社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1984年8月20日のノート》

 
ある直線上において、全くの同一点に立っているのに、生きるということがベクトルを必要とするのなら、そこでの矢印の向きによって、全く相反する立場があり得る、そんな当たり前すぎてつまらぬことを考えていたのだ。

↑…《読書量の減っていることが不満である》

↓…《暴飲暴食のために、また胃が痛み出した》

→…《昨日と一昨日のこと、彼のこと、彼女たちのこと、そして僕自身のこと、あるいは、つまり恵まれた人間たちのこと》

←…《床屋にだって行かなければならないんだ。だが今日は定休日》

→…《他にもいろいろあったはずなのだが……》
 
↑…《そうだ、ギターの弦を買ってこよう。ついでに、本屋にも寄ってみるのかい?》

→…《十七日に読んだ「マクシミリアン博士の微笑」から
「あの子供達の素朴なタマシイをつかむのは、きっと私達のもっと素朴なタマシイでなくてはいけないよ」
「あの子供達はせっかくカラの中に閉じこもれたのです。ようやくなんです」》
《こんな時にまぜっ返してややこしくして、一体何をしてるんだか、おまえは……》
《「あなたですよ。あなたが私達にウソをつくことを教えたのです。あなたの前では、誰でも平気でウソをつきます。あなたがやさしいせいではなくて、それはあなたが臆病なせいです」
子供「私、先生好きです。」 助手「もう行ってお休み。」
子供「私、先生がとても好きです。」 助手「いいよ。お休み。」
子供「先生、先生に触ってもいいですか?」
助手「先生はね、とてもくたびれた……。」
子供「先生、触ってもいい?」 助手「うん。ひどく、くたびれたんだよ……。」
「あなた方は本当にこの子のことを考えているんですか? 本当ですか? あなた方のおもちゃにするためにこの子をソッとしておきたいと言うのなら、私は許せませんよ」
「うわべだけのなぐさめあいだけで一生送れると思ったら大間違いよ」》

↓…《別役実の引用、というのが気に入らない》

→…《「あなたは愛されてたんじゃなくて、同情されていたのよ。しかも、それもあなたは知っていた。そうね……? あなたは知っていたわ。知っていながら、愛されているフリをしていた。だから、あなたは、だまされていたんじゃなくて、だましていたのよ。この人達も、つい今までは、あなたの事をだましおおせていると信じてたのよ」
「なかったんだよ。やっぱり、何事もなかったんだよ……」》

↑…《案の定だ……。電話でもしてみるかね》
いったいどうしたことだろう。あいつが電話に出ないということが、こんなに僕を不安にさせるのだ。外は土砂降り、この時間ではもう帰る電車は無い。
「酒は飲むな、しっかりと一人で生きていく」
露骨に自尊心が傷つけられるよりは、嫉妬心という低劣な概念にカモフラージュされている方がよほどいい。

←…《ごめんなさい。ひねくれた言い方、許してください。素直になりなさい……》
ああ、何というありきたりな風景なのだ。明日になれば僕はすっかり元通りになっちまうのだろうけれど、そうなる前に、今のこの風景の中で、この風景共々丸ごと受け入れなければならない、と僕は思っているらしいのだ。あなたがあなたでなかったら、僕はあなたと出会いはしなかった。

曖昧な関係が君を苦しめている。曖昧とは、ベクトルの方向が定まらず揺れていることだと思っていた。でもその間違いに気づいたのだ。

この地点で、僕は力と方向を失ってみる。
(1984/8/20)
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(再掲)《1984年9月2日のノート》

 
全てをさらけ出したい衝動がある。しかし懺悔の快楽は免罪の保障がその条件なのだ。その時、人は胎児のように安心して眠るだろう。
このごろ、夢に期待しなくなった。だから、眠ることがつまらなくなった。
(1984/9/2)
 

