社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1984年5月11日のノート》

 
同じ時に存在することの許されぬ〈二つの憧れ〉

ひとつ
 僕はあなたの行方を知らぬ
 あなたも僕の行く手を知らぬ
 さぞ深く僕が愛したであろうに
 そうと気づいた君なのに

ふたつ                    
 行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った。
 信子は身篭った。

「行きずりの女に」と、「雪後」

ボードレールと、梶井基次郎。

花占いをするように……

だが、基次郎は31歳で夭折し、ボードレールは46歳まで生き延びたのである。

46歳まで?
(1984/5/11)
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(再掲)《1987年2月5日の読書メモは頭痛日記》

 
(「一つの脳髄」小林秀雄)
「何だか頭の内側が痒い様な気がした。腫物が脳に出来る病気があるそうだ。自分にもそんなものが何処かに出来かかっているのではないかしら――。痛いのはいいとしても、頭の中が痒くなっては堪らないと思った。」
(1987/2/5)
 

(再掲)《1992年2月26日、17年前の1日だけのノート》

 
切抜きをしようと捨てずに取ってある古新聞が、1年分もたまってしまった。
僕がイライラして女房に当たったりすると、どういうわけか、「バスノ ジカン ダヨ」と、片言のモリが呟く。モリ(森)とは長男の名、すでに2歳。

〈親があっても子は育つ〉

「マザー・グース」によると、息子というものは、首をくくるか、おぼれるか、どこかにいなくなっちまうか、みっつにひとつしかないらしい。

7日に生まれた長女の名前は「南知」。「なちる」と読む。「太郎」と書いて「ハナコ」と読ませてもかまわないというのだから、日本とは妙な国だ。
(1992/2/26)

 

笑っているように見えますか

 
ぼくの顔、わらっているようにみえますか
それとも、ぼくの声、おこっているように聞こえますか

たまには、ほんとうのこと、いわせてください
ぼく、泣いているのです

ほんとうは、4月のついたちに、「泣いているのです」と書いているのです

だから、ぼくは、4月のついたちまでは死ぬことはありません

でも、わかっているのは、そこまでなのです

だからあしたすこしだけ
ちょうど17年前のほんとうの日記を
読んでみようとおもっています

いきていられればのはなしではありますが
(2009/4/1)

 

(再掲)《1987年2月20日のノート》

 
Aという役になりきっている自分。
そんな自分をいたって冷静に眺めているもうひとりの自分。
そんな分裂を、〈役者〉という概念で統合して安定している自分。
その一方で、役者の嘘に苛立っている自分。
その四人の自分を見つめている〈神〉のような自分。

〈もうねよう……〉
〈ねよう……〉
(1987/2/20)
 

朗読の形而上学(第二回)序章(2)

 
さて、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を考えていく前に、ちょっと役者の話をしたい。

すまけい という名優が語った言葉。
台本を貰ってセリフを読む。他人の言葉は、臓器移植をした時のように、彼の中で拒絶反応を起こす。他人様の書いた言葉なのだから、拒否反応が起こるのがあたりまえ、むしろ拒否反応が起きない方がおかしいというのだ。それを克服し、他者のセリフが肉体に定着した時、初めて舞台に立てるのだ、つまり、台本の言葉を真に自分のものにすること、それが役者の作業であると。
これは、拒絶反応を起こさない安易な役者が多すぎることへの苦言でもある。

でも、これは役者の事情であって、はたして朗読にも当てはまることなのだろうか。「朗読の形而上学」で考えたいのはここのところである。
朗読でも拒否反応は避けがたい。ただ役者ほど切実に感じることはない。だからこそ、朗読する者には、微かな拒否反応も見逃さない鋭敏なアンテナが、役者よりもずっと必要なのかもしれない。そしてその拒否反応をどう扱うのか、ここからが問題なのである。役者は乗り越えるが、はたして朗読はどうなのだろうか。

言葉は、その性質上、あくまでも「道具」であり、それ自体が目的には成り難い。文体というものがあるにしても、それは「内容にとって」という但し書きがいつでもつきまとう。
朗読は、さらにその言葉の下僕である。テキストという具体的な言葉を抜きにして、朗読を語ることは、本来はできないはずなのである。あくまでも朗読は、テキストとの関係においてのみ論じられるべきものなのだ。
だが、それを言うならば演劇も同じことではないか。演技は、戯曲の世界を具現化するための「道具」にしか過ぎず、戯曲から離れて演技の良し悪しを語ることは虚しい議論ではないのか。
しかし、多分これは間違っている。演劇で語られる言葉は、初めから語られることを想定して構築された言葉なのであり、演劇台本の中には、特定の役者を生かすためだけに書かれるものもあるくらいなのである。時に台本は、役者の下僕である。そうではないにしても、芝居の台本は、役者の言葉とならなければ、その存在価値はない。
ところが、朗読のテキストはそうではない。その多くは、最初から文章だけで完結することを前提として創造されたテキストである。だからこそ「作者の意図をはずれない」とか、「本から一歩も出ない」というような金言が、演劇より遥かに重要事として顔を出してくるのだ。
「朗読」が、表現の世界で確固たる地位を得るためには、この問題を一度徹底的に考えてみる必要がある。

従って、この「朗読の形而上学」は、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」ということを100%受け入れるところから始めなければならないのである。そしてその上で、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を、完璧に実現するとは、いったいどういうことなのかを、敢えて厳密に思考するのである。オバサマ方の井戸端会議的な感覚的論理は、決してあってはならない。
そのために、ここでは「言葉」からは具体的な要素の全てが排除され、その結果「言葉」という概念は、「質量」のない単なる「形式」として扱われることになる。

