伝するために作られた芝居もあるのだろうが、それは芝居ではない、とういか芝居でなくても構わぬものだ。芝居が芝居であるためには、芝居でなければ伝えられないものを包含しているからだ。
ということはつまり、芝居に関わる者には、現実をいったん棚に上げて考えなければいけない課題があるはずなのである。そして役者である限り、俯瞰した場所からそれを考え始めようとしてはならない。今ある自らの地点から、出発しなければならないのである。

僕の気分がちっとも高揚していかない原因が、ここにある。

「真理」とは、全ての個に共通したものであるべきだ。言い換えれば、そうでなければ、それは「真理」ではないということだ。ならば「真理」とは何か。現実にその発見が可能であるかどうかは関係がない。現実は、棚に上げている。重要なことは「真理」とは何かと問い続けることだ。
「真理」は宗教だけのものではない。人は哲学する存在である。哲学もまた「真理」を扱う。だから宗教も哲学だが、「民衆」の前では、宗教と哲学は、全く違った相貌を現す。宗教は、「私たちの真理」が苦しむ人々を救うのだと言って君たちを誘う。だが哲学は、君を苦しめる。苦しみたくなければ、君は哲学になどには近づかぬ方がいい。安心していい。君を哲学の世界に誘うものは誰もいない。

僕は、現実を忘れ、「真理」というインターナショナルの極致を、孤独に、絶望的に考え続けてきたのだ。しかし今、「アイヌ」というなんとも厄介な何ものかが、僕の気分を重くしている。「真理」によって絶望の淵に追いやられてしまったことに較べれば、はるかに軽症なのだが、余命3年の癌よりも、今日の頭痛に苦しめられる不快感とでもいうべきか。
「民族性=ナショナリズム」復権へのベクトルを正しい方向として受け入れることなしに、「アイヌ」問題を語ることはできないだろう。つまり、僕の正しいとしてきたベクトルとは真逆なのである。この問題を、どのように僕の思考回路に組み入れるのか、今のところ、手つかずである。

僕自身の中にあるどうしても拭い落とせない「日本人」としての特性を発見することは、僕にとって認識経路の一つの過程であり、決して目的とはなり得ぬものである。しかしアイヌの人々にとって、「アイヌ」は「目的」である。たとえ「アイヌ」であることを捨ててしまいたいアイヌがいるとして、今の「アイヌ問題」の中では、それはネガティブな「アイヌ」として捉えられてしまうだろう。「アイヌ」という民族性を目指すことこそがポジティブなのだ。「文化」を語る地平では、アイヌがアイヌ以外であることを快く思わない。
一方僕にとっては、日本人であることは極めてネガティブなことであって、日本人ではないところの自分へということにしかポジティブな道を見出すことができないのである。要するに、僕は日本人であることから解放されたい、そしてそれが正しいベクトルだと考えているのである。

この本質的な違いを見ないで、和人が「アイヌ文化」を理解することによって差別や葛藤がなくなるなどと考えているとしたら、大きな間違いだ。
僕は僕なりに、哲学的に、形而上学的に「アイヌ」にアプローチする以外にない。そしてそのほうが、安易な政治と文化のごちゃ混ぜより、ずっと正当だと考えている。

だが、やはりどこか、気が進まないのである。

明日は13日の金曜日で釧路、公演後、帯広へ。そして翌14日に、いよいよ二風谷に入る。
(1985/9/12)
 

ある旧友への、去年の9月の書簡(4)

 
今度の美術館での公演ですが、CDの販売はNGです。公共事業だからなんだってさ。意味わかんない。実はギャラも無茶苦茶安い。これも公共事業だから。冗談じゃない。
そういうわけで少人数のバージョンになった。その上、会社で受けた仕事だから、僕のギャラは無しです。できることなら断りたかったが、小銭でも喉から手が出るほど欲しい。でも、あんまり安売りすると、きちんと払って呼んでくれたところに失礼になる。それもまずい。 ダンピングは、出来る限りやるべきではないのです。難しくて情けなくて辛い判断でした。