全て冗談なのです

 
昨日のことを、あさってあたり、あの人に聞いたはなし。

指をつめたのは二回くらいじゃないのかな。ふつうは左手だけどね、それじゃあ三線が弾けなくなるから、だから右手にしてもらった。
島にいるのが危うくなって、川崎あたりに身を隠したらしい。琉球人お断りみたいな張り紙が、あちこちの飲み屋に貼られていたころなのかもしれない。とんでもないはなしだということになっているけど、貼ったオヤジの気持ちもわからんじゃない。

花街で憶えた本物の三線。今では100人を越える弟子がいる。教育委員会から表彰されたというのだから、世の中わからないもんだ。わかってないのは役人か、きっとそうにちがいない。

インターネットでいくら調べたって出てきやしないさ。新聞はとっくにダメだが、ネットでならどんな情報でも得られるなんて勘違いするのもとんでもない話。
島の女は、ちょっとやそっとじゃ驚かない。顔も名前も知らない兄弟がいるなんて、普通のことだよね、ママ。あの知事だって、似たり寄ったり。
裏があるんですねだって? 何を目ん玉まん丸にしてるのさ。君の大好きなおかあさんは、きっと君に、ちゃんと正しいことだけを教えてきたんだね。とうさんは役人? 冗談さ、冗談。

あの人って、ママじゃないよ。全然違う人。違う人の冗談。
すべて、冗談さ。
 

生物多様性と自然淘汰

 
生物多様性なることばを、最近よく聞く。だが、決して新しい話ではない。

岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。

最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。

だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。

種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。

実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。

受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。

人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。

自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。
 

閉鎖市場と言われて怒るタイプ

 
表のブログに書いたこと。

南の、100万人の
閉鎖市場。

要するに、全く違う文化圏なのである。沖縄でたくさんの沖縄本が出版されるのは、本が売れるからではない。別の原動力がある。
商売のはなし。つまり、沖縄本を出したって、儲かることなどまずないということ。百花繚乱の沖縄本であるが、利益を出すほど売れる本など、殆ど存在しないのである。

全く違う文化圏。その共通理解がまずあれば、諸々複雑な問題も、相当話しやすくなるはずなのだ。沖縄も、新潟も広島も、北海道も、それぞれ地域性が異なる事は、どこも同じでしょ、などとおっしゃる方々と、まず交わさなければならない頓珍漢な議論は、できれば省略したい。

簡単にまとめるなというかもしれない。だが簡単にまとめてなどいない。複雑な現実は、表のブログを丹念に読んでもらえれば、嫌というほど書いているつもりだ。
そして、もっと複雑なことは、この「社長とは呼ばないで」で吐露している。つまり、実は「沖縄は全く違う文化圏だ」と言い切ることもまた、現実の各局面においては左程簡単なことではないのだ。

「つまりね。様々なシチュエーションにおいて、違うと言われて喜ぶタイプと腹を立てるタイプがいるということ。」
「なんだい、その程度の複雑さか」
「だからさ、今日は商売に限ってのはなししかしていない」

僕は、自分のことを「~なタイプ」と分析する女性が大嫌いなタイプの男性です。
 

(再掲)《1983年8月10日のノート》

 
東京の夜。
サルトルは、ラシーヌよりもコルネイユだと言う。わからないでもないが……。
カミュはモラリストの文学であるところのフランス文学に就いて曰く「古典のモラルは批評的モラルでありネガティヴだ。反対に二十世紀のモラルはポジティヴだ。それは生のかたちを定める。」ポジティヴなモラリスト-スタンダール、バレス、モンテルラン、マルロー、ジイド。カミュは、その中に古典から唯一人コルネイユを加える。判断不能。無味乾燥な分類。
(1983/8/10)
 

本質を見る無垢な目

 
ある写真家の技量がどれほどなのか、写真家がこの現代において生み出す作品が価値あるものなのかどうか、門外漢にとやかく言えることは何もない。だが、作品の伝えるものが、被写体よりもむしろ作者自身であるとするなら、どれほど優れた批評家が発した論評でも、それが正しく被写体を捉えていないという批判であるなら、それは僕にとって、つまらぬ言いがかりに聞こえるのみだ。

