社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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僕は白でありたいと思っていますが…

 
最近、ナショナリズム的なことについて書くことが多くなっている。「ナショナリズム的」とは、我ながら気持ちの悪い言葉遣いだが、「ナショナリズム」という概念が、なかなか規定しがたいので致し方ない。
政治と国家と文化と、個性と個人と、それらがオリンピックのマークのように重なり絡み合って、そしてさらに、それらの全てに、それぞれ「かくありたい」と「かくあるべき」というものが、個人的に存在するものだから、すっかりお手上げなのである。

「個性」と、「かくありたい自分」のふたつについてだけ語っていても、僕の場合は出口のない迷宮に嵌まり込みそうなのに、それに「べき」とか、さらには「全体」などというものが加わってしまったら、もうどうにもならない。それがわかっていながら、そのどうにもならないものに捉えられてしまっている。

そうすると、「白黒はっきりさせろ的」な話になる。たとえば、僕は極めて白に近いのに、黒も判るなんて言おうものなら、途端に限りなく黒っぽい考えの持ち主に見えてくる。そう見られるのが嫌ならば、徹底的に白だと言い続けなければならない。そうやって、黒とは決して通じ得ない「白」という「党派」が出来上がる。そのほうが、仲間ができて、安心なのである。

明日は4月1日。嘘と「文化」にまつわる極めて軽い過去の日記を公開する。
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(再掲)《1984年6月28日のノート》

 
このまま何も無くなってしまいそう……
それは不安なのだろうか。
「だからさ、何もなかったのだよ」
なのに無責任に吐き出した言葉の数々。そいつらが、重さと体積をもってこの空間のどこかに、いまだ沈澱せずに漂っているらしい。思わず大声が出る。その余韻がまた僕を苦しめる。

要は「答える」ことではなく「始める」ことだったのだ。「自由」とは過去の自己を捨てる勇気のことだったのだ。

断片と全体。それに就いて思うことあった。表現の問題であった。考えているうちに、表現の問題ではなくなった。僕の生活の(精神生活の)一断片に、どう僕の全精神と全肉体を関係づけていくか……、ばからしいというか何というか、そういうこだわり方自体が、なにか誠意のないことのように思えて、もっと単純である「べき」だという気もして。つまり、今の僕の感情に僕の全てを賭ける、それが「誠意」なのか、そうだとしても、そこから始まる展開が結局「誠意」から遠くならざるをえなくなるだろうと……
ああ、僕の「気分」と、ずいぶんとズレてきた……

そしてその「ズレ」がまた違う思いを呼び起こす。
「誠意」の意味に就いて。
(1984/6/28)
 

成婚50周年の穿った穴

 
ご成婚50周年なのだという。しきりに特番が組まれている。

沖縄。
「ひめゆり」の「洞穴」は「聖地」である?
火炎瓶。
ヘルメットに「沖縄解放」の文字。
何があってもいいという「お言葉」。
そして、6箇所の慰霊碑を巡る…

以来、沖縄が変わったのだというプレゼン。
実はこの文章は、4月に書いているという僕のペテン。

4月に聞いた話を付け加えてみる。
学徒隊は「ひめゆり」ばかりではない。
特番で、その人のことが扱われるはずであった。
しかし。
その人は、一番はやく「あの人」に「お会いした」生き残り。
その人は、「ひめゆり」が嫌い。
その人は、「あの人」が嫌い?好き?
流された特番から、その人のことは消されていた。

何かを操作するプレゼンはペテン?
それとも、穿った僕の方がペテン?
「穿つ」という言葉は、知られざる本当のことを言うという意味。
「穿った僕」という言い方がペテン?

僕の書斎の壁は、いつしか穿った穴でいっぱいになってしまっていて、そこから三太郎が、いつもこちらを覗いて観察している。
そろそろ、引っ越すか…
 

娘がドストエフスキーを…

 
書斎に娘が訪れた。
ドストエフスキーを読みたいから本を貸して欲しいという。本棚の、ドストエフスキーが並んでいる場所を教えて、どれでも好きなものを持っていけと言ったら、「どれがお勧め?」ときた。

