社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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朗読の形而上学(第三回)序章(3)

 
演技と同じように、朗読もまた、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきなのか。テキストの文章を自らの肉体に定着させなければならないものなのか。

朗読における「書かれた他人の文章」と「それを読む主体」との間に横たわる断層は、「戯曲」と「役者」のそれとは全く異質なものである。
演劇の場合、他人が書いた台詞を自分の言葉にしようとする時にまず拒否反応が起こるのであるが、だとすれば、朗読の拒否反応に演劇のような必然性はない。朗読が、単に文章を「読む」ことである限り、他人の言葉を自分の肉体に取り込んでまで別の人格に「なる」という必要はないからである。
つまり、拒否反応を乗り越えてテキストの文章を自らの肉体に定着させる朗読というものが存在していようがいまいが、朗読の形而上学においては関心のない問題である。朗読の本質は、ここにはない。

しかし、「拒否反応を乗り越えてテキストを自分の言葉にして語る朗読」というものについて、この序章において考察しておくのは、それなりに意味のあることのように思われる。

拒否反応を乗り越えることはそう簡単な作業でない。しかし、朗読を趣味とするオバサマたちは、その困難をどれほど理解しておられるのだろうか。気持ちよさそうに朗読するオバサマを見るにつけ、そう思うのである。
台詞が自分の言葉となっていない役者の演技など見たくはない。逆に、オバサマたちには申し訳ないのだが、演者が自ら読んで声に出した言葉が、自分の肉体から出たものだと能天気に信じている朗読など、もっと聞きたくない。そうした朗読は往々にして陳腐である。

そうなる原因のひとつは、自分の能力では消化しきれないテキストなのに、それでも自らの血管に取り込むことができると思う甘い考えにある。五合枡に一升の酒を注ぐことは不可能である。許容量が足りないのに、無理に詰め込もうとすれば、テキストを矮小化する以外にない。朗読が陳腐となる原因の多くはそれである。

作家の言葉が自分の血に流れ込んできて気持ちよく語れたと思ったら、それは勘違いではないかと、まず疑ってみた方がよい。作家が偉大であれば、その拒絶反応は激しく、一生一作品と格闘しても、自分の血となることはまずないと断言する。どうやら朗読する演者の多くは、都合よく作家の血を薄めてしまったことに気づかないらしい。
勘違いした朗読を聞かされて、テキストの世界から断絶させられてしまった観客は、たまったものではない。こうした朗読の氾濫は、本来朗読に関心を持ってくれるはずの、原典を重視する観客を、朗読が行われる会場から遠ざけることになるだろう。それは不幸である。

さらに別の例を挙げてみる。
僕は、宮沢賢治のテキストを題材にして音楽家と共演している。宮沢賢治を原文のまま読む。しかし我々は、宮沢賢治のテキストは自分たちの世界を表出するための単なる素材でしかないと宣言している。この作品で表現したいものは「宮澤賢治」ではなく、我々が創造した新たな世界なのだ。つまり、「本から一歩も出ない」という形而上学的朗読の戒律を初めから破っている。それはもう「朗読」とは違うものであるし、そして我々の公演に訪れる観客も、「朗読」を聞きに来るわけではない。我々の表現は、朗読の形而上的考察の対象から逸脱している。この場合のテキストと演者の関係を、ここでは敢えて恣意的であるとする。

要するに、我々は「宮沢賢治」から開放されているのである。そのことによって、逆説的に聞こえるかもしれないが、演者がテキストを自らの言葉にして語ることも可能となる。
我々が伝えようとしているものは宮沢賢治ではない。語られる言葉は賢治の創作した言葉であるが、我々にとって、それが賢治の声である必要は無い。我々は賢治のテキストを借りて、自らの声を伝えているのである。たとえ原作者賢治が、悲しみを伝えるために紡ぎだした言葉だとしても、我々はその言葉に最大限の喜びを被せて叫んでもかまわないのである。
そのようにして創作された我々の表現が、はたして「陳腐」から逃れられているのかどうかの判断は観客に委ねるしかないし、また、具体的事例の美学的批評は形而上学の範疇ではない。ただ、我々の表現は、宮沢賢治との関係で判断されるものではなく、ただその独自性において批判されるべきものであるということが、論理的な解である。
(ただ、これもあくまで「恣意的」な選択である。このことについては、後に述べることにしよう。)