ここでひとつ押さえておかなけらばならないことがある。
「本から一歩も出ない」ような朗読のどこがおもしろいのかという議論。それに対して、「だってこんなことが…」というようなオバサマ的発言には、一切耳を閉ざすことである。これを許すと論理とはいえない感覚的な議論に落ち込み、マンマとオバサマの思う壺、これより先へは進めなくなる。だからここでは、「本から一歩も出ない」ような朗読は、全く価値がないということを、甘んじて受け入れた上で論を進めたいと思う。というより、「本から一歩も出ない」朗読に価値があるかないかを、ここで問題にする必要はないのである。

そこで、あらためて問う。「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」朗読は、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきものなのだろうか。
 

(再掲)《1985年9月16日の旅のノート》

 
さて何を書こう。書くことがたくさんあるような気がする。だが、書く気力が無い。

14日。二風谷へ入る。「アイヌの里」なのだという。
翌15日、札幌。北大にて萱野茂氏の講演を聞く。(その前の民族学の学者の話は面白かった。)
その夜、フェリーに乗り、翌朝青森着。日本海沿いに車を走らせ、途中八郎潟の男鹿半島を一周して秋田へ。宿に着いて、ひと風呂浴びて、そしてこれを書いている。

アイヌのこと、この僕自身のこと、今日は重い。だからそのことには触れずに、別のこと、徒然に書く。
さて。

天気よし、本州はやはり暖かい……
するとほら、つまらぬことしか書けない。書けば重くなりそうで、滅入る。

《神なくして、あらゆる権威なくして、個人的な幻想もなくして、それでもなお人間同士語り合うことができるのか》
それだけが今の僕の課題であるべきなのだ。そして、いつしかそんな時が来るという確信を持っていること。

《誠実であったことなど一度たりとも無かったのかもしれない、しかし誠実であろうとし続けてきたではないか》
その自信を失わぬこと。

ああ、結局自分のことを書いている。考えてみれば、それ以外に書くことなどない。
(1985/9/16)
 

1985年《旅のノート》の続きについて

 
1985年の夏の《旅のノート》を、二風谷の手前まで公開してきて、そこですっかり止まってしまっている。この先をどのように続けようか、ずっと迷っていたのである。

たった一日の二風谷の事を、僕は今でも鮮やかに思い出すことができる。しかし当時の僕は、その日の出来事を具体的に書き記しておくことができなかった。それから四半世紀を隔てて、怪しげなブログなるものでその日のことを書こうとしているわけなのだが、さてどうしよう、当時のノートをそのまま公開するのか、あるいは今も鮮やかに残る記憶を元に、改めて書き綴るほうがいいのか。

アイヌの芝居の初演は翌年の1月、そして夏には、二風谷公演を行うことになる。それまで、さらにはその翌年の87年まで、僕は延々とアイヌについて書き続けている。しかし、その殆どが詰まらぬ観念ばかりで、やはり具体的なことは至極簡単にしか書き残していない。出会った現実を、ことさらにちっぽけなこととして処理してしまおう、それによってそれまでの自分が傷つけられないようにというような、当時の僕の「あり方」が見えてくる。だが、今振り返って考えるに、やはり重要だったのは、僕が実際に経験したひとつひとつの具体的な「現実たち」であったはずなのだ。

もうそろそろ、始めなければならない。
とりあえず、無味乾燥な当時のノートを、そのまま転記してはみるが、記憶の中の現実も、できる限り、書き添えてみようと思う。

沖縄へたどり着くまでには、まだ一年半の時間が必要なのである。

 

(再掲)《1985年4月27日のノート》

 
午前中は稽古をして、それから広島へ向けて出発しました。

劣等感とか、嫉妬心とか、それらは自尊心のある人間の感情です。彼女の場合は……。
だからこいつは、きっと単なる悲しさに違いないのです。それはとてつもなく悲しいことだ、と思うのです。

浜名湖がひどく美しいのです。こんなこと、今までになかった。夕焼けです。オレンジ色の夕焼けです。ピンク色の夕焼けです。

今日は大垣に泊まります。そして男だけで飲みに出ることにします。
(1985/4/27)
 

(再掲)《1985年6月15日のノート》

 
ここのところ寒い。おかげで風邪をひいた。さほど重症ではないが喉が痛い、くしゃみが出る洟も出る。関節はだるい、朝は眠い荷物は重い。疲れる。疲れた、おもしろくない、嫌だ、いやだ、ああいやだ、もう嫌だ。文句ばっかり言うな、煙草がまずい、がたがたと何を言っているんだ、それでも男か、ひみつのアッコちゃんのお面……。
意味、不明。
(1985/6/15)
 

耕すべき土地がない

 
昨日、下町の小さなビルの、そのてっぺんにある劇場の、その支配人から聞いた話。それを書こうかと思っていたのだが、不景気な話だからやめることにした。

僕の芝居に客が入らないのは誰の所為なのか、それは自分の所為だといえば潔い。君の芝居に客が来ないのも、要するに君の責任なのだと言っても、この世界に生きるものなら、きっと甘んじてその苦言を受け入れる以外にないだろう。
だが、君に仕事が無いのは、君の所為だと言ってしまったら、傲慢の謗りを受けても仕方あるまい。

不景気の気配を感じ始めてから、僕はずっとこのことを考えてきた。
気配は、もう気配ではない。
たったひとりになって、土でも耕したいと、時々思うのだが、君たちに仕事が無いのは、君たちの所為なのだから、勝手に生きていきなさいなどと、とてもではないが言えないので、僕はひとりになることができない……