ここから先は、父と娘の秘密。

ドストエフスキーについて語り合えるような人間が周りにいるかと問われれば、残念ながら殆どいないとしか答えられない。たまにそんな希少な方に出会えたとして、ドストエフスキーについて語り合う夜などを共に過ごすことができれば、なかなかそれは楽しいものだが、しかしそういう場合は、どうやら相手がドストエフスキーなどというものを読む気になった人であるという、いわば無意識の連帯感のようなものが、奔放に語り合える状況を準備していてくれるのだと思う。
ならばまず語り合うべきことは、なんでドストエフスキーなどというものを読む気になったのかということなのだが、こいつは誰でもそう簡単に説明できるような話ではない。
「父に勧められたから」
たとえば、それはそうかもしれないが、父がいくら勧めたって、それに従う子どもなんか滅多にいないわけで、父親が100個勧めて、そのうち99個を無視しておいて、たったひとつ「ドストエフスキーを読んでみたらいい」という勧めだけに従ったからといって、「父に勧められたから」じゃあ納得などできるわけがない。ドストエフスキーを読む気になった理由は、きっともっと前にある、説明しがたい、秘密にしておきたい「何か」なのだ。

ドストエフスキーを読んで何を思うか、それはドストエフスキーを読み始める前に、6~7割方は決まってしまっているのではないかということ。凡人は、あらかじめ考えていた範囲でしか感じることができないのである。

それは芝居でも音楽でも同じこと。貴重な時間を費やして、わざわざ電車賃を払って劇場やホールまで足を運んでいただく、いかにそこまで持っていくか、その持っていきかたが、実は鑑賞後の評価の6~7割を左右するのだ。
たくさん切符を売るという仕事だけではなく、評価の6~7割を、事前に確定してしまうために、プロデューサーと営業は奔走している……

というようなところへこの話をもっていってしまったら、途端に興味が失せた。

娘は、「前期短編集」という文庫本を持っていった。全部読む気なら、書かれた順番に読んでいくのもありではないかという親父のアドバイスに従ったらしい。はたして娘は、「カラマーゾフの兄弟」くらいまで、たどりつくのかどうか、娘の6~7割がわからないので、今のところは何ともいえない……
 

(再掲)《1985年1月22日のノート》

 
キルケゴールを読んでいると、彼の言葉を援用してそこらに転がっている気に入らぬ事どもをあれこれと色々批判してみたくなる。だがキルケゴールの根本にある「厳格な態度」に従えば、物事を安易に批判することは許されない。
ならばいたって厳密に、芥川の自殺における「ぼんやりとした不安」のキルケゴール的分析だとか、ポーやドストエフスキーの「あまのじゃく」を自由と涜神の関係において述べるなんていうのはどうだろう。いや、やはりそれはそれでキルケゴールの言うところの「真剣さ」を欠いている。

ともかく、「新たな閉鎖性」を生み出すことになるようなキルケゴールの利用の仕方は控えること。
まずは僕自身の思考を、《閉鎖性》というキーワードで批判してみる……。
なんのことはない。僕は結局キルケゴールを使って全く実のない詭弁を弄しているだけ、それこそ「厳格」でもなければちっとも「真剣」でもない……。
どこまでも「閉ざされた」一人よがりの世界。
(1985/1/22)
 

(再掲)《1985年2月6日のノート》

 
カイヨワの提示する遊びのカテゴリー。
だが、それらを現実に取り込もうとすると、途端におかしくなる。つまるところ、遊びであったものが遊びでなくなってしまうのだ。遊びを越えた遊び、冷静な狂気、言葉では簡単なのだが、要するに、所詮遊びは遊びであるから遊びなのであって、「遊びのカテゴリー」なるものを利用して遊びの分析などを真面目に始めると、遊びは遊びであることをやめてしまうということらしい。
遊びを越えればそれはもう遊びではない。冷静な狂気とは、どうしたって矛盾だ。カイヨワの真意は、無言の内にそれを警告することだったのではないかなどとも思えてきたが、いやいや、それこそいい加減に過ぎると反省する。
やはり正確さが必要なのである。カイヨワの定義を定立としての厳格な弁証法。その時、遊びはどのようにその名前を変えるのか。
(1985/2/6)
 

(再掲)《1983年7月14日のノート》

 
「作品はあるがままに額面どおり受けとるべきで、デカルト流の機械的論理の適用はあきらめた方がよい。その直接的な映像は合理的裏付けなしに、映像自体が、十分語るのである。」
(ミシェル・コルヴァン)
「まぎれもない象徴は、むろん形象される思想の形態に対する、そのものずばりの精神の執着から生じる。それは断じて解釈ではないのだ。また解釈されることも断じてありえない。」
(マルセル・レイモン)

岩淵達治氏は不条理演劇の作家たちについて「存在の不条理を、条理や論理的思考を意識的に放棄することによって表現する」という。
意識的に放棄しようとする主体は、はたして論理なのか、あるいは分裂以前の存在なのか。
「意識的に放棄する」ことと「無意識のうちに放棄している」ことの違いは何なのか。 演劇は、結局のところ「言葉」の呪縛から逃れられないということの表現なのか。