しかし、朗読はそうではない。朗読が朗読である限り、常に原典との関係において批評される宿命を背負っているのだ。BGMや気の利いた映像などによっていくら補足してみても、朗読そのものの出来不出来に影響を与えるものではない。
確かに、どれほど朗読が陳腐であっても、テキストそのものの存在が朗読の技術を越えて余りあるほどに強かったり、流される音楽が極めて優れていたりすることによって、高い価値を有する朗読的作品もあるだろう。しかし、当然ながらそれは朗読そのものとは無関係である。そこを切り分けて考察することが、「形而上学」たる所以である。

さらに。
演劇の世界にリーディングという表現形態がある。本来、暗記して語られるべき戯曲の台詞を、台本を持って読むのである。結果、演者は朗読とかなり近しい作業をすることになるのだが、しかしリーディングは、朗読とは似て非なるものである。 なぜなら、リーディングで読むのは、もともと役者がしゃべることを目的にして書かれた台詞であって、自分自身の言葉に消化して読むか否かは、できるかどうかの可能性の問題ではなく、どれだけ演劇的な完成に近づけるかという演出方針に全てかかっている。従ってここでの演者とテキストの関係も、やはり「恣意的」な事例となる。

さて、「テキストを自分の言葉にする」という演劇における基本的な作業が、朗読ではかなり困難らしいのはいったい何故なのか。その理由は、原典との関係性において説明がつくように思われる。演劇の場合、原典(つまり戯曲)は、最終的には観客の目から消え去らなければならないものである。台詞を自分の言葉にしていない俳優がいると、そこから戯曲が透けて見えてくる。それは演劇的には瑕(きず)でしかない。ここに、「テキストを自分の言葉にする朗読」の困難さの鍵がある。朗読は、演劇とは逆に、原典のテキストが見えるべきものなのだから、テキストを自分の言葉にすることで原典を消してしまってはならないのだ。テキストを自分の言葉にして唯一許されるのは、作者の言葉と演者の言葉がピッタリと重なる場合のみであるが、その実現は限りなく不可能に近い。

テキストと演者との断層は、演劇の場合は同一になろうとする過程において強烈な拒否反応として現われ、それはやがて克服されなければならない。しかし朗読における断層は、今まで述べてきたように、同一になることのないテキスト(作者)と自分(読み手)との人格的差異である。同一になる必要が無ければ、強烈な拒否反応などは起こることはない。しかしこの差異は、微妙な違和感として消えることはない。
演じることにおいて、拒絶反応はその出発点であった。しかし、朗読において、この違和感は、出発点ではなくひとつの到達点なのである。

そろそろ「序章」を切り上げよう。
本編では、元来声に出して読まれることを想定せずに創作されたテキストを、音だけで如何に観客に伝えるのか、その方法論について考えてみようと思っている。
まずは日本語における書き言葉と話し言葉の差異について。

しかし、その日本の常識を覆す天才バカボンのパパ。書き言葉で話すバカボンパパ。
「パパは何者なのだ?」
「それでいいのだ」

朗読の形而上学の本編へ続く。

 

(再掲)《1996年2月10日のノート》

 
「金もなければ死にたくもなし」とゲーテは言った。

子供も3歳になると、いろいろとタダではなくなる。だから、ナチルには今しばらく2歳でいてもらわなければならない。そうしなければ、娘を連れて出かけることができない。そんな家庭の経済状況を、2歳の子どもに話したってどうなるものでもない。
忸怩たる思い。
しかし、それは娘とは無関係なこと。娘に責任はないのだから、地獄行きは俺だけだなどとと、大そうで勝手な逃げ道を拵えて自らに言い聞かせた。
父親は、かつて清貧をヨシとしていたのだが、今やすっかり誇りを失ってしまった情けない男である。

それほど、我が家の経済は逼迫している。

ところが、あっちこっちで「こちらのお子さんはおいくつですか」などとでっかい声で聞くキップ売りたちのおかげで、なちるは自分の歳が分からなくなってしまったらしい。娘は、3歳になれたことをとても喜んでいたのに。