いや、そうではない。
下町の小さなビルの、そのてっぺんにある劇場の窓から、夜の街を見下ろしても、僕にあてがわれるべき土地など、どこにもないのだから。
 

(再掲)ちょうど25年前《1984年2月17日のノート》

 
きのう鹿児島での公演後、宮崎の浜の、波の高い海で泳ぐ。いや、泳いだのではない、ただ浸かってみたのだ。冬の海は寒い? とんでもない、痛いのだ。

〈いったい何のために?〉
〈この痛さがいいのだ。生きている気がする〉
〈馬鹿丸出し〉

今日、広島へ。ひらひらと散る雪……。
東京も、今日、今年三度目の雪だという。
(1984/2/17)
 

(再掲)《1985年10月23日のノート》相対性理論的展開予告

 
昨夜は1時過ぎに寝た。そして今朝6時に起きて出掛けた。声を出す仕事、これでは寝不足。声には、酒よりも煙草よりも寝不足が悪い。寝るのも、だから仕事の内なのだ。だから、という訳でもないのだが、今日昼過ぎに帰ってきて、そのまま夜まで寝て、ごそごそと起き出した。いくらなんでも寝過ぎ。

〈もはや我々の限界を規定するものは空間でも時間でもなく、速度である。そして速度から空間・時間の限界は二次的に規定される。静止と光速という二つの限界点の中間で、僕はいったい如何なる速度を自分のものとするのか……。〉

いかん。今夜、また眠れなくなる。
(1985/10/23)
 

(再掲)《1985年3月4日のノート》

 
小林秀雄の「モオツァルト」がいい。モーツァルトなど聞いたことないのに。
「読書」という、隔絶された、純粋な「別世界」。
(1985/3/4)
 

28年の時を隔てて【小金井芦州のこと】

 
今日、いわゆる朗読会なるものに出て、短編を読んだ。そのことに特段の思いがあるわけでもなく、むしろ朗読というものが何だかよく分からないから、どうも落ち着かない。失礼な話だと思いながらも、前日までろくに原稿を読むこともしなかった。どうやら他の出演者の方々は、きちんと読み込んでいらっしゃるらしいのだが、僕は朗読の正しいあり方というものがさっぱりわからないので、読み込むことに全く意味を見出せない。というより、いくら読み込んでみたところで、どちらへ向いて歩き出せばいいのか分からないのだから、読み込む作業は、ただ単に流暢に読むためという効果しかない。流暢に読むだけなら、商売柄半日あれば十分だ。それに、朗読は流暢であるほうがいいというわけでもあるまい。むしろ、読む作品と読み手の新鮮な出会いというシチュエーションを如何に作り出すか、そのほうがずっと効果がありそうな気がして、それなら流暢でないほうがよっぽどいい。

それにしても、プロとして、たった一人でお客様の前に立つということが、今まであったかなと思い出してみた。スタジオ録音や、たとえ舞台でも、司会や映画の弁士のような仕事を除外すると、あの頃を最後にして、以来そういう仕事を全くしていないことに気が付いた。

1983年4月。僕は小金井芦州の独演会の前座として、数日間上野本牧亭の昼席の高座に上がった。前座から観る客など殆どいない。畳敷きの客席には数人の常連。中央に寝そべるたった一人の他は、みな脇の壁にもたれて足を投げ出している。座敷の後ろには下足に続く板の間があって、その中央に、もう何十年も講談の高座を見続けてきた売店の名物おばちゃんが、売り場を離れて腕組みして立っていた。
気の利いた枕を語ることなど芦州が許してくれるはずもない。ひとこと「勉強させていただきます」と頭を下げて、目の前に置かれた講談本を読み始める。
「頃は元亀三年壬申年十月の十四日、甲陽の大僧正信玄、甲府において七重のならしを整え…」
三方ヶ原の物見、いわゆる修羅場である。
考えてみれば、その時だって何のために高座に上がっているのか分かっていたわけではない。

ただ役者の修行のためと劇団から金を出してもらって芦州に講談を教わりにいったのだが、何故か気に入られて三日で芦晃という立派な名前を頂いた。以来、芦州は劇団から金など取らなかった。どこへでも僕を連れて歩いたが、いつも僕の都合を優先してくれた。
稽古は昼前と決まっていた。赤羽の愛人の家の二階を使った。家の主はいつも留守だったので会ったことはないが、どこかの高校の教頭だと誰かから聞いた覚えがある。芦州の本宅は都営だか公団だかの古いアパートだった。早稲田に受かった息子に、金がないからと進学を断念させたという話も聞いた。愛人の家は立派であった。

まず、芦州が見本を語ってくれた。さあ今度はお前だと横になる。僕が語り始めると、間もなく芦州は二日酔いの酒臭い息で鼾をかき始める。僕が語り終えると、途端に目を開けて、もう一回とだけ言って、また高いびきである。

稽古が終ると、浅草へ向かった。昼飯は大概蕎麦である。一枚は野暮、だから二枚づつ頼む。卵焼きを肴に酒を飲む芦州は一枚の蕎麦さえ食べきれない。僕は昼から酒を飲まされ、蕎麦を三枚食わねばならない。
名前を貰ったといっても、着物さえまともにたためないのだから、前座など務まるわけがない。芦州の高座が終るまで、僕は浅草をうろついた。ここで待っていろと言われたスナックで、フランス座の支配人に会った。その時、よほど人がいなかったのか、うちでやらないかと誘われた。

夜は御贔屓さんとの会食に付き合わされた。御贔屓さんがタバコをくわえる瞬間を見逃さず、そのタバコに火をつけるのが僕の仕事であった。名前しか書いていない名刺をよく貰った。

