社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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どうせ誰も……

 
表のブログでは書けない事を、何を勘違いしたのか、mixiとやらでちょっと書き綴っていた一時期があった。

あさやさんからメールが入った。
「幸喜さんから案内あったから、お前の切符も頼んでおいたぞ」
というありがたいメッセージ。早稲田の「人類館」のこと。 これで先着順の列に並ばなくて済む。でも誘った津嘉山さんはどうなのだろうと心配して青年座に電話したら、津嘉山さんにも主催者からご招待があったとのこと、そりゃそうだよなと安堵した。 でも、なんだかこういう特別待遇はとても申し訳ない思いがする。

結局、このことは少し煙に巻いて書き直した。その文章は、この「社長とは~」のどこかにある。

BOOMの「島唄」のこと。

でいごの花が咲き
嵐を呼び 嵐が来た

この歌詞の隠された意味。
「災厄を告げるというでいごの花が咲き、沖縄本島に米軍が上陸した」

また……

ウージぬ下で 千代にさよなら
「ガマの防空壕で君が代にいう永久の御代との別れ」

今思えば、このことをわざわざ表のブログでは書けないのでなどとワケの分からぬ注釈をつけてあんな場所で呟く意味があったのだろうか。これ見よがしのナイショ話ほどいやらしいものはない。

しばらく、mixi体験の自己批判で押してみようか。どうせ誰も読んじゃいない。

神奈川にだって、基地はあるのだが……
どうせ、誰も聞いちゃいない。
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健康な人は自分自身を裏切っていく

 
五ヶ月ほど前、mixiの日記とやらでいったい何を書けばいいのかと、つまらぬことを考えていた。そしてこんな文章を書いてみた。

出力と入力のバランスが大幅に崩れている。量的にも、質的にも。ここ数年、仮面だけで生きている。本当の自分に嘘をついて。仮面が、本当の顔に貼りついて剥がれなくなるような恐怖。このまま続けていると、きっと、精神が崩れる。肉体が精神に左右されるものなら、肉体に致命的な変化が起きるのも時間の問題だという気がする。
しばらく、外部との通路を遮断して、隠匿生活を送るのがいいということは分かっているのだが、それを許してくれる者がどれほどいるだろうか。無責任になれるほど人間ができてはいない。今のうちに、なにか手立てを講じないと、きっと、すべてが崩れていく。
てなことを、魔がさして、こんなところで「出力」すること自体が、崩れ始めている証拠らしい。

そして、最後に「覚書」と付記した。
嘘を書いたわけではない。しかし、なんでこんなことを書いたのだろう。何か戦略でもあったのだろうか。それはない。たぶん本当に崩れ始めていたのだろう。
すると、「心配です。5月が影響しているのでは」なんて、いたって健康的なコメントを頂いた。これがいやだから、僕はこの「社長とは呼ばないで」を、コメントなど付けられないようにしているのだ。
貰ったコメントには返事するのが礼儀らしく、だから僕は……
「何が嫌いって宣伝が大嫌い、それをしなければならないというのが一番の原因かもしれません。厚顔無恥の自分を眺めるのは、なんとも苦痛です。もっと軽やかに素敵に生きたいのだけれども、なかなか難しい」
と、さも尤もらしい反応をしてみたのだが、そうしたら途端に崩れているなんて嘘っぱちになっちまった。まるで心配されたいからダダをこねていたみたいではないか。

さらに……
「仮面をつけていらっしゃるのですか? 素敵・・・」
こっちのほうが断然うれしい。しかし……
「ここでは仮面を外すといいですよ。どんどん出力しましょう」
いやいや、それは出来ぬ相談。ちょいと踏み込み過ぎです。

そこでちょいとズラしてこう答えてみた。

考えてみれば、人間の顔なんて全て仮面なのかもしれません。問題は、さまざまな理由で出力しなければならない場面が増えて、気に入らない仮面も被らなければならなくなったということのようです。でも、そうしなければ支えられないものもある。また一方で、そのことによって壊したくないものが壊れていくこともある。どちらを選ぶかに正解は無いはずですが、どうやら僕は、近しい人間に評判の悪い選択をしてしまうようです。最も近いのは家族、それから心配してくれる友達……
太宰治曰く、諸悪の根源は家庭の幸福。
しかし、自分の家庭も幸福に出来ないような人間に、世界を語る資格があるのでしょうか。
あるいは、自らの家庭の幸福を顧みないからこそ、世界について語れるのでしょうか。