諸悪の根源は、アマチュア音楽家のボランティアかも。これって、日本にホントの文化が根ざさないひとつの要因ではないのかとまで思ってしまう。

「読み聞かせのお母さんグループ」ってやつも同じ。仲良しサークルの中だけで遊んでいるのなら構わないが、タダで読み聞かせの会なんかを、保育園とか老人ホームに訪問してやっちゃ絶対にダメなのだ。
これってなかなか理解してもらえないんだけどね。

プロとアマチュアの違いを、はっきり理解してくれている人たちばかりならば、アマチュアがいくら活動しても構わない、むしろ裾野を拡げてくれるのは有難い。でも、本物を知らない人たちがとても多いという状況でそれをやってしまうと、アマチュアのものをタダで見たり聞いたりできるのだから、わざわざお金を出してまでプロのものを見たり聞いたりする必要はないという発想がまかり通ってくる。そうなったら、僕はもう辞めるしかなくなってしまいます。

また、そのうち書きます。
 

ある旧友への、去年の9月の書簡(3)

 
本当に客観的な眼を持ったら自殺するしかない。
程度問題だけどね、きっと幸せに生きるためには、中途半端に客観的な眼を持つこと。つまり、見る必要のないことは見ないこと。

末期の眼を持つと、ちっぽけな日本人は死ぬしかなくなる。川端康成や芥川のように。
タフな西洋人に僕は憧れる。ドストエフスキーは狂うまで自殺なんかしなかった。日本人には狂気におそわれるほどまで自分を追い込む冷徹さはないのです。西洋には最後まで見つめ続けて自らの精神を破綻させてしまった芸術家がたくさんいるが、日本の芸術家は最後のところで真実を凝視することに耐えられなくなって、狂う前に自ら命を絶ってしまうのです。メデューサに見つめられることを怖れて目を閉じてしまうのです。
メデューサとは、きっと鏡に映った自分の真実の姿なのだ。

あなたは、今の僕がわき目も振らずに突っ走っているように見えるのかもしれないが、僕としては、「わき目も振らず」という状態とは正反対な状態に自分を追い込んでいるのだと思っています。

僕の、「社長とは呼ばないで」というブログらしきものは、少しばかり客観的な眼を持ち過ぎてしまったために、分裂してしまった男の遺書なのです。と言っても、人は、僕が死んでみせるまで、これが遺書だとは信じてくれないだろうけれどね。
 

(再掲)《1983年9月20日の愛しいノート》

 
福田恆存曰く
「ヨーロッパの近代小説は個性を発見し、個性を描きだし、個性的であろうとめざしてあげくのはてに個性を見失ってしまった。」
「個性的であるためには芸術家にならなければならない。」
「ヨーロッパ人にとって精神を否定するのは、やはり精神です。」

ヨーロッパ人以外にとっても、精神を否定するものは、やはりヨーロッパと同じように精神であるとしても、その精神は、未だ自己を否定するほどの苦悩を経験していない前近代的精神という事なのか。

「個人主義の限界点に到達して個性とは何かを探ろうとしている苦悶の表情には切実なものがあり、それがわれわれの心をうった。」

「心をうった」とは、なんとも妙な浪花節、要するにこれこそが東洋的、日本的不純物で、「限界点」に到達できぬ障壁ではないのか。福田恆存が、僕の中にも存在する。自戒。
(1983/9/20)
 

(再掲)《1983年9月16日の愛しいノート》

 
僕の知らない、想像の決して及ぶ事の出来ない感情が、世界には至る所にある。僕のすぐ隣にもあるに違いないのだ。しかし……。
今、言葉を交わしている者たち。笑いあい、同じ時間と近しい場所を共有しているというのに、彼らは何者か。彼らは、僕にとって、結局、何者でもない。
(1983/9/16)
 

(再掲)《1983年9月6日の愛しいノート》

 
漱石の作品から消えてゆくロマンチズム。それは何故なのか。

僕も人生に対して、ある交渉を持っているはずである。なのに、今の僕には、それが全く感じられない。
それは、何故なの、か。
(1983/9/6)
 