あるいはまた、音楽家や画家の意識は、言語から解放されているのだろうか。

《統一の意思のために》
ある対象に対して、あるいはある状況に対して、概念であるはずの「美」や「愛」を、実体あるものとして感じるためには「知的能力」が必要である。《統一の意思》の論理に照らしていえば、「美」及び「愛」を感知する「知的能力」が、他の「知的能力」によって妨げられない(否定されない)ことが、「美」「愛」の顕在化の条件である。結局のところ、「美」や「愛」だからといって特権を与えられているわけではなく、各々の「知的能力」の相対性に影響されるという一般的な法則に支配されているということである。 《統一の意思》の論理でいえば、「その場に応じた価値観」を敢えて比較の俎上に乗せて、さらに高い知的レベルの形成を目指す。つまり相対的でしかない「知性」を、知性の総体=絶対的知性に構築することが可能なのだという理念を、原初的欲求群もまた信じているのである。
しかし、現実的な問題点として、具体的場面においては、「知性(欲求)」の対立は、「折り合い」をつけられればそれでいいというような対処療法的な解決を期待される課題として立ち現れてくるために、結果、「知性・感情・欲求」の構成要素の一部が抑圧され、無意識の領域へ隠されてしまうことであった。本来、理念としては、「知性・感情・欲求」は分析細分化され、そして全ての要素は再構築されることを期待されていたはずなのである。
その解決は、抑圧された要素を、何度でも再認識し、様々な対立を作り出し、そして再構築作業を無限に繰り返すことで、限りなく「絶対的知性」へ志向する以外に方途はない。確かにそれはひとつの絶望の認識ではあるが、中間者としての人間という現実を受け入れれば、理念として機能するのである。
理念として、最終的にたどり着くであろう状態こそ、あらゆる身体器官、さらに「第一物理」における「知的混沌」である。
「美」および「愛」は、だが特別である。
「美」および「愛」は、「知的混沌」への道程における個人的限界(あるいはその類似状況)の昇華的表象なのである。
但し、「美」や「愛」に関係する対立は、往々にして「欲求」対「理性」(無意識であれば「リビドー」対「超自我」)という単純な形で現れるであろうということである。
その時、「欲求(リビドー)」を純粋に(無条件)に、あらゆる対立から解放することによって、言い換えれば「統一の意思」による盲目的全面的「人格」の付与によって、「第一物理」の「知的混沌」という最終的状況が啓示されうる場合があるのだ。まさに「不条理」である。
ただ、いつでも我々は、次のことを認識していなければならない。
「啓示」は、たとえ「知的混沌」の鏡であったとしても、常にその一要素でしかないということ。また、無条件的な解放を前提にしているために、対立を内包せず、また表現もされていないということである。これらは、極めて「モラル」の問題でもある。つまり、理性の抑圧である。
(1983/7/14)
 

《1984年3月21日のノート》で弁解する

 
二日にいっぺんくらいは日記を書くと宣言してはみたのだが……
25年前の、ちょうどこの日のノートで弁解する。

《1984年3月21日の簡単なノート》
ああ、春は革命家を駄目にする。
(1984/3/21)


仕事はしている。
だが、革命は、このブログらしきものでしか出来ないらしい。
最近ますます分裂していることを意識し始めた。
夜、僕は書斎で、バラバラになったものを繋げるための、魔法の連結器を探し続けている。だから、日記も、ブログらしきものも、いっこうに書くことが出来ずにいる。
 

そうか《1995年3月17日》ということは…

 
《1995年3月17日のノート》
昨日で手術からちょうど一年。今日、区切りのCT検査
(1995/3/17)

…ということは、昨日でちょうど15年だったということか。
1995年は、殆どノートに何も書いていない。
この日の前は…

《1995年3月3日のノート》
雛祭り。登戸病院へ。
(1995/3/3)

後は…

《1995年7月7日のノート》
七夕祭り。登戸病院へ。
(1995/7/7)

5月5日の子どもの日には、何も書いていないのだ。
 

久高島のこと、そして

 
琉球新報に岡本太郎のことを書いたのは誰ですか。
決してボクではありません。
ボクには、とても書けません。

何故って、ボクには分からないことが多すぎるのです。

12年に一度だけ開かれるイザイホーの祭りの、神の島の久高島へ、小さなポンポン船に乗って渡ったのは、もう30年近く前のことです。
島に降り立ったのはふたりだけ、ボクと、ボクが連れてきた沖縄の女性。彼女は沖縄で生まれ、ずっと沖縄に住んでいたのに、久高島のことは何も知りませんでした。
一銭マチヤー、共同便所、基地で働く母親が買ってくるハンバーガーの大きさ、味噌とカツオの削り節にお湯をかけるだけの味噌汁、ヤカンに堆積していく白い結晶、そんなことはよく聞いていたのですが、首里王朝がどうだとか、ニライカナイがなんだとか、そんな話は、むしろボクが教えていたのです。
数日前、斎場御嶽(セーファーウタキ)の三庫理(サングーイ)から久高島を眺めて、そして渡ってみようと決めたのでした。