僕は、子どもを、金のかかる所へは連れていかないと決めた。これで娘も堂々と三歳である。
娘は、一切不満を漏らさない。どうやら、なにもかも分かっているらしい。
(1996/2/10)

 

保障ではなく希望について語りたい

 
誰もが死に行く人であることに間違いはない。明日死ぬかもしれないのだから、たった今を大切に生きよう。そんな白々しい説教を有り難がる男が、明日の予定だけを楽しみに、なんとか今日の仕事に耐えていたりする。
つまり、実は、明日に希望が無ければ、大概の人間は今日を生きる力を失うのである。

明日死ぬことを知らずに生きている者の「今日」より、医師から死を宣告された男の「今日」の方が充実しているなんて、いったいどこの誰が言った戯言なのか。人は、きっと未来に繋がる今日しか生きることができないのだ。だからこそ、奇跡を信じようとしてみたのだが、結局、奇跡など起ころうはずもなかった。

「なんだかなあ」
「笑うしかない」

いまだに未来があると信じることのできる者どもの、全てが過去となってしまった男についての会話はなんとも虚しい。
ただ、自分達がどれほど幸せであるかということを確認するために、僕は時々今日のこの日のことを思い出してみようと思っている。そして、消えようとする笑顔を取り戻すのである。

そういえば、明日を保障するために医者に行かなければならないのだが、今日の時間が全くもって足りない。しかし、今日の僕は、保障ではなく、希望について語りたいのである。

たくさんの心残りを抱えたまま去って行った彼は、そんな僕の身勝手を、はたしてどう思うのだろうか。
御冥福を、心よりお祈りする。

もう、これっきりにしよう……
 

乗り越えてはいない

 
眠りにつくことが怖かった。それは、悪夢を恐れたからではない。

あの頃、僕は夢の中で、いつも死から目を背けていた。夢こそが現実であると、夢の中の僕は信じていた。しかし、夢の中の僕が死から全く自由であったというわけではない。夢の中で、夢の中の現実を生きながら、僕は「死」の夢を見ていたのだ。癌に犯されているという夢、夢の中で見る夢。だがそれが夢である限りやがて消え去る。だから夢の中で、僕は救われていたのだ。しかし、眠りの数だけ、目覚めなければならぬ朝が来る。

僕の朝は、「自分が癌に犯されているというのは夢だったのだ」という朦朧とした安堵ととも始まる。その時、僕は、まだ夢の領域にいた。夢と現実の逆転した領域。しかし、その後に続く短い時間こそ、真の悪夢であった。
「自分が癌に犯されていること、それは本当に夢なのか、もしかすると、現実ではないのか」
眠りと覚醒の狭間で、僕は毎朝、半ば夢の中でそう自問した。

そして、僕は毎日、癌の宣告を受けたのである。

しかし、つまりは、僕は自分が癌であるということを、本当の意味で、ただの一度も受け入れたことなどなかったのではないか。表面的には受け入れたつもりであった。そしてそれを乗り越えてきたつもりでもあった。しかし、そうではないということを、あの頃の朝の記憶が物語っている。

もう今の僕は、眠ることを、あの頃のように恐れてはいない。極度の疲労の末、考えることも夢見ることもできぬほど疲弊した精神状態で、毎夜倒れるように眠りにつくことがその原因なのだろうとは思う。しかしそれならばなおさら、僕は癌体験を受け入れそして乗り越えたのではなく、ただただ忘れているだけなのだということを、ある人の壮絶な死を通して思い知らされている。

死んだ患者から信頼を失っていた医師を、決して責めることはできないのだと思う。死を告げる医師の言葉を拒否する以外に、すぐそこに迫っている自分の死から逃れる方途はなかったのだということに思いを馳せれば、患者を説き伏せることの出来なかった医師に、むしろ感謝すべきなのかもしれない。というよりも、医師が神でも無い限り、旅立っていった彼は、どんな医師をも信頼することは無かったのではないか。それが、彼にとって安らかに死ぬことのできる唯一の方法だったのではないか、と、思うのである。
 