(再掲)《1983年7月9日の愛しいノート》

 
山積みされた課題。
解放の時代から、解放されたものによる思考の時代へ。だが「身体的知力」は「言葉」に匹敵する言語を持ち得るのか。
一週間前の自分に言ってやりたい事がたくさんある。しかし奴は聞く耳を持たず、今の俺の言葉のほとんどを理解しないだろう。
(しかし本当のところどちらが正しいのか、それが判然としないということも問題なのだが。)
“He is not what he was.”(「彼は昔の彼ならず」太宰治)

ある事柄に関する〈センス〉に就いて。それは真理認識の為の有利な条件だが、同時に重大な誤謬を犯す危険の種でもある。

書けば書くほど嘘になる。嘘を書きたくはないく。だから捻り出してまで書こうとは思わぬ。
絶望、デカダンスの誘惑、そいつを振り切って「まだ自分のものであるはずの高潔さにとどまるために」
…それこそ嘘っぱちだ。
絶望に見合った「深さ」から、未だ僕は遥か遠い所にいる。あいも変わらぬ「深奥さ」に対する憧憬。

〈統一の意志〉のためのメモ。
“本質的発見”への道程
[精神(精霊)《混沌》]→[中間項《統一への過程》]→[《統一》=《知的混沌》]
中間項におけるバランス=個性。
「あまりに多く経験し過ぎる事」の【絶望】を超えて。
(1983/7/9)

 

「埋め草」の、ほんとうの意味

 
「今」は、とてつもない速度で過去へと埋没していく。たった今さっきまで「いま」であった生々しい「むかしのこと」を、何とか解釈したいと思うのだが、次から次へと現在が押し寄せてきて、どんどんと「過古たち」に手が届かなくなっていく。ならばその代わりに、「遠いむかし」の薄くなった「過古」を手っ取り早く取り繕って、昨日やおとといぐらいの「むかし」の喪失感の埋め草にしようとしている。

それが、「埋め草」の、ほんとうの意味らしい。

そして、使える埋め草を探すために、もう一度「過去のノート」を眺めてみた。すると、あまりに稚拙で一度は不採用と決めた過去の言葉なのだが、そいつらがなんだか妙に愛(いと)おしく感じてきた。

たぶんきっと、今の自分が、昔の自分を懐かしがっているのだと思うのだ。ひたすら孤独に考え続けていたあの頃の「過古たち」。
(2009/2/13)本当の日付

 

(再掲)《1994年6月29日の新しいノート》

 
5月30日以来の登戸病院。定期検診。
結果は一週間後。沈む気分。
元気な子供たちの笑顔。こいつらを残して死ぬのは、絶対に不憫だと思う。
(1994/6/29)
 

(再掲)《1987年2月1日の頭痛日記》

 
今日もまた 酒飲めるかな
酒飲めば 頭の疼く癖を知りつつ  贋作。
(1987/2/1)
 

(再掲)《1987年2月25日の読書メモ》

 
梶井基次郎
「鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあれば、この拷問的の荒縄を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに」
夭折した天才の文章。凡人は死なず。
(1987/2/25)
 

(再掲)《1984年6月20日のノート》

 
太宰治「フォスフォレッセンス」より。

現実家が着飾った娘を凝視して言う。
「まあ綺麗。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
夢想家が焦点の合わぬ視線を遠くの雲に向けながら答える。
「あら、母さん、それは夢よ」

これだけで十分だったのに、太宰は注釈を入れた。

「夢は、れいのフロイド先生のお説にしたがえば、この現実世界からすべて暗示を受けているものなのだそうであるが、しかしそれは、母と娘は同じものだという暴論のようにも私には思われる。」

フォスフォレッセンスという架空の花の名の意味を探っても無駄である。それは太宰の罠である。ましてや「フロイド」に到っては……。
「フロイド」は架空でないから性質が悪い。
(1984/6/20)
 

(再掲)《1984年5月23日のノート》

 
梶井基次郎「冬の蠅」より
「元来一つの物に一つの色彩が固有しているというわけのものではない。だから私はそれをも欺瞞と言うのではない。しかし直射光線には偏頗があり、一つの物象の色をその周囲の色との正しい階調から破ってしまうのである。そればかりではない。全反射がある。日蔭は日表との対照で闇のようになってしまう。なんという雑多な溷濁だろう。そしてすべてそうしたことが日の当った風景を作りあげているのである。そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の偽瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。おそらく世間における幸福がそれらを条件としているように。」