ボクは、学校で演劇を学んでいたので、日舞なんかも踊ったことがあるのですが、もともと器用な方で、何をやってもすぐにカッコになってしまうものだから、日舞の先生から、なかなかいい形に決まるじゃないかなんて、褒められたりもしたのです。
しかし、天才岡本太郎に言わせれば、のべつまくなしに決まりまくっている日舞のいやらしさ、それに較べて絶えず流れる琉球舞踊は、悠久の美しさを持っている、ということになるらしい。

ボクは、国立劇場で大道具の仕事なんかもしていました。
国立劇場は貸し小屋です。毎日ほとんど日舞の公演、ずいぶんたくさんの踊りを見ましたが、日舞について素養のない僕は、一度もいいと思ったことはありませんでした。

琉球舞踊というものを初めて生で見たのは、那覇の沖縄料理の店。ボクの席は最も上座、隣には、一緒に久高島に行った女性が座っていました。貸切の大広間、彼女の両親兄弟や、その他十数人の親戚が、踊りに興じながら島酒を酌み交わしていました。
そのとき観た踊りがどんなものだったのか、ボクはよく憶えていません。ただ、最後にみんなでカチャーシーを踊ったのですが、ちっともうまく踊れなかったことだけは鮮明に記憶しています。

どうやら器用であることは、沖縄では通用しないらしいということを、この時ちゃんと気づいていれば、ボクは今よりもう少しまともな人間になれていたのかもしれないなどと、今になって思うのです。
器用貧乏な人間は、器用貧乏であることに気づかぬ限り、きっと大成などしないでしょう。

生涯一度だけ、日舞に感動したことがあります。琉球新報に岡本太郎のことを書いたのはボクの相棒らしいのですが、その師匠が、小さな町の小さな公民館で踊った踊り。

若い頃は天才舞踊家と呼ばれていました。寺山修司の天井桟敷に、役者として出演もするような異色の存在でした。しかし花柳の伝統とは相容れず、やがて中央を去り、地方都市で、踊りが好きな普通のオバサンたちに教えるようになりました。
ある時、ボクは頼まれて、生徒さんたちの発表会に、照明を手伝いに行ったのです。発表会のトリは先生の踊りでした。古典を一曲踊った後、続けて流れてきたのは演歌でした。先生は、お堅い流派の踊り手なら間違いなく蔑むであろう大衆演劇の歌謡ショーで踊られるような踊りを披露したのです。ボクは調光室から見ていたのですが、その踊りが始まるや否や、鬼気迫るその姿に、鳥肌が立ったのです。ボクは咄嗟に、そばにいた小屋の人に、お金の都合で借りることが出来なかったピンスポットを、今すぐ貸して欲しいと頼んだのです。
その方も、踊りに何かを感じていらっしゃったのかもしれません。快くボクの申し出を受け入れてくださいました。ボクは伝説の天才舞踊家が踊るその姿にピンを当てながら、涙が流れて仕方がなかったのです。

「お客さんが喜んでくれるのなら、どんな踊りだって踊らなきゃ。久しぶりのピンスポットに、気合がはいっちゃったよ」
違いますよ先生。ボクがピンを当てたのは、先生の踊りが始まって、ちょっとの間があってからのことなのですから。
その日、ピンスポットを使用した加算料金は、小屋から請求されることはありませんでした。

久高島には、男性が立ち入ることが許されない神聖な場所があります。現在は、きちんと立て看板があるらしいのですが、ボクが行った30年近く前には、何の看板もありませんでした。港で、島の男の方を見かけたので、そのことを聞いてみたのですが、その人は、昔はそんなこともあったが、というようなことをおっしゃいました。今はいいのですかというボクの問いに、その人は曖昧に笑っただけでした。

岡本太郎の、あの事件があったのは、それよりもっとずっと前のことです。

島を巡る道と海岸の間には杜があって、そこに一歩立ち入ると、今までの暑さが嘘のようにひんやりとしました。一瞬間で薄暗がりに慣れたボクの目に入ってきたのは、とてもこの世のものだとは思えない光景でした。今まで見たことのない白い蝶が三羽、スローモーションのようにヒラヒラと舞っていました。タタミ一畳もあるような蜘蛛の巣の真ん中で、ボクの掌くらいの大きさの蜘蛛が、風もないのに揺れていました。あちらこちらに、拳ほどの大きさのヤドカリたちが、音も無く歩いていました。