怠惰な良心

 
玉泉洞は、1967年、愛媛大学の調査によってその奥部が明らかになった。つまり、あの戦争において、壕として使われた悲惨な歴史はないのだと聞いたことがある。変だな。「奥部」?「つまり」? どうも論理的に繋がらない。
真偽は、つまり、分からない。

「あの会社は悪い会社です」……

おい、コメントはそれだけかい。

たとえどんなにもっともなワケがあろうとも、俺は君にそのワケを聞くことは金輪際しないだろう。もはや、いい会社か悪い会社かの問題ではない。君から公平な情報が得られるとはどうしても思えなくなった。
たくさんの雇用を生み出している。君が逃げ出した場所では、君の友達がいまだに働いている。そして、どこよりも活気に満ちている……。

それが一面でしかないということはよく分かっている。だが、それが一面の真実であることも確かなのだ。会社に、100%いい会社など、あるわけはないのである。

永続的に利益を生み出す責任を追った者たちに、地獄行きの判決を下した13人の陪審員の中には、数人の怠惰な良心も加わっていた。
 

遠景に映える赤いゴーヤーの姿

 
ちょうど一ヶ月前の朝日新聞に掲載された記事。
仲村清司はゴーヤーについてこう語っていた。
「貧乏な沖縄、差別される沖縄の象徴、大嫌いだった」。
やがてウチナーンチュになりたくてがむしゃらに食べた。今は週に2、3回食べるが、特別な感慨はもうないと。

5年前、比嘉豊光が「赤いゴーヤー」なる写真集を出版した際、彼は琉球新報のインタビューに答えた。
「僕は6月ごろから毎日、おやじの畑で収穫したゴーヤーを食べているが、時々熟れた赤いゴーヤーが見つかる。これ、食べると甘いんだよ。そのことをウチナーンチュもヤマトゥンチュもあまり知らない。新たなものを生むサニ(種子)。それを包む熟んだ赤いゴーヤーの果肉とその甘さ。そういう本質にこだわることが、本来の文化ではないか」
沖縄県が公募したゴーヤーの新種の名前が、「島風」に決まった。名付けたのは大和の人であった。
70年代に大和のカメラマンが沖縄を撮りに来た時と同じだと、比嘉豊光は思った。沖縄のものの全てが大和のものになってしまう。政治的にも文化的にも、沖縄は大和に取り込まれていく。しかし、「赤いゴーヤー」までは奪われることはないだろう。わずかな残り物をしっかり見て、守っていかなければならないのではないか。

ならば、こんなブログのような場所で、「赤いゴーヤー」についてヤマトゥンチュの僕が語ってしまうことは、比嘉豊光にとって、許し難き行為なのだろうか。

今月の3日の琉球新報の記事。“撮らされた「時代の傷」”においても、比嘉豊光は語る。
沖縄という場が持つ力を作品化する時、「東京に売るための作品」なのか、「沖縄を取り戻すための作品」なのかが問われることになると。

だが、僕にはこの対立の実体が見えてこないのだ。「売るための作品」と「取り戻すための作品」とを、ことさら対立させることにどんな意味があるのだろう。そこに見えるものは、比嘉豊光の怨念のようなもの。例えば小説家の目取真俊は、「水滴」を発表することによって、沖縄を売ったのか、それとも取り戻したのか。

佐喜眞美術館で比嘉豊光の写真展が開催されていた。その関連シンポジウム“「赤いゴーヤー」からいま・沖縄を視る”に参加した。比嘉豊光と、大和の大御所である写真家、東松照明の対談。
新聞のコラムは、こう書いた。
「『沖縄でも長崎でも写真を撮ることに変わりはない』と語る東松さんに対し、(比嘉豊光さんは)『自分は沖縄の歴史性、場所性を問いながら写真を撮っている。今の東松さんには沖縄が撮れていないと反発。互いの創作姿勢の違いを際だたせていた」

さて、はたしてそうだったのだろうか。実際には、東松照明は次のように語ったと記憶している。
「僕は好きなものを撮っているだけだ。それが今、沖縄と長崎だということだ。」
「好きなものを撮るとは、好きな人にカメラを向けることと同じ。カメラがなければ、好きな人を長く見ていることなどできはしない。しかし、カメラのファインダーを通せば、写真を撮るということを口実にして、いつまでも好きな人を見つめていることが出来る」
確かに、比嘉豊光氏は苛立っていたのかもしれない。沖縄は三十数年前と何も変わっていない。なぜそれを認めて、その現実を切り取って撮ろうとしないのかと。
それは「創作姿勢の違い」などというものではなかった。