つまり、幸福とは不公平で偏っていなければならないということなのであろうか。基次郎は、溢れる幸福の眩しい光から埋没した自らの不幸について語ったのだろうか。

「なんという豪奢な心細さだろう」
(1984/5/23)
 

なぬかなのかなんかなのか

 
この日記は、2月の7日に書いている。

7日は「なのか」と読む。だが、「なぬか」が正しいのか。
よく分からぬが、「なぬか」が転じて「なのか」になったというから、「なぬか」の方が「なのか」より古いらしい。

「49日(しじゅうくにち)」は「なぬか」が7つである。そのひとつ目を「初七日」という。
「初七日」の次が「49日(しじゅうくにち)」なのではない。沖縄では七日毎に、「になんか」「みなんか」…と、七回の法事(?)がある。このことは、いずれ書く。今日はそのことではない。

7日は「なぬか」なのか「なんか」なのか。駄洒落のように、いい加減な話であることに違いはないが、今日はこの話題でもない。

今日? 本当の今日は1月の8日(ようか)ではなく2月の7日である。「社長とは呼ばないで」が、ひと月遅れになりそうだから、慌てて書いているのである。 つまり、本当は2月の沖縄への旅から帰ってきて、それからこれを書いているのである。

大城立裕氏に御教授頂いた話。自作の「ノロエステ鉄道」の「三月三日」は、「さんがつみっか」ではなく、「さんがつさんにち」と読むのだと。かつての沖縄ではそうだったのだと。

沖縄の年配のインテリは、大城立裕の「立裕」を、「りつゆう」と読み、また、そう呼ぶ。しかし、大城立裕御本人は、「たつひろ」であることに拘っているように見える。

本当の今日は、娘の誕生日である。
かみさんの実家で、「いつ帰るのか」と聞かれたから、「むいかに帰る」と答えたら、「ろくにちね、ななにちは、なちる(娘の名)の誕生日やしね」と言われた。
「ああ、そうか」と言ったら笑われた。本当は、叱られたのかもしれない。

そういえば、沖縄の人は会った時すぐに、「いつ帰るのか」と聞くから、内地から来た者は歓迎されていないのかなと勘違いするという話が、10年くらい前、よくあったのだが、最近はあんまり聞かれなくなった。この類の話にも流行があるらしい。
しかし、本当は、歓迎されていると思うほうが、もしかしたら勘違いなのかもしれない。

ところで、この「社長とは呼ばないで」というブログの表題のところに、「最初の記事に行け!」と書いてあるが、それは最初の記事を読めば理解できるということではない。最初から順番に《全部》読まないと、理解できないぞという意味なのであるということを、沖縄の大切な友の一人に伝えておこう。
友の名は「三太郎」。嘘。嘘から出た誠。
そうしたら、そのうち、友達ひとりもいなくなったりして、そして本当に歓迎されなくなったりして……
「いつまでいるの」と聞かれたら、危ないサインかな?

本当のこととは、なんなのか。

春彦さん、お帰りなさい……
どこから? あるいは、どこへ?

三太郎曰く、「さっぱり、わからん」

それが正しい読み方なのである。
 

(再掲)《1985年8月30日の旅のノート》

 
紋別での公演を終えて美瑛へ。劇団の子の紹介で、かつて彼女がよく来ていたという民宿に泊まる。
若者たちの駆け込み寺のような宿といったら、彼らは怒るだろうか。彼らの思い込みが強ければ強いほど、彼らの精神も、この拠点も、とても脆弱に見えてくる。
15分かけて風呂に入りに行くことも、6畳の部屋に5人寝ることも、彼らにとっては問題ないことなのだろうが、我々は仕事で来ているのである。ひと夏ここのヘルパーとして過ごす若者たちの、妙に馴れ馴れしい応対、それが人を喰ったような失礼な態度であることに、彼らは気がつかないのだろうか。無職であることを、執拗に主張する彼ら、もしかすると、アルバイト代は払われていないのかもしれない。宿の主人は、我々が仕事の旅で来ていることを知っていたはずである。僕と同い年の人のよさそうな主人は、さすがに恐縮してはいたが、若者の無礼を咎めることまではしない。見て見ぬフリをしているのか、馴れ合いの無神経にどっぷりと浸かったサマは、客商売の大人の仕事とは到底思えない。
君たちは、何かから逃げてはいないか。君たちがまとっている鎧が、その証拠ではないのか。君たちは、この北海道に何を求めて、ひと夏過ごそうとしているのか。
(アイヌのこと、君たちは知っているのだろうか)
君たちの青春に対して、僕に、共感は一切ない。
(1985/8/30)
 