そんな生活がストレスだったのか、芝居の旅先で僕は血を吐いた。そこから東京の病院に直行し、そのままひと月入院した。真っ先に見舞いに来てくれたのは芦州であった。

ある日、稽古に行ったら、渋い着物が置いてあった。
「お前にやる。今度、俺の独演会で、前座をやれ」
独演会なら、着物がたためなくても他の師匠方に迷惑掛けることなく使うことができる。それでもその日、くれた着物を使って、芦州はたたみ方を教えてくれた。

芦州が独演会で最後の演目を終える頃には、楽屋はすでに夜席の出番の早い落語家さんたちで賑やかだ。いよいよ幕が降り始めると、ひとりの落語家さんの声がした。
「おいおい、おん出しの太鼓も叩けねえのかよ」
そういって長バチを持って太鼓をたたき出した。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
僕はただ居心地悪く眺めていただけだ。芦州は、そんな情けない前座にも、ワリをくれた。

帰り際、売店のおばちゃんに呼び止められた。
「久しぶりに、いい修羅場を聞かせてもらったよ」
涙が出てきた。

それからどのくらいたったのか。あんまり昔のことなのでよく覚えてはいないのだが、芦州と若手売出し中の講談師と、三人でどこかのスナックで酒を飲んでいた。酔いが進むうちに、若い講談師が、僕に絡みだした。お前はどうするつもりなんだ。ちゃんと講談をやっていくつもりなのか。僕は、講談を仕事にするつもりはない、あくまでも役者の修行だと正直に答えた。それは、普段から芦州とも話していることだった。しかし、いつも饒舌な芦州が、その時は、ただ黙って聞いていたのだ。僕はその日、芦州の元を去ることに決めた。

その後、どこかの現場で、ある講談師の方と一緒になったことがある。
「あれからどうした、おやじさんに詫び入れたのか。行ってやんなよ。喜ぶから」
僕は曖昧な返事をした。

体を悪くして、講談協会の会長を辞したという噂を聞いて、ものすごく会いたいと思ったが、結局、一度も芦州と会うことはなかった。

今日、朗読会から戻って、僕は、書斎の押入れのダンボールの中から、28年前、芦州の独演会で使ったガリ版刷の講談本を引っ張り出した。稽古を重ねて、何度も何度も読み返した数枚の紙切れ。あの頃の思い出が鮮やかに蘇ってきて、真夜中だというのに、つい、声を出して読んでみた。

もしかしたら、若き日に教わったこの修羅場を、今日のような小さい朗読会でなら、再び語ることを、あの世の芦州も、きっと許してくれるのではないか、そう思ったのであるが、やはりそれも、失礼は話なのだろうか。

(今日の短編、読み込んでおけば違う何かが見えてきたのだろうと、いまさらながら反省もしているが、あの頃のように時間が取れればいいけれど、暇無く中途半端になるのなら、やっぱり新鮮なほうがいい。これも、お客様に対するひとつの責任の取り方なのだとも思っている。来月の朗読会も、修羅場を語るわけにはいかないのだから、「新鮮」という、奥の手でいくしかなさそうだ。)

《追伸》
ほんとは、講談では「師匠」とは言わない。「先生」と呼ぶ。それについては、またいつか書こう。でもいきなり「先生」と書いたのじゃあ、知らない人は妙な感じがするのではないか。そんな気がして、あえて「師匠」にしておいた。
 

(再掲)《1984年8月27日のノート》

 
書くよりもしゃべる方がめんどうだ。自分のきわどい内部について正確に語ろうとするには、僕はどうも疲れ過ぎている。というより、それは語るようなものではないのだ。あえて語れば汚くたれ流すことになる。語れる言葉は〈正当〉な言葉のみである。
だから、僕は〈正当〉な言葉だけを語ろうとする。といっても、その言葉の裏にも薄汚れた暗部がへばりついているのだが、しかしそれを気にしていては〈正当〉な事など何ひとつ始めることが出来ぬではないか。
「仲間たちへの誠意」、だからその言葉の裏を勘繰ってはならない。額面通り受け取っておけばよいのだ。そうでなければ出来ぬ事がたくさんある。そうしておいて、やらねばならぬ課題がたくさんある……

ところが結局課題は手付かずで、僕はもう六日間もだらしなく飲み続けている。この停滞した生暖かい空気の中から、なかなか抜け出すことができない。
〈簡単な僕の意志の問題なのに〉
そう思いつつこの妙な静寂が、萎えた僕を捕らえて離さない。
「仲間たちへの誠意」……
語った言葉が空中分解していく。
(1984/8/27)
 

(再掲)《1984年7月11日のノート》

 
「妥協」に就いて。
「何と妥協するか」ではなく、「妥協という形式」そのももの有効性に就いて。

刹那が永遠に変わる時、寂々たる黄泉の世界が現れるのだということを、踊り続けた君達は、果して知っていたのだろうか。
(1984/7/11)
 

朗読の形而上学(第一回)序章(1)

 
今、密かな朗読ブームらしい。カルチャーセンターにもちょこちょこと朗読教室なるものが現れてきた。僕の親戚のおばちゃんも、何をとっちらかったのか、「お茶」をやめて朗読教室に通おうかしらなどと言い出した。お金がかからないというのがその理由。声を出すから健康にもいい。編み物が流行ろうが、絵手紙に人気が出ようが、いっこうに関係ないが、小さな朗読会があちこちで開かれるに到って、喋ることを生業にしてきた僕としては、この朗読ブームはいったいどういうことか、ちょいと気になってきた。

