FC2ブログ

社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

(再掲)《1985年9月12日の旅のノート》

 
10日の、札幌の夜のこと。
今度のアイヌの芝居のことを記事にしてくれるというので、毎日新聞札幌支社の報道デスク某氏と会食。学生時代に、この劇団でアルバイトをしていたという縁。

「いいなあ、わかるなあ」、そう言っては彼は酒を注ぐ。こちらはまだ何もしゃべっていないのに、彼にはもうわかっているらしい。酔うほどに「お経」のように繰り返す。
「いいなあ、わかるなあ」。
何がいいのか、何がわかっているのか、こっちはちっとも判らない。よっぽど新聞社の仕事に不満でもあるのだろうか。男の得体の知れない思い込みが、僕らしかいない二階の座敷部屋に浮遊して、その場を支配している。

芝居に携わっているものに対しても、アイヌの問題に対しても、どことなく高みから見下ろしているようなところが彼にはある。現実を見ろというようなことを時々ブツブツほざくのだが、ならばその現実とは何かと丁重にお伺いしても、とっとと酔ってしまったその男は何も答えない。相手に伝える気があるのかないのか、内容のない言葉ばかりを連呼している。

「お前たちは雑魚だ」。
何を血迷ったのか、挙句に男は、なんの脈絡もなく、そんな事を言い出した。そして、今度はそれを連発し始めたのだ。

要は、ひどく酒癖の悪い男と酒宴をともにしてしまった不幸というだけのことなのかもしれない。しかし、それで済ましていいようなことなのだろうか。「雑魚」という言葉。終電車で泥酔したおっさんに絡まれたようなものだが、ここは終電車の車内ではない。初対面の相手に「雑魚」とは、酔態だからといって許される言葉ではないだろう。それまでは、惨めなコンプレックスでも抱えているのかなと、白けながらも同情していたのだが、ことここに到って、こういう男が新聞を通じて何かを発信しているということが、とても許せなくなってきた。妙な空気の中で飲んでいるから、こっちも妙な酔い方をしている。
「酔っ払いの戯言と我慢して聞いてやっていたが、もう限界だ。お前こそ雑魚だ。」
怒鳴ってしまって、こっちも結局雑魚に堕した。

11日の夜は浦河。三浦和義逮捕。民放全局あげての報道。まるで天下の一大事だというふうに。

アイヌのこと。
こう書いただけで気分が重い。やはり、どこかとても醒めている。毎日新聞の馬鹿記者との一件で、ますます萎えてきた。見なければいけない現実はたくさんあるに違いない。しかし、ああいう低劣な「現実」に、今後も煩わされていかなければならないのか。
解決すべき問題が、すべて現実をどう対処するかというだけなら、その現実が低劣であろうが上等であろうが関係はない。そしてそれは政治で解決すべき事柄であって、芝居の出番などそこにはない。現実を喧伝するために作られた芝居もあるのだろうが、それは芝居ではない、とういか芝居でなくても構わぬものだ。芝居が芝居であるためには、芝居でなければ伝えられないものを包含しているからだ。
ということはつまり、芝居に関わる者には、現実をいったん棚に上げて考えなければいけない課題があるはずなのである。そして役者である限り、俯瞰した場所からそれを考え始めようとしてはならない。今ある自らの地点から、出発しなければならないのである。

僕の気分がちっとも高揚していかない原因が、ここにある。

「真理」とは、全ての個に共通したものであるべきだ。言い換えれば、そうでなければ、それは「真理」ではないということだ。ならば「真理」とは何か。現実にその発見が可能であるかどうかは関係がない。現実は、棚に上げている。重要なことは「真理」とは何かと問い続けることだ。
「真理」は宗教だけのものではない。人は哲学する存在である。哲学もまた「真理」を扱う。だから宗教も哲学だが、「民衆」の前では、宗教と哲学は、全く違った相貌を現す。宗教は、「私たちの真理」が苦しむ人々を救うのだと言って君たちを誘う。だが哲学は、君を苦しめる。苦しみたくなければ、君は哲学になどには近づかぬ方がいい。安心していい。君を哲学の世界に誘うものは誰もいない。

僕は、現実を忘れ、「真理」というインターナショナルの極致を、孤独に、絶望的に考え続けてきたのだ。しかし今、「アイヌ」というなんとも厄介な何ものかが、僕の気分を重くしている。「真理」によって絶望の淵に追いやられてしまったことに較べれば、はるかに軽症なのだが、余命3年の癌よりも、今日の頭痛に苦しめられる不快感とでもいうべきか。
「民族性=ナショナリズム」復権へのベクトルを正しい方向として受け入れることなしに、「アイヌ」問題を語ることはできないだろう。つまり、僕の正しいとしてきたベクトルとは真逆なのである。この問題を、どのように僕の思考回路に組み入れるのか、今のところ、手つかずである。

僕自身の中にあるどうしても拭い落とせない「日本人」としての特性を発見することは、僕にとって認識経路の一つの過程であり、決して目的とはなり得ぬものである。しかしアイヌの人々にとって、「アイヌ」は「目的」である。たとえ「アイヌ」であることを捨ててしまいたいアイヌがいるとして、今の「アイヌ問題」の中では、それはネガティブな「アイヌ」として捉えられてしまうだろう。「アイヌ」という民族性を目指すことこそがポジティブなのだ。「文化」を語る地平では、アイヌがアイヌ以外であることを快く思わない。
一方僕にとっては、日本人であることは極めてネガティブなことであって、日本人ではないところの自分へということにしかポジティブな道を見出すことができないのである。要するに、僕は日本人であることから解放されたい、そしてそれが正しいベクトルだと考えているのである。

この本質的な違いを見ないで、和人が「アイヌ文化」を理解することによって差別や葛藤がなくなるなどと考えているとしたら、大きな間違いだ。
僕は僕なりに、哲学的に、形而上学的に「アイヌ」にアプローチする以外にない。そしてそのほうが、安易な政治と文化のごちゃ混ぜより、ずっと正当だと考えている。

だが、やはりどこか、気が進まないのである。

明日は13日の金曜日で釧路、公演後、帯広へ。そして翌14日に、いよいよ二風谷に入る。
(1985/9/12)
関連記事
ページナビ




ツリータグリスト

カレンダー
05 | 2021/06 | 07
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示