歌舞伎と言葉と俳優と。

 
歌舞伎を観た。
かのスタニスラフスキーの俳優修行、その一部だけが訳されて、スタニスラフスキーのシステムは、新劇のバイブルとなった。「俳優修行」を読んだことのない若い役者たちは、畳の上で秋刀魚(さんま)になって、這いずり回って見せた。それができなければ一人前の役者にはなれないと、彼らは思い込まされていたのか。しかし、自分が秋刀魚であると信じることができるような巫女的能力の持ち主は、女性以外にはいない。
鈴木忠志は、女性は全て根っからの名優だが、男でまともな俳優などみたことがないと言った。確かに、俳優にはゲイが多かった。今は知らぬが。

今、畳の上で秋刀魚になれる思い込みの激しい役者など、女優にもいない。どうやら、現代人は分裂病気質というものにとても寛容になった。全身全霊を賭けて秋刀魚にならなくても、秋刀魚を演じることは出来る。いや、むしろ分裂し白けた自分がいなければ、秋刀魚などになれるわけがない。
そうして、男性にも上手い役者が増えた。多分、自分の中にある何パーセントかの女性的才能を発見し、そしてそれを容認してうまく使いこなしているのに違いない。100%の女性も、100%の男性もいないのだから。

モスクワ芸術座の役者が、畳の上で秋刀魚になるような訓練をしているのかというと、全くの大間違いである。出番寸前まで、袖で馬鹿話をしている。だが一度舞台に出れば、彼らのリアリズムの演技は、見事であると聞いたことがある。それが伝統の力なのだと。

言葉が先にあり、まずはともかくその言葉を発してみること。感情は後からついてくる。感情があったからといって、演じることはできない。それが俳優修行の、訳されなかった続きである。

しかし、いったい言葉とは何なのか。「俳優修行」は俳優論・演技論であるから、言葉の根源を問う必要はない。言葉の根源を問うには、まず肉体を切り離して思考せねばならぬのだが、肉体不在では俳優論も演技論も成立しない。だが、敢えてそれを問いたいと思う僕の性癖は、どうやら昔とあまり変わってはいないようである。

つまり、アイヌを考えること、沖縄を考えることは、形而上の課題を一向解決することのできない僕にとって、やはりとても扱いにくい重荷なのであるということを、どうやら僕は言いたかったらしい。アイヌや沖縄の問題は、肉体を除外しては考えることはできない。

歌舞伎とどういう関係があるのか。新春に歌舞伎を観たくらいで、なんでこんなことを考えているのか。芸談風なことだけを語っていれば、もう少し笑って理解してもらえるだろうに。
ともかく、歌舞伎を観て、当然のことながら離れがたく肉体に支配されている自分を発見したということらしい。
 

(再掲)《1985年3月21日のノート》

 
多くの新しい演劇人たちにとって、演劇論など不要らしい。演劇論よりまえに演劇そのものがある。それはその通りだ。だが演劇よりもまえに人間がある。その人間にこだわる、人間について考える、考えればそこで哲学に出会う。そうして哲学せざるを得なくなった「誠実な」救われぬ人間は、演劇を考える時も、より哲学的に考えざるを得ない。そうなってしまったら、彼は不本意ながら演劇論を経由してでなければもはや演劇そのものにたち帰ることができない。演劇的インポテンツに悩みつつもそれしか手立てがない。その辺の事情と無関係な幸せな演劇人は、簡単に演劇論など無用だと言ってのける。既成の演劇論からの自由、それはよい。だがそれが、全ての演劇論的なものの否定を意味するとしたら、演劇はかえってその可能性の多くを失うだろう。
(1985/3/21)
 