今のボクは、その時の罰を受けているのでしょうか。それとも、一緒にいた沖縄の無垢な女性に免じて、許されているのでしょうか。

ボクには分からないことが多すぎるのです。

守るべきもの。壊し乗り越えるべきもの。因習なのか伝統なのか。
いったい、はっきりと分けられるようなものなのでしょうか。

ただ、こんなふうに思うのです。たとえたくさんの人々に悲しみを与えることになるとしても、神から選ばれた極少ない天真爛漫な天才だけに許された変革というものが、確かに存在するのではないかということを。そうであるからこそ、人間は、ここではないところへと変わっていけるものではないのかと。

しかし、いまだかつて、ボクはそんな許された人間に出会ったことがないのです。というよりも、どういう人間が選ばれ許される人間なのかが分からないのです。

そして、もしかすると、こうなのかもしれないと思っているのです。
待っているたったひとりの人のために、たとえたくさんの人々を裏切ることになるとしても、何かをしなければならないと決心して、地獄へ堕ちることも覚悟した時、初めて神から許される門が開かれるのではないか。たとえその門が、未だ単なる可能性へ繋がる門でしかなく、その先には、数限りない「験し」が待っているのだとしても。

とはいえ、やっぱりボクには、分からないことが多すぎるのです。
 

左右を良く確認して首を吊る

 
昨日、会社のブログに、歌舞伎町にある奄美料理の店でのことを、ほんの少しだけ、奥歯にものを挟みながら書いてみた。
なにも右とか左とかにカテゴライズしなければ話ができないというわけではない。しかしカテゴリなどどうでもいいというわけでもなく、どうでもよくないからこそ、分裂し苦悩する人々がいるのである。

日の丸を焼き捨てた知花昌一氏の御自分の机の引き出しの中には、日の丸がきちんと大切に畳まれて入っているという話を聞いたことがある。
死んだ義父のことは、そのうち書かなければならないと思っているので、ここでは至極簡単に触れるだけにするが、日本よりも中国の方が好きだといっていた義父だが、島酒に酔えば歌う歌は島唄ではなく軍歌であったし、東京の結婚式にも、決して喜んで来たという様子は見せなかったが、行きたいところはありますかと聞けば、皇居を訪れたいというので、そこで僕は案内したのだ。だが僕も皇居は初めてで、こんな機会でもなければ、皇居など一度も訪れることなく僕は人生を終えたかも知れぬ。
義父は、皇居の玉砂利を、とても感慨深げに踏みしめていた。

沖縄と天皇は、遠くて近い。
あの日、天皇に火炎瓶を投げつけたのは、左翼学生ではあったが、ヤマトの人間ではない。

僕の書斎の本棚には、30年近く昔、札幌北大近くの馴染みの古書店で、大枚7500円で手に入れたガリ版刷りの小冊子、大江健三郎の「政治少年死す」がある。「セブンティーン」の続編。正式なルートでは、今、読むことができない代物である。
「セブンティーン」で左翼学生であった主人公は、右翼団体の構成員へと極端な転身をする。やがて性犯罪を犯し投獄された彼は、監獄のなかで天皇陛下万歳と叫びながら首を吊って死んでいくのだが、その死体は、精液の匂いがしていたという。

カテゴリで物事をわけるのはよくないといいながら、知らずにどちらかの側に立っている。あるいは、繰り返して言うのだが、カテゴリを無視するばかりに、分裂するあり様が見えない。

天皇にゆかりのある沖縄の人たちの、歌舞伎町の集まりに、「極めて左寄り」というレッテルを貼られた学校の校長がやってくる違和感。
違和感?きっとそう感じるのは、この僕自身が、左だとか右だとか、典型的なカテゴリに物事を当てはめてしまうというありがちな思考に、知らず知らずにはまり込んでいる証拠なのだ。

この厄介なことを書くために、ずいぶんと滞ってしまった僕の日記らしきもの。
これからは二日おきくらいの日付で書こう。
でないと、死ぬに死ねない。首も括れない。
 

(再掲)《1984年9月3日のノート》

 
「べき」ということが殆ど通用しない集団、それはひどく淫らだ。
現代は、ある種の盲目のみが、「セクス」を「嫌悪の観念」から解放して、古代ヴィーナスの美を復権させることができるのだ。
ある種の盲目のみが。
(1984/9/3)
 