4月19日の琉球新報に、東松照明の興味深いインタビュー記事があった。
「作品の選択は年月とともに変わっていく。たとえば三十年前に一人の人物を撮ったとする。アップ、ミディアム、フルショットのコマがあるとき、撮影直後に選んだのはアップ系が多い。最初は、臨場感を重視する。それが十年後にはミディアムショットになり、だんだん引いていく。周りには車があったり、家並みがあったり、引いていくと、情報量が多くなる。その後、全身が写ったフルショットになる」

「際立っていたもの」とは、年齢とともに達観し、物事を俯瞰することが許されている大和の芸術家と、いつまでも生々しい具体の細部に拘らずを得ない苦悩する沖縄の写真家の、互いに逃れがたい「あり方」ではなかったのか。
しかしながら東松照明も、彼の撮影する遠景の中に、きっと赤き比嘉豊光の姿を、はっきりと捉えているに違いない。
 

何を話していたのだろう

 
深夜2時間の電話。何を語っても、すべては詮無いことなのに。

あなたは、自らの意識が薄れるような薬の投与を一切拒否している。どうやらあなたは、いまだ生き続けることができると信じているらしい。だが、内臓の機能など、今のあなたの生体に関する全てのデータは、生きていることが不思議という数値を示しています。今まで長く終末医療に携わってきた医師の経験から判断すれば、あなたの命は、あと数日、長くても一週間なのです。
きっと、間もなくあなたの元に、「生きることに対する言い知れぬ不快」が訪れることでしょう。
この末期の不快感に襲われた者は、どれほど強い意志の持ち主でも、そのあまりに耐え難き絶望の故に、殺してくれと懇願するようになるのです。その苦しみから逃れて死ぬ道は唯ひとつです。不快を認識するのは頭脳、その脳の働きを低下させる薬を、今すぐに、痛み止めの麻薬に混ぜて点滴する方法しかありません。
但し、この薬の人体に及ぼす影響には個人差があって、投与した瞬間に昏睡状態となることもあり得ます。そうなれば、愛する奥さまの声に、もう二度と答えることはできないでしょう。
確かに、今のあなたは、奥さまと至極普通に会話をしている。そんなあなたに、今のあなた自身の置かれた状況を理解しろというのは無理なことかもしれません。しかし、それでもあなたは、今すぐにも決断をしなければならないのです。なぜなら、あなたの全身に転移している癌細胞は、間もなくあなたの血管を圧迫し、あなたの肉体は、点滴の針からの液体の注入を、一切受けつけなくなることでしょう。そうなってしまえば、間近に迫る想像を絶する苦しみから逃れる道を、あなたは失うことになるのです。そしてあなたの奥さまは、もがき苦しみ、「殺してくれ」と叫びながら死んでゆくあなたを目の当たりにするでしょう。つまり、あなたが安らかな死を迎えるということは、あなた自身のためだけではないのです。
さあ、徐々に死なせてくれる薬の投与を受け入れるのかどうか、その判断を奥さまにさせないためにも、今この時、あなた自身がその決断をすることが、夫としての最期のやるべき仕事なのではないでしょうか……

深夜の、2時間の電話。何度も何度も、堂々巡りの繰り返し。

僕は、あの時に嘘を語り、そして今また、嘘を書いている。
残された者は、自ら構築した嘘を頼りに、生き続けるしかないのである。
半年という、長いインターバルの後に。
 

(再掲)《1983年7月7日のノート》

 
革命を幻想するという麻薬。
崖崩れで自殺することができる確率。

(トーマス・マン「神の剣」)
「恥を知らぬ子供や、厚かましい無遠慮者の無智を、称揚と怪しからぬ美の礼賛とでもって、是認し鼓舞し権力づけるというのは、それは罪悪です。なぜならそういう無智は、悩みとは縁のない、解脱とはなおさら縁遠いものだからです。」