(再掲)《1984年7月16日のノート》

 
〈電話のベルが鳴っている〉 そう思って部屋のドアを開ける。
〈空耳だ……〉 再びベットに横たわり眼を閉じる。
〈また電話のベルが鳴っている〉 狂人のように跳ね起きドアを開け放つ。
〈空耳だ……〉 そしてそっとドアを閉める。〈今朝からこれで何度めだろう〉
静寂の空間に、今もベルは鳴り続けている。
〈だがもう決してこのドアを開けることはすまい〉
あのドアの外にあるのは、理念なくしては解決不可能なアンチノミーの大群、そう思い込めば少しは楽になる。そうして眠ろう。眠ってしまおう……。
それならば、《夢》でも口ずさみましょうと、見知らぬ少年が歌う。

 かわいい君よ 眠ろうボクと
 すべてを捨てて 夢の世界で愛し合おう
 あの日のように かわいい君よ 眠ろうボクと

束の間の妄想はかえって苦痛、僕は少年の首を絞める。絶望? そんなものは無い。何も無いのだ。満たされていないのではなく、満たすべき時間も空間もない。「質料」が無いからではなく「形式」そのものが無意味なのだ。
〈アラユル コトバ ニ あんちのみー ガ アリ……〉
あのドアすら、もしかすると幻なのかもしれない。「対象」が存在しているのか否か、それも判らぬほど、僕はすっかり麻痺している。だから、という訳でもなく、眠ろう、眠ってしまおう。あのドアのように、あの電話のベルのように、きっと夢さえ苦痛だろうから、夢さえ見ずに、唯、眠ろう。それは死にも似て、眠ろう、眠ってしまおう。
(1984/7/16)
 

つぶやき

 
麻生
いい人。
側近の意見
よく聞く。
任せる。

だが
その、結果 ……

という

一年を締めくくる
報道。

酔っ払いの

つぶやき

なにしたって
どうしたって

こんな書類で済まそうとしても、仕事では誰も許してはくれない。
 

紺珠

 
森鴎外の備忘録の表題に“紺珠”というの文字が記されている。

「かんじゅ」と読む。
「開元天宝遺事」によれば、手でなでると記憶がよみがえる紺色の宝珠。730年に没した中国唐代の政治家、張説が持っていたものだという。

今の時代、紺珠など持たなくても、何10年もの歳月を積み重ねた日記が、たとえばブログのようなテキストデータにでもなっていれば、検索機能なるものを使って、すぐに当時の言葉にたどり着くことが出来る。それどころではない。インターネットは、全世界の人々の記憶を、何の労もなく、自らのモノとすることができる。

人間の寿命が延びて、3世代が生活を共に出来るようになって、それから人間は劇的に進化したという説がある。つまり、オバアの知恵を子育てに役立てることができるようになったからなのだと。残念ながら狩りに疲れたオジイは、大概は孫を見ることなく死んでいったらしいのだが、ともかく、それ以来、人間の記憶は重層的になり、祖先の知恵の上に新たな知恵を積み重ねていくことが可能になった。
やがて、人間が文字を発明し書物というものが出現する。それまでは、増え続ける知識(先祖から受け継ぐ記憶)を格納するために、ひたすら脳を肥大化させてきた人間なのだが、書物という格納倉庫を脳の外部に持った時から、人間の脳は、その異常な成長過程を止めることができた。

果たして、インターネットという巨大記録装置は、いったい人類に何をもたらすのだろう。
だが、「記憶」の全範囲は、知識の範囲を遥かに超えている。

サイドバーにあるブログ内の言葉を探す「検索」機能を使って、「社長とは呼ばないで」の記事の中にある「紺珠」という言葉を検索してみた。そうしたら、ふたつみっつの記事がピックアップされて表示された。すると、それに伴って、いくつかの記憶が、僕の脳に蘇ってきた。ノートには書かれていない情景、オマケのようだが、みずみずしい「思い出」。至極当たり前のことをあらためて認識して、なんだか僕は安心した。

そういえば、昨年は忘年会をする余裕さえなかったっけ。
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