(再掲)《1985年9月17日の旅のノート》

 
今日から秋田に入った。

「義務」という意識を、強迫的に持つことによって、辛うじて行為を選び取っている……、そんな印象を、目の前に放り出すように書いてみると、なんとも中身が抜けてしまって、不誠実だという気がする。おかしなことだ。誰に読ませるつもりもないのに、自己完結した行為なのに、何に対して不誠実だと感じるのか。だいたいが書かねばならぬなどと思うこと自体がおかしいのだ。
「強迫的」などと、心理を分析するようなことをするから、空っぽになってしまうのだ。心理学的分析を一切回避して、ひたすら論理的に考えるべき事柄がある。問題は、どうやって論理をエゴイズムから解放させるかである。まずはできるだけ大きな全体を準備して俯瞰する。そして今語ろうとしている論理にアクセントがあるかどうかを確認することだ。論理的に考えるべきテーマであると主張するだけのアクセントがあるかどうか、それ以上に強いアクセントを持った課題が、俯瞰した全体の中に存在しないかどうかを確認することが重要なのだ。

アイヌのことは明日。
(1985/9/17)

 

死に到る方便

 
アイヌについて、「記憶の中の現実も、できる限り、書き添えてみようと思う」と、そう宣言してから、もう20日も経ってしまった。
だが、それがどうしたというのか。いったい、こんなややこしい独り言を読んでいる人などいるわけないのだから、宣言を守ろうが破ろうが、どうということもないだろう。

ただ書くことによってのみ、なんとか自分を支えていた時期があった。狂うかも知れぬという恐怖に、書かなければ死を選ぶしかないと、思い込んでいたことがあった。そこから逃れるためにのみ書き続け、そしてどうにか現実の手前まで這い出してきていたのである。しかし、というか、だからというべきか、あの頃、「アイヌ」は未だ方便であった。そんな失礼な話は無い。

今、再び書かねばならぬ事態になって気づいている。現実は、未だ僕にとって、やはり何ものかのための方便なのではないか。「生」は、何か永遠なるものへ到る道程の、単なる方便にしか過ぎないのではないか、と。

「生」に対して、なんとも失礼な話である。
 

(再掲)《1984年6月13日の簡単なノート》

 
課題―「腕力について」
(1984/6/13)
 

(再掲)《1984年7月9日のノート》

 
「NとZとは温順しい、心の濃やかな親友同志だったが、連れだって人中へ出ると、すぐもうお互いに毒口を利きはじめる。……きまりが悪いのである。」

違うだろう。きまり悪いから毒口を利くのではない。実は、それが彼らの本音なのだ。二人きりではしゃべれないことを、人中で放り出すよう吐き出す微妙な綾もあるのだ。チェーホフは何もわかっちゃいない。
そう思ったら、チェーホフの達観したような減らず口に、いちいち腹がたってきた。

「イヴァンは恋愛哲学を並べることはできたが、恋愛はできなかった。」
「彼女は明らかに夫を愛していたのではなくて、もっと高尚で立派な、存在しない誰かしら他の人を愛していて、この愛を夫に注いだのである。」

チェーホフは、いったいどこからネタを拾ってきているのだろうか。

「愛。それは、昔は大きかった何かの器官が退化した遺物か、それとも将来何か大きな器官に発達すべきものの細胞か、そのどっちかである。現在のところそれは、満足な働きをせず、ひどく期待はずれな結果をしか与えない」

なるほど、ならばチェーホフの辿った道に、その結果でも探してみるか。

「男が独身を守ったり女が老嬢で通したりするのは、互いに相手に何の興味も起こさないからだ。肉体的な興味すら。」

……それを反省たのだろうか、チェーホフは「四十五歳の女と関係して、やがて怪談を書きだした」とか。

「女への恋が冷める。恋から開放された感情。やすらかな気分。のびのびと安らかな想念。」しかし「男と交際のない女はだんだん色褪せる。女と交際のない男はだんだん馬鹿になる。」

そのかわり「人間は愚かであればあるほど、その言うことが馬にわかる」らしい。その結果、チェーホフの言うことは馬にもわかるようになった……?