(パスカル「パンセ」断章327)
「すべての人がその誕生においてあるところの全く自然的なる無知」と「大いなる精神の人々が到達するところの無知」

中間者たちの、浅はかな口論が氾濫する僕の脳髄。
苦悩という主題。
苦悩という名の、死を待つ逸楽。
(1983/7/7)
 

(再掲)問題は傘がないこと《1998年5月7日のノート》

 
今日は晴れ。いつもは晴れれば仕事に行く、そうすれば疲れて机に向かう気になどならない、ところが今日は晴れているのにこうしてワープロを打っている。ということはつまり、今日は晴れなのに働かないで家にいる珍しい日だという三段論法。

やっと観念して芝居を書く気になったのかというとそうじゃない。ならば仕事がないのかというとそれも違う。今日も午前中には会社に行って、仕上げた図面を納品して、そして次の新しい図面を受け取りもしたのだ。でもさすがにそれから再度調査しに行く気にはならなかったということ。
なにしろ今日は天気が良過ぎて、気持ちが悪くなるほど暑いのだ。だから会社から真っすぐ帰ってきて、そうして午後からワープロを打ちはじめた。
ああそれにしても、ここのところずっと天気のことばっかり。よし、ではちょいと話題を変えて……。

Xジャパンとかいうバンドのメンバーの一人が自殺した。後追い自殺する少女たちがいるらしいとテレビのワイドショーでやっている。陽水の歌の文句ではないけれど、誰が自殺しようが、政治家が何を言おうが、けれども問題は、やっぱり今日の雨なのだ。傘が無いわけじゃないけれど、たとえ傘があっても、歩いて調査する地図の仕事は、雨では出来ない仕事なのだから。

そういえば〈君に会いに行かなくちゃ〉とテレビのニュースを見ながら考えていたあの唄の男は、そのあと、ほんとに〈雨に濡れ〉て出掛けていったのだろうか。思うに、きっといつまでも出掛けずに、結局一日テレビを見ていたんじゃなかろうか。たぶんそうだ。いや絶対そうだ。それどころか、次の日晴れても、やっぱりずっとテレビを見ていたに違いない。
それにしても、なんで彼には傘が無かったんだろう。そんなに貧乏だったんだろうか。まさかいくらなんでもそんなことはないだろう。きっと彼は、自分の傘をどこかに置き忘れて失くしてしまったのだ。
今の時代なら、例え一人暮らしの大学生だって傘の二本や三本は持っている。けれど70年代初頭のあの頃は、余分な傘などないという、そのくらい今と比べれば質素な時代だったということなのだ。言わばそんな時代のセンチメンタルが、傘も買わず、といって雨に濡れて出掛けて行くこともしない女々しい倦怠感を支えていた。

しかし、今やそんな時代じゃない。溢れる物の喧騒が、何故か正直な怠惰を許そうとしない。我が家にも、僕の子供の頃には無かったものがずいぶんとある。なくても困らないものがたくさんある。めったに弾かないギター、高い天井、観葉植物、二足目の靴、三本目の傘……。

夕方になって、息子がコンパスを貸してくれと言い出した。明日学校で使うのだという。なんでもっと早く言わないのかと母親に叱られている。当然のようにコンパスくらいは我家にもあると息子は思い込んでいたらしい。あるわけないだろう、なんでもあると思うな。そう言われた息子は、近くのスーパーまでコンパスを買いに行ってはみたが、売っていなかったとしょんぼり帰ってきた。ところが、息子のかあちゃん、ちょいと引き出しを開けてみたら、鉛筆とかボールペンとか、いつのまにか無駄に増えた文房具の山の中から、無いはずだったコンパスが出てきちまったのだ。
ああ、教育する機会をひとつ逃した……。

世の中大変な不景気だという。きっとそれはそうなんだろうけれど、しかし相変わらずテレビはグルメ番組だらけ。絶品のマグロを食わせるために、半分捨てて生ゴミにしてしまうことを自慢している店。世の中不景気なのは気分の問題、箪笥預金をやめてみんなで消費すれば景気も回復するという。たぶんそれもそうなんだろうけれど、でも今やどこの家にもきっと大概のものは揃っているのだ。二本目のコンパス、三足目の靴、四本目の傘、そんなものを買って、いったいどうしようというのだろう。無駄なものをたくさん買って、ゴミの山作って、そんな好景気とは何なのか。生きていくのにほんとに必要なものは何なのか。