だからというわけではないのだが、僕は、ある場所で、こんな問いかけをしてみた。

 日本には話芸がたくさんあります。
 落語・講談・浪曲・浄瑠璃、活動写真の弁士とか説教節やごぜ歌など。
 それらと「朗読」と、いったい何が違うのでしょうか。

この僕の問いかけに、ある人が答えてくれた。

 文章や文字を目でみることを前提として表現されたものを、声にする。 
 ここが、落語、浪曲などとは決定的に違うところ。
 だから、作者の意図するところをはずれてはいけない。

なるほど、しかし「作者の意図するところ」に触れたいならば、原作を読むのが一番、それなのに、それをわざわざ「朗読」するのは、いったいどうしてなのか。
どう考えても、作品を朗読することによって、「作者の意図するところ」に付け加わる何ものか(+α)を期待しているに違いなく、お客さんは、《「作者の意図するところ」+α》の総体を聴かされているはずなのである。

にも関わらず、「朗読は本から一歩も出てはいけないのです」と、まことしやかに語る朗読界の大御所のオバサマたちがいるらしい。そういうオバサマ方は、お客さんが「朗読会」に求めているものをいったい何だとお考えなのだろうか。

“作品を忠実に再現する(だけの)朗読の価値”について、最初のある人とは別の、あるオバサマが語ってくてた。

 知らない作品と出会いたい人のために
 自分で読むのは好きじゃない人のために
 想像力・理解力・音感が足りない人のために

僕は考えてみた。まず、「知らない作品との出会いたい」について。
わからないでもないが、これでは書籍の販促活動と区別ない。知らない作品に出会うためだけに朗読会へ足を運ぶ人がいるとは考えられない。それなら書店に行って背表紙を眺めていれば済むこと。書評、電車の中吊り、なんでもある。情報が多くて何を選べばいいのかわからないというならば、信頼できる友人にでも聞けばいい。たとえ「知らない作品に出会えてよかった」という人がいるとしても、これはあくまでも「おまけ」としか思えない。朗読会を、文学的サロンの集まりのように使われているのなら別だが、しかしそれは朗読の楽しみではなく、サロンの楽しみである。

お次の「自分で読むのは好きじゃない」、ということは、読んでくれるなら誰でもいいということなのか。「自分で読むのは好きじゃないが聞けるなら聞きたい」ということは、要するに「読みたいけれど読めない」ということだ。今はね、テキストデータと音声変換ソフトがあれば、読まずに聞くことが出来ますよとお教えしたいのだが、しかしそんなことを言おうものなら、「私たちの朗読と、視覚障害者への朗読を一緒してはいけません」なんてことになる。ということは、やっぱり作品を忠実に再現しているだけではなく、別の要素があるということでしょう。
(ちなみにある視覚障碍者のお話をご紹介したいと思う。その方は、通常、雑誌の記事などは、テキストを音声データに変換して8倍速で聞いているという。いわゆる斜め読みならぬ斜め聞き。一般の人には全く不可能な神業。そしてきちんと読みたい(?)場合は3倍速。さらに小説など、雰囲気を楽しみたい場合は2倍速で聞く。
つまり、音声の送り側が雰囲気を付け加えなくても、聞き手の頭の中で、世界は奔放に作られるということを、オバサマ方に伝えたいのだ。シンプルな朗読などというけれど、テキストから機械的に変換された音声データほどシンプルなものはない。オバサマたちは「本から一歩も出てはいけない」といいながら「視覚障害者への朗読と一緒にするな」ともおっしゃる。なにか勘違いされてはいませんか?)

さて、どうやら厄介なのが最後の「想像力・理解力・音感が足りない人のために」ということ。つまり、本来、優秀な読者ならば黙読していても沸きあがってくるものを、読書力のない方々は感じることが出来ないのだから、それを朗読によって補ってやるのだという理屈。
確かにこれならば「本から一歩も出てはいけない」という戒めを破る事もない。
(とはいえ、読書力のない方々のためだけに朗読があるというのはなんともお客様に失礼な話ではあるが。)
しかし、ならばどうして、同じものを読んでも、読む人によってまったく違うものになるのか。「人それぞれ声が違うのだから当たり前でしょう」というオバサンの御意見が聞こえてきそうではある。この「声」のことは重要なので後で触れるけれど、今ここでそれを持ち出しては今までの論理の展開が全てズレてしまうのでいったん無視させていただくとして、さらに表現力という最も重要な問題をも棚に上げて、さてそうすると、残された要素は、どうやら読み手によって作品に対する理解が違うからこそ音が違ってくるのだとしかいえないのである。(何度でもいうが、オバサマ方が、理解をそのまま表出できるだけの表現力をお持ちであるということを前提とした上での論理的な話である。)
では、そういう「個性」と、「本から一歩も出ていない」という戒律との間に、オバサマ方はどのような整合性をおとりになるおつもりなのだろうか。

どうやら、「作者の意図するところをはずれない」とか、「本から一歩も出ていない」とか「シンプルな朗読」とか、分かりやすそうで実際ちっとも分かりやすくないものを、もっともっと考えて見る必要がありそうである。

趣味で楽しんでいるオバサマたちに喧嘩を売るつもりは全くないのだが、あまりに根の浅いことを、さも分かったように語られる向きもあり、ちょっと冷や水をふりかけてみたくなったのである。他意はない。
 

(再掲)《1984年6月17日のノート》

 
出雲の国には松の木がよく似合う。
冗談ではない。
笑っちゃいけない。
伝統を馬鹿にしちゃいけない。
などと、僕はいったい誰に向かって何のために弁解しているのだろう。
(1984/6/17)
 