すべて『チェーホフの手帖』…
(1984/7/9)
 

(再掲)《1984年6月12日のノート》

 
ポーも、ランボーも、ボードレールも、それからゲーテも、みんな若い時に恋の詩をうたった。
もちろんバイロンだってそうなのだが、しかしバイロンの恋の詩には、他の詩人たちの詩にはあるような、高揚した苦悩といったものがない。そのかわり、静かなる悲観のようなものがある。
だからバイロンの恋の詩は、時々暖かく、そして嬉しいのである。

そしてバイロンは、その晩年まで恋の詩を書き続けたのである。
(1984/6/12)
 

(再掲)《1985年7月22日の簡単なノート》

 
二日も続けて飲むと、胃が痛むようになった。
(1985/7/22)
 

(再掲)《1987年10月15日と17日の読書メモ》

 
10月15日
ノーマン・メイラーの「マクドウガル小路の守護神」がよかったらしい。らしいというのは、どこがどういうふうにいいのか忘れてしまったのだ。ただ、メモに「いい」とだけ書いてあった。
その日思ったことは、その日のうちに書いておかないとダメなのだと、今日、いまさらのようにあらためて思った。

10月17日
ようやくつながり始めているのに、時間が無い。
小林秀雄の「ネヴァ河」について……
「違う」とだけメモして。
書きたいのだが時間が無い。一週間の旅で北へ。すると、また「違う」理由を忘れ、そしてきっと、途切れてしまう。
(1987/10)
 

啓蟄に顔を出した虫たち

 
啓蟄である。
二十四節気(立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒)の1つ、春分の手前、ちなみに春分の次が清明。沖縄では「しーみー」としてとても大切な節目だが、大和でそれを知っている者は殆どいない。

日本中啓蟄だが、北国の虫も、同じ頃に目覚めるのだろうか。
定額給付金とやらが日本で一番早く配られた津軽のちいさな村からのテレビ中継。まずは仏壇に供えて、文字通り拝むように有難がっているお年寄り。これで現政権の支持率が上がったりして、さあ総選挙だなんてことになるのだろうか。乞食根性を利用した政治といえば、お年寄りに失礼かもしれぬが、しかし、やはり日本とはこの程度の国なのだと、なんとも絶望的な気分になって、口汚い言葉を吐き出してみたくもなる。くれるというなら貰うしかないのだが、それに義理だてて一票を投じるのが日本の律儀な美徳だというようなはなしには虫唾が走る。

きっともう誰もが忘れていたであろう川崎の投げ捨て事件、無期懲役の判決が出たというニュース。
例えばである。再婚した夫婦がいたとして、3人の子どものうち、上2人の女の子は母親の連れ子、末の男の子が父親の連れ子で、姉たちと弟はとても仲が良かった。父親は、息子以上に娘たちに愛情を注いだ。血が繋がっていないからこそ、そうすべきなのだというような、ナイーブな優しさを持っていた。そんな父親がリストラされて、虫も殺せぬような性格、優しすぎるが故に鬱病を患い、やがて許されぬ犯罪を犯す。もちろん、擁護するつもりはない。その罪に対する量刑がどうだこうだというつもりもない。ただその息子が、「心配させてごめん」と友達にメールを送ったきり、血の繋がりを失った家族の元を離れて、以来行方を友達に知らせることもなく、たったひとり孤独にどこかで生きている。そんな僕の息子と同い年の少年がいるとしたら、僕はこみあげる涙を押さえきれないであろう。君に罪はないのだから、どうか幸せであってくれと願うだろう。

メリルリンチの役員報酬が33億円というのは、どう考えたって高過ぎる。これほどわかり易い話は、そうあるものじゃない。どうしても腹の虫がおさまらない。

啓蟄の「蟄」は、虫や蛇の冬ごもりのこと。つまり、啓蟄には、蛇もまたその顔を出し、弱き虫たちを食うのである。
 

昨日の株価

 
昨日、日経平均が7,100円を切った。
株を持っているわけでもなく、もちろん上場しているわけもないが、こんな小さな会社の社長でも、毎日の株価の動向で景気を測っている。

仕事が減っていることも、CDが売れないことも、お客の入りの悪いことも、みんなこの不景気の所為にして、だから自分には責任がないのだと自らの立場を守る。景気が回復すれば全てが好転すると、能天気にも確信し、せっせと赤字の種まきに精を出す、そしてここが一番重要なことなのだが、歩くためにどうしても必要な希望をもそれに託して、書き上げた将来の青写真を示しながら、ほら、このとおり、と笑ってみせる。
しかし、蒔いた種から芽が出たのかどうか、ましてや花咲く光景などいまだいっこうに思い描けないというのが、ほんとうのところなのだが。

この状態で長い間耐えられるとは考えられない。はやいところ未曾有の不景気が終わってくれなければ困るのだ。
しかし、もしも会社がお釈迦になる前に景気が回復したとして、それでもなお事業の状態が変わらなければどういうことになるのだろう。そうなれば責任の所在は自ずと明らかである。