ここにいたって、ただの薄っぺらな言葉の遊び、ほとんどペテンである。
しかし嘘はひとつも語ってはいない。だから他人様を騙したわけでもない。問題は、他人様の勝手な善意の解釈に、心して応答しているうちに、いつしか自分自身を裏切っていく。

そういう場所は、きっとmixiだけではない、と読み返して思ったというだけのこと。
 

時間の無駄

 
3ヶ月半ほど前、mixiの日記という気色悪い場所で次のようなことを書いた。

東京あたりでは携帯サイト関連の会社はみんな縮小されてきている。やがてはどんどんと消えていくだろう。そうした現状で携帯のために時間を割く気にはならない。将来を見通した上での費用対効果を考えると、携帯への対応を検討する必要性が見つからない。

すると携帯mixi依存症患者から「サイトをケータイから閲覧したコトが無いのでは」みたいなコメントが届いた。話しのステージが理解できていないらしい。残念な解析力の持ち主である。おまけに「意図の伝わらない文章を書く側に問題アリ」と、全く脈絡のない文面。失礼極まりないことを言っているのかそうではないのか、なんだかさっぱり分からない。あえてへたくそな文章を書いて逃げ道を作っているのか。だとすれば質の悪いチンピラである。

「ケータイでの閲覧者を気にしなければよいだけかもしれませんけどね」
だからハナからそう言っているだろう。いや違うな。「しなければよいだけかもしれませんけどね」、こんな気持ち悪い言い回しでまとめられるのは断固としてお断りである。
それだけではない。例えば携帯は「けいたい」であって「ケータイ」ではない。先輩に送るメッセージにそういう言葉を使って平気という感覚が大嫌いなのである。

こういう類に返信すると、結局本質的な問題からどんどん離れていくことになる。その愚に付き合う暇はない。何度でも言うが、要は将来的に見た費用対効果の問題なのである。だが、本当はもう少し付け加えなければならない。情報の上っ面をサラッと撫でていくような、携帯電話の端末のようなスタイルのアンテナでは、ボクが伝えたいメッセージは受信できないだろうということであり、そういうアンテナに合わせたメッセージの氾濫が、現代の言説を変質させ、複雑さに対する耐性を失わせているのだ。

ひどく詰まらないことを書いた。時間の無駄。費用対効果ゼロ。
 

(再掲)《1984年6月30日のノート》

 
遠くが霞んで見える。だからきっと確かに夏なのだろうが、今日の雲は夏の形状ではない。といって春のそれでもない。こんなことが気になる自分が不思議だ。

「そうだ、声が似ているのだ」
そう気付いたのは昨夜寝床に入ってからだった。

そのせいだろうか。去っていった人々、去っていこうとする人々、彼らの事を書こうと思っていたのだ。それは、より重要な事に思えたのだ。だがそれは誠実でないような気がして、結局のところ放棄してしまった。確かに、近ごろ僕は「誠実」ということにひどくとらえられている。

岐路があった、こんな物の言い方が僕自身の思考を硬化させてしまうのを恐れて、つまり、だから「重要な事」を放棄したのだとも言えるのだが。

ともかく、ほとんどの人間関係が事務的になっている。
(1984/6/30)
 

(再掲)《1983年7月3日のメモ》~「行間を読む」ということ~

 
「出来事は《行と行の間》に起きるのではなく、直接に話されねばならぬ。俳優たちは(中略)行と行の間で彼らを待っている《なにか表現しようもないもの》にたよろうとする。だがそれによって《表現し得るもの》や《すでに表現されたもの》を無意味にしてしまうから、こういうやり方は有害である」
(ブレヒト)……単なる芝居のはなし

「日本人は最も大切なことは、言葉によらず言外によるから、これはもういかんともしがたい。従って日本人にうけ入れられるのは、この言外によることになってしまう。それはもう聖書ではない」
「第一歩はお互いに非常に理解しがたいことをまず率直に理解することであろうか」
(イザヤ・ベンダサン)……仮名で書くペテン

「現在と対話しようと思ったら、自分をからっぽにし、想像力の活動を禁止しなければならないのだ」
(ジャン・ヴォーチェ)……小説の一節を引用する馬鹿らしさ
(1983/7/3)
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