「オボツカグラ」は語れなかった…

 
昨年9月の、「mixi」とやらの一連の日記に書いたこと。

10日
これから新宿のかりゆしへ行く。
謝名元慶福の「海の一座」の主演女優さんと会う。
かりゆしでの思い出。
「オボツカグラ」と「ニライカナイ」のこと。
いずれ表の世界で書く。
ここにひっそり記すだけなら、何の意味も見出せない。

12日
表の世界に公開するのが正しい「行き方」だと確信をした。
言えないことなど、ない。

16日
表の世界で公開することに躊躇して、ここにそっと書いていた事を、表の世界できちんと公開する、僕は、僕のやろうとしていることを信じることにしたのだ。
僕のやろうとしていることを、僕自身が信じられないのだとしたら、いったい他の誰が信じてくれるというのか。

すると、こんなコメントがついた。
(自分を信じて、熟成させてください。待ってます)
僕はそれにこう答えた。
(信じたり疑ったりであります)
(信じることにした、なんていうのは、信じていない証拠ですかね)

そしてようやく、かりゆしの思い出を、2月の6日にM.A.P.after5に書いてみた。
しかし、言いたいことの半分も書かなかった。思わせぶりで、何が言いたいのか、ちっとも要領を得ぬ文章。
不特定多数という他者に向けて、重く微妙な話を、明るく語ることの困難さ。
 

(再掲)coffee break《1984年12月26日のノート》

 
どこの町内にも、煙草屋の一軒や二軒はあるものだ。それほど儲る商売ではないが、一年中平均して需要のある安定した商売だから、やめる人はなかなかいない。けれど何軒あってもいいというような店ではないし、それほど儲る商売でもないのだから、古い店と競合してまで新しく開店しようなどという物好きはいない。だから、たいがい町内の煙草屋は、古くから同じ場所でずっと煙草屋なのである。

そして、どこの町内の煙草屋も、たいがい店先には〈ばあさん〉が座っている。それほど儲らないのだから、〈ばあさん〉が座っているくらいが丁度よいのである。当の〈ばあさん〉も、それで結構ヒマつぶしになっているのだから、それでいいのである。
「田中さん」とか「山田さん」の家がわからなかったら、この〈ばあさん〉に聞くに限るのである。八百屋で聞いてもいいようなものだが、八百屋のお店の人は、いつも忙しそうにしている。本当に忙しいのかどうかはわからないが、八百屋や魚屋の店番にとっては、忙しそうにするのも仕事なのである。粋がいいというのも売りものなのだから。店の人がヒマそうにしていると、なんとなく商品が古そうに感じられて、買うほうは買う気がしなくなる。八百屋や魚屋の店員に、あんまり〈ばあさん〉がいないのはそのせいである。

それにだ。野菜や肉を買いたいわけではなく、ただ道を尋ねたいだけなのに、「すいません」と声を掛けたら、すかさず「へい、いらっしゃい!」などと言われると、「ちっょと道を」とは言い出しにくい。露骨にいやな顔をされる場合だってある。それではこっちだって気分が悪い。その点、煙草屋の〈ばあさん〉は一日中ヒマつぶしに店先に座っているのだから、むしろ喜んで教えてくれるのだ。道を聞くだけでは申し訳ないと思う人は、煙草くらい買ってやればよい。安いし、腐るものではないし、煙草を吸う人ならば、一箱くらいの煙草なら、ちょっとポケットが膨れてうっとうしいのを我慢すれば、決して無駄になるものではないのだから。キャベツやサンマではこうはいかない。時間にゆとりがあるならば、「田中さんのところのお孫さんは…」などという〈ばあさん〉の話を、ちょいと真顔で聞いてあげればいい。それはとっても良いことだ。その上きっと、5回くらい「ありがとうございました」と頭を下げられるに違いない。

そんなこんなで、「道を聞くなら煙草屋で」という文化コードが成立したのである。
だが悲しいかな、今や〈ばあさん〉が店番をしている典型的な煙草屋が少なくなってきた。核家族化した現代では、〈ばあさん〉の多くは一人で住んでいる。(相方である〈じいさん〉は、平均寿命の関係でもうこの世にはいない。)いくらヒマつぶしの店番とはいえ、例えば少しは息子夫婦の生活の足しになっているとか、孫に小遣いをくれてやれるとかいうような甲斐がなければ、〈ばあさん〉だってやる気が激減するというものである。
希に子供たちと一緒に暮らせる幸せな〈煙草屋のばあさん〉がいたとしても、やはりその前途には、暗雲が垂れ込めているのだ。

最近、24時間営業のコンビニエンス・ストアが増え、そこでも煙草が売られている。おかげでただでさえ利益の少ない商売がさらに儲らなくなってしまったから、〈ばあさん〉の息子とすれば、そんな商売のためにいつもそれとなく店先から家の中を覗かれたり、何となく商売の関係で家の中が雑然としていたり、そんな落ち着かない生活を我慢してまで薄利の煙草屋を続けようという気にはならないのだ。それよりも、今まで商売に割かれていたスペースを、家族のために(といっても、その中にはヒマつぶしの楽しみを奪われる哀れな〈ばあさん〉は含まれていないのだが、)もっと有意義に使いたいという気持ちになるのも分からないではない。
さらに、こうした流れを加速させるものがある。〈ばあさん〉にとっての最大の敵、それは自動販売機の普及である。こいつらは、当然のことながら道を教えることは出来ないが、こと煙草を売ることに関しては、はるかに〈ばあさん〉より秀れているのだ。ああ〈煙草屋のばあさん〉の運命や如何に!