もしかすると、景気など回復しないまま潰れてしまったほうが、自分の無能を思い知らされることもなく、責任を果たせなかった罪悪感に苛まれることもなく、時代の運に恵まれなかったことを茶飲み話の種にして、残された人生をつつましく生きていけばいいのだから、そのほうがよっぽど幸せなのかもしれないのである。

いずれにしても行くところまで行くしかないのであって、しかしながらよくよく考えてみると、つつましく生きていくなどというお気楽な選択ができるとは、やっぱり到底思えない。滝壷は、すぐそこに迫っている。
 

ジュネを装う三太郎(昨日のノートを受けて)

 
このまえ三太郎さんがいらっしゃったのはいつだったかしら。あなた、おぼえていらっしゃる? いったいどうしているのかしらねえ。
え?だから、三太郎さんのことですよ。もう、また、なま返事。あなた、あたしの言うこと聞いていらっしゃいますの。いつもそうなんだから。

あら、珍しい、いったい何を読んでいらっしゃるの。ちょっと見せて、いいじゃないの、ちょっとだけ。
へえ、懐かしい、「泥棒日記」。おかしなこと。なんでまた今頃ジュネの小説なんかを引っ張り出してきたのかしら。やだわ、またあの頃を懐かしがっていらっしゃるわけね。もういい加減になさったらよろしいのに。あたしのような、一度お天道様から免罪符を与えられてしまった男娼には、あなたの期待する異形のものの力なんて、もうどこにも残ってなんかいませんからね。そんなつまらなそうな顔なさらないでください。あなたにとってはつまらないことなのかもしれないけれど、あたしはそれで幸せなの。この上ない幸せ。一握りの天才の勝手な思い込みで、つらい役回りを一生背負わされて、若い頃はさ、それがとっても価値のあることみたいに勘違いをして、母親に会えなくなってしまったことも、ほんとうに愛する人を諦めなければいけないことも、天才たちの作品で埋め合わせることができるのだと信じていたのだけれど、今となっては、なんだか夢のよう。

ちっちゃな世界になっちゃったなんて、ついてもしかたないため息なんか、もう決してつかないでください、お願いですから。あなたが見ていた大きな世界は、万華鏡のいたずら、合わせ鏡の幻だったのです、きっと。
だってあなた、考えてみてください。サルトルもコクトーも、ジャン・ジュネが一生牢獄の中で暮らすことを強いられて、その代償で得られる異形のものの神秘な力なんか、ちっとも望んでなどいなかったということを。あの人たちが求めたのは、ジュネが解放されることだけ。ジュネが抱えていたような悲しみを、幻ではないこの現実という世界から、永久に消し去ることこそが、天才たちの希みだったのではないのかしら。

お願いです。どうか嘆かないでください。あなたの子どもたちのために、人間の未来を信じてみようよ。全ての人が幸せに生きている世界を、単純に夢見てみようよ。

あなたの目からとめどなくあふれ出てくる涙を、わたしは限りなく愛しく思います。その全てを掬い取ってみたい。

あなた、ありがとう。たくさん喧嘩もしたけどさ、わたしはあなたに守られて、嬉しかった。でも、きっと、もう大丈夫です。私を憎んでいた年老いた母親から、戻ってくるようにという葉書が届きました。
そんな目で、どうかあたしを見ないでください。

ああ、あなたは気づいてしまったのね、あたしと、三太郎の関係を……

へっへ! ちっ…
お前のそのどす黒い胸に、真っ赤な一本のバラを突き刺してやろうか!たった独りのこの部屋で、自殺という名の完全犯罪。
 

(再掲)《1985年2月18日のノート》【お天道様と友達のオカマvs.つかこうへい】

 
1983年、ゲイの劇作家ジョン・グラインズ「トーチ・ソング三部作」が成功をおさめる。
「もはや、ゲイ芸術家を特別保護しなくとも、良い芸術は求められる時代になった」
それからもう2年。

「差別撤廃」とか、「人間の開放」とか、「既成の古めかしい悪しき道徳観のナンセンス」とか、そういういたって健康的で自信たっぷりな明るいスローガンと、それを支える「時代の感性」。
「こいつはいいことだ」というようなの声が、あちこちから、何故かぼんやりと聞こえてくる。

僕はというと、「意見なし」、ということにしておこう。

おてんとさまの下に出てきたオカマに、敢然と喧嘩を吹っかけたあのつかこうへい氏は、こうした状況の変化に就いて、果たして何とのたまうのであろうか。
(1985/2/18)
 

(再掲)《1984年6月24日の簡単なノート》

 
ごめんなさい
という
後悔の
言葉。
(1984/6/24)
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