今日、僕は会社で先月分の明細をもらってきた。売り上げはウン十万円。他に裏方の仕事もしたし。稼いだ金は、サラリーマンならどうということないかもしれないが、しがない役者やってるだけでは考えられない金額。
でも稼いでどうしようというのだろう。いくら稼いだってうちじゃ誰も喜ばない。わが家にだって必要なものは何でもあるのだから、切実に買いたいものなど特にない。家族旅行にでも行けばみんな喜ぶのだろうが、僕はゴールデンウィークも気楽に働きっぱなしというようなオヤジなのだ……。

書きたいことは他にあったのだ。仕事で町を歩いてにいると、いろいろな事がある。いろいろあった話をちょいと書いてみようかと思ったのだ。だが今度にしよう。
センチメンタルな怠惰が、許されていると信じることができる気分になったなら、その時に書いてみようと思うのだ。
(1998/5/7)
 

(再掲)《1998年5月2日のノート》

 
相変わらず天気予報はよく外れる。今日の予報は雨、信用なんかしちゃいなかったが、朝方は大雨大風。それで体がすっかり休みのチャンネルに入ってしまった。

ところが、案の定というか、朝飯を食べ終わった頃には風も止み、雲の隙間から太陽が顔を覗かせた。
今朝の6時頃の天気予報では、一日雨だということになっていたのに、それからわずか2時間で、8時の予報では今日はもう降りませんときたもんだ。イライラする。心乱れて、考えることなんかできやしない。もう知るもんか。

午後2時20分、待望の雨が降ってきた。ざまあみろ、8時の予報もハズレだ。出掛けなくてよかった。
さて明日からは頑張って働こう。なにしろ明日からはしばらく雨降らずと天気予報で言っていた。
はてな、ということは、明日からずっと雨ということかしらん。
(1998/5/2)
 

(再掲)《1998年4月20日のノート》

 
地図の仕事を始めてから天気予報を気にするようになった。食当たりの薬に天気予報とは常套句、しかしまさかこれほどまでに当たらないものだとは知らなかった。

気象予報士という連中は、例えば快晴と予報しておきながらその日一日雨だとしても、夜には何の臆面もなく「明日の天気は」などとやっているのだ。ちっとは謝ったらどうなんだ。特にNHKの気象庁の奴のもっともらしい顔つきが気に入らない。

おとといも昨日も、降るはずの雨が降らず、仕方がないから調査に出た。考えねばならぬことたくさんあるのだから、降ったつもりで休めばよいのに、それができない貧乏性。というわけで一日たっぷり調査して、残った仕事はあと僅か、そいつを今日の午前中、ほんの一時間で片付けて、昼前には早々と納品して帰ってきたのだ。
とはいうものの、おととい昨日の二日間、ハナから晴れることが判っていれば、もう少し調査をせっせとやって、そうすれば、今日から新しい図面に手をつけられていたはずなのに、たった一時間分ぽっち残ったばっかりに、一日丸々損をした。こいつは当たらない天気予報のせいだ、ああほんとに損をした……、そんなふうに考えてしまうのだ。

いかんいかん、晴れて仕事ができて、得をしたのだと思いなさい。いやいや、損だろうが得だろうが、どっちにしたってそれじゃあ五十歩百歩。損得勘定とは関係なく、今日の午後みたいに休める時は、喜んで心穏やかにして過ごせばよいのだ。そして、本当にやるべきことについて思いをはせればよいのだ。考えることはいくらでもあるのだから。

いい天気。ぽかぽか陽気。珍しく天気予報の通り。あんまり気持ちがいいからと、昼間っからビールをあおって、そしたらアーア、思考が停止しちまった。
(1998/4/20)
 

逃れられない理由を確認してみる

 
今、僕は逃れたい。
逃れたいと思い始めた頃のノートのいくつかを、明日からここに転記する。

逃れたいもの、逃れられない理由を、あらためて確認してみるために。
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