そんなこんなの状況であるにもかかわらず、「道を聞くなら煙草屋で」という文化コードは、依然として残っているらしい。僕は今日、道を聞こうと煙草屋を探しているうちに、目的地を通り越してしまった。そのことに暫く気付かずに、約束した時間に遅刻してしまったのである。
(1984/12/26)
 

頗る貴重なスペースを避けて

 
mixiとやらで、時々見つける次の文言。
「管理人様、貴重なスペースお借りいたします。」
頗る気持ちが悪い。
宮武外骨のコミュニティーを検索してみたら、三つも出てきた。 途端に興味が失せた。

戻った部屋で、ブログらしきもの思案中。
苛々している。 だから、過激になっている。

食わしてやらねばならぬものがいる。 猫三匹は多すぎる。
猫にも命があるなんて、口が裂けても父は言わない。食えなくなれば、猫を喰ってでも生き延びてみせる。

顔を顰める子どもたちよ。
おまえたちはエスキモーの犬のことを知っているか。
イオマンテの祭りの意味を知っているか。

南の琉球犬と、北のアイヌ犬は近い種類だと聞かされた。その境遇は同じなのか、違うのか。
支配するもの、攻め来たるものがいなければ、南の国は、人も犬も、豊かな恵みに包まれ、芥子の花に囲まれて、その一生を平穏に過ごせたに違いない。
過去を後悔しても、懐かしんでも始まらない。それが人間だったのだ。
子どもたちよ。君たちは、明日の自分を、どう描こうとしているのか。

だが父は何度でも言った。お前たちが飢えれば、父は三匹の皮を剥ぐ。そういう親を嫌って家を出た。孤独を装い、父である小十郎の思い出とともに、三匹の猫のことを忘れた欺瞞。
かつて、北の洞窟でヒカリゴケが輝き、南のガマで炊く水の中では骸骨のリンが光ったのだという。
今ようやく、父に倣って何度も自問する。イオマンテの祭りの意味を、お前は本当に知っていたのか。

「mixiとやらを管理する会社の担当者様、どこの馬の骸骨なのかは存じませんが、スコブル貴重なスペースと伺って恐縮するやら笑うやら、ならばたくさんお借りするのが憚られ、だいぶ端折ってmixiの日記にしましたが、全文お読みになりたいならば、こちらのブログらしきものまでご足労ください。」
 

ブログのための使えぬ覚書

 
2月5日の、つまり昨日の表のブログのための、やらなかったことの覚書。

紅型の人には会わなかった。
琉球ガラスは素通りした。
カチャーシーは変だった。
玉泉洞には入らなかった。

行くべきカフェには行けなかった。
天下の女優とは会えなくなった。
居酒屋のママと話をするのが楽しみだった。
疲れたから、早めに眠りたかった。

要するに、表のブログの覚書だから、思い出せればそれでいいのだけれど、やらなかったことばかり並びたてるのはいかにもつまらない。

だが昨日は、やらないことばかりのつまらない声を、たくさん聞いたような気がして、こういう日もあるさ、ということを、誰かに伝えるために、たまにはやらなかったことだけを並べてみるのも、なかなかおもしろいと思ってそうしてみたのだが、もしこれが3日くらい続いたら、僕は全てを忘れて、隠居したくなるに違いない。

今日も、昨日と同じ、とてもいい天気なのです。
今日は東京に帰るのです。
シッポを巻いて帰るのですか?
いえいえ、ただの飲みすぎです。
それでちょこっと、体が弱っているのです。
 

(再掲)《1984年7月2日のノート》

 
過敏なのではなく、過剰なのである。何も慰めはしない。
ならば夏が過ぎ去るまで、じっと目を閉じていよう。余りにもありきたりな「寂しさ」なので、僕は口を閉ざそう。

そういう僕が、慰められている。
「クラムボンはわらったよ」
そして僕も〈わらっている〉。僕には少年の消化能力しかない。いや、少年の消化能力を得た、というべきか。
(1984/7/2)
 

(再掲)《1995年2月3日、14年前の節分のノート》

 
昨日の節分のこと。

手にはめたピンクのビニール手袋は食器洗いの時に使うもの、毛糸で編まれた茶色のショールを身にまとい、トイレットペーパーの芯で作った角一本と赤鬼のお面を貼りつけた紙袋、目のところに穴を開け、そいつを被れば準備完了。幼い子供たちと従兄弟ふたり、楽しい豆まきの真っ最中、そこへ向かっていざ出陣。突然の鬼の出現に、甥っ子はべそかいて近くの母親にすがりつく。ナチルはいとこの女の子の手を引っ張って、ばあちゃんの部屋へと一目散、しかし畳の隅が行き止まり、行き場が無くてへたり込み、ふたりは寄り添いあって泣き出した。強がっていた一番年上のモリだったが、ちょいとにらんでやったら情けない、豆、放っぽり出して逃げ出した。
「こんなもんでいいだろう?」
「はい、ごくろうさん」
狭い書庫の中で、子供たちに見つからぬように、かあちゃん手作りの衣装を脱ぐ。
「おいみんな、もうオニはいないぞ、だいじょうぶだぞ」と、モリのいたって真剣な声。どうやら鬼の正体が、父親であったなどとはこれっぽっちも思っちゃいないらしく、鬼の出現を、全く疑ってはいないらしい。
「ナチル、もうオニいないよ、にげちゃったよ、だからもうだいじょうぶだよ、だからもうでておいで」
頼もしい兄の言葉に、こっくり頷いて出てきたナチル、そのままトコトコとかあちゃんのところへ歩み寄り……
「かあちゃん、とうちゃんのオニ、こわかったね」