しかし、被写体が極めて現代的な問題を抱えている場合、写真というものが文字通りあたかも真実を伝えているかのような錯覚を与えるが故にこそ、当事者たちは写真の嘘を糾弾する。

美しい海を撮る。その写真の端に、汚い生ゴミが写った。それを切り取るかどうか。
およそ稚拙な設問だが、僕はそれを、意識的なトリミングの作業を思い浮かべて問うているわけではない。

ある無垢な写真家が、ただただ美しいと感じた自らの心を素直に表現したいと、写りこんだゴミを何の躊躇もなく切り取った。写真家には、はじめからゴミなど見えていなかった。なぜならこの写真家にとって、生ゴミの山は、この海の本質的な美しさとは無関係な存在であったからだ。写真家に嘘はない。むしろピュアな目を持っていただけだ。こうして仕上がった写真は、この海の本質である「この上ない美しさ」を伝える稀有な作品となった。
だが……。

「お前の写真は、あの海の現実の姿を捉えてはいない」
「私は、私の大好きな海を、ただ見つめていただけなのです」

この海に癒されるという若者たちがいる。
もっとこの海の歴史を学べと男が言う。そして、海に癒されるお前たちが嫌いだと、平然と言い放つ。

「生ゴミを捨てたのは、この海で仕事をするあなたの父親ではないですか」
男はそれに対して、憎しみを込めてこう答えた。
「親父がゴミを捨てたのは、お前たちの所為だ」
「私たちと、あなたの違いは、いったい何なのですか」
「歴史を学べ」

僕は、男に対する嫌悪感がこれ以上膨れていくのを恐れて、「好きなものは見つめることしかできないという良心」の側に寄り添っていくのである。何かが、取り返しがつかないほどに萎えていくのを感じながら。
 

(再掲)《1984年3月3日のメモ》

 
「山のてっぺん」について。

芥川龍之介……。

(「闇中問答」)
安全地帯の悪魔主義

(「芸術その他」)
芸術家は非凡な作品を作るために、魂を悪魔に売り渡すことも、時と場合ではやり兼ねない
山へ登る人が高く登るのに従って、妙に雲の下にある麓が懐かしくなる
(1984/3/3)
 

本当に書きたかったこと

 
本当に書きたかったことは別にある。会社の看板を背負わされた告知板に、オキナワのBURAKUのことを書くなど、できることではない。
ならば最後まで書かなければいい。“社長とは呼ばないで”などという卑怯な逃げ道を作って、敢えて一年も遅らせてそれを世界に向けて発信するようなゴマカシを、「関係各位」はどう思うか。

気にしてはいない。それよりも何よりも、先が見えてきた自分の人生の隙間を、きちんと埋めておきたいと思うのみである。それによって笑顔だった何人もの知人が、しかめ面して僕から去っていくことになるのだとしても、まったくかまわないと覚悟している。そして、去った人間は、その程度のものだったのだと、僕は傲慢に言い放つだろう。

「人類館事件」を正しく理解する? 
そういうお前は、きっと何も理解していない。そんなちっぽけなことはどうでもいいのだ。本当に言いたいことに較べれば、「人類館事件」の別の側面など、あったとしても塵芥である。

本当のことを聞かされても、お前たちはなお、民族のアイデンティティなどという魔物を振りかざして、永遠の憎しみの種を蒔こうとするのか。お前たちは、お前たちが最も憎む敵と、同じ罪を抱えた腹違いの兄弟なのである。お前たちが読んでいる歴史書に何が書かれているのだとしても。
勘違いしてはいけない。僕は憎しみの話をしてはいない。ただ、子を失った母の感情が唯一絶対であるなどとは、決して言いたくないのである。
ただの県民の利害の違い、誰にも転居の自由がある、そう主張する能天気な者達のほうに、はるかに親近感を覚えるのだが、そういう彼らが日の丸を打ち振るう熱狂を目の当たりにすると、人間とはかくも絶望的な生命体なのだと頭を垂れる。

お前たちには、この僕を殺す権利がある。そして、人間とは、絶望の異名であって、殺された僕の屍を閉じ込めた檻を、僕は新人類館と呼ぶのである。
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