誰がペテン師?
(1995/2/3)
 

(再掲)《1994年11月13日の新しいノート》

 
休み。
それにあわせて子供たちの七五三。
赤い口紅つけてオスマシのナチルは数えの三歳、何もかわらないオッチョコチョイのモリは満五歳。近所の神社、何を祈ろう。
いまだ僕には、未来に対する発想力無し。
(1994/11/13)
 

公開する日記のペテン

 
ブログとやらの更新が間に合いません。
なんだか、すっと書けないのです。

書いちゃいけないこと。
載せちゃいけない画像。
なんだか、苦しいのです。

自らの意思で人柱になるユタ。古から伝わる伝説を、個と社会の問題として大城立裕は捉え直した。小説『花の碑』を読めば、「真珠道」に託した小説家の思いにたどり着ける。ユタの死は、実は政治というシステム対する糾弾であり、沖縄から大和へ向けた怨念でもあるのだ…
と、大見得を切ってみるのだが。

(唐突に、久高島のこと、は、いつのこと)

でも、大城立裕氏が、宮家の人々に、面と向かってそれを語るとは到底思えない。
「大城先生は、紀子さまとご歓談なさっていらっしゃいますので、少々お待ちください」
あさって聞いた、天皇の侍従のはなし。
天皇家の、帝王学のはなし。

とても、苦しいのです。
公開された日記とは、ペテンだな、と思って、だから、苦しいのです。

約束された30分という時間。
きっかりにやってきた侍従が、何か言い出そうとするのをスッと抑えて、2時間を共にしたという話。
誰にも恥をかかさない。誰にも気を使わせない。つまりは帝王学。
あさってのこと。
微笑ましい自慢話にも聞こえる。
狂った時系列。なるべく、分かりにくく。

先月のこと。
「真珠道」を絶賛したという横道さん。能の研究者の日本における第一人者。91歳にして、地元のカルチャーセンターで琉球舞踊の教室に通う。ちょっと頼めば、どんな大物の先生にでも、教えていただけるのだろうに、そんなことは決してしない。そんな生き方、僕もしたいと思うのだけれど、今の僕は、宣伝になるものならなんだって使おうとしている。

先月の紀子さんの国立劇場で、横道さんにお声を掛けた。以来、教室では、まだお会いしていない。

いやらしい自慢話。
(岡本太郎の、こと)

やっぱり、なんだかとっても苦しいのです。
 

寄せられたコメントと、その返答

 
「社長とは呼ばないで」の、【ひとつの記事】
http://uramapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-315.html

それに寄せられた、【あるメッセージ】

 「社長とは呼ばないで」という「ブログらしきもの」では
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 って……

 若き演出家の饒舌には閉口し
 人類館の舞台には、ピンとくるものがなかったわけですね
 きっと……

 被害者意識だけが強調されて
 加害者意識の欠落や
 二重三重の差別にたいする眼差しが欠けてたのでしょうか?
 単に舞台の演出や役者の質が良くなかったのでしょうか?
 取り巻く人たちが腐臭を放っていたのでしょうか?


それに対する、【僕の返答】

全てYESであり、NOでもあります。
若き演出家に、決して間違いはありません。しかし、何かが邪魔をして、僕はそれを彼のように声高に語ることができません。
舞台の質は、確かに高くなかったと言わざるを得ない。しかし、「人類館」は、それだけでは測れない。

被害者が容易に加害者にもなるという構成は、初演時から変わらぬ重要なモチーフです。
ただ、「琉球」が「アイヌ」等と「同列」に「陳列」されたことに対し、「アイヌと一緒に扱うとは何事だと抗議した沖縄」という具体的な視点を付け加えることによって、いったいどういう新たな言葉が「人類館」から生まれてきたのか、それが見たかったとも思うのです。これは、「日本」への同化という、極めてナイーブで重要な沖縄近代史の問題でもあります。
残念ながら今の「人類館」は、被害者が加害者に変貌するという「単層的な変化」をしか取り込めていません。ここに、被害者でありながら加害者でもあるという「重層的な同時性」という構造が導入された時、人間存在の普遍的な深層を包含するような課題をもあぶり出すことができるに違いありません。
その時、戯曲「人類館」は、さらに重要な作品へと進化することが可能になるだろうと思うのです。

取り巻く人たちは、みんな一生懸命でした。
腐臭を放っていたのは、きっと僕であり、その臭いに、したたか打ちのめされていたのもやはり僕だけでした。

舞台に感動した人たちもたくさんいたでしょう。
また、舞台に不満だった人もいたのではないかと想像もします。
ただ、「表現の質」にそれほどこだわった観客は、ほとんどいなかっただろうと思うのです。つまりあの日の大隈講堂は、劇場ではなく、むしろ研究室に近かったから。観客の多くは、舞台の出来不出来とは関係のないところで、「沖縄」という「テーマ」について考えていたから。
( 「表現の質」については、いずれお話したいと思います。)

そして、「人類館」を演じる役者が舞台に立っていた時の大隈講堂こそが、もしかすると現代の人類館であったのかもしれないなどという想念におそわれた者が、はたして僕の他にどのくらいいたのか、それは全く定かではありません。

「社長とは呼ばないで」をコメントできないようにしているのは、こんな正直な話をリアルタイムで公開すると、いろいろとやっかいなことになりそうだと気遣ってのことなのです。 まったくもってケツの穴が小さい。

というわけで、「社長とは呼ばないで」に対するコメントは、直接に個人的に送って頂ければ、必ず後日、ちょっとオブラートに包むことをお許し頂いた上で、公開させていただきたいと思う次第です。
少し落ち着く時を待って。
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