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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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(再掲)《1984年3月26日のノート》【僕は「太宰」ではなく尚も「太宰」である】

 
太宰治は書いた。
「僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を早熟だと噂した」
「けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した」
「わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ」
『斜陽』を読みながら、僕は思った。
〈本当だろうか〉

日本人は、日常を小説で考えようとするが、本来、日常とは哲学で考えるものだ、そう語った者がいる。そして彼はこうも言った。小説とは、「非日常」であると。

ならば太宰が小説で何を書こうとも、どうでもいいことなのだが、日本人が小説で日常を考えるというのなら、やはり捨てては置けないということではないのか。確かに、戦後の現実に幻滅していたには違いない。しかし「人間は恋と革命のために生まれて来た」とは、なんとも弱くて甘きに過ぎる。太宰の「現実」とは、実は左程にも偏狭な私生活に限られた世界であった。

「マルキシズムは、働く者の優位を主張する。民主主義は個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ牛太郎だけがそれを言う」
太宰の自嘲そのまま、「なんという卑屈な言葉だろう」。本当に不愉快なのだ。マルキシズムは、お前の自慰のための道具であってはならない。少なくとも、理念としては。

「ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている」
そうして太宰は、恋や美を、新しい時代の新しい倫理に祀り上げようとするのだ。所詮「天皇」を愛した貴族の甘さと弱さである。
「天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋したう対象なければ、倫理は宙に迷うおそれあり」
反吐が出る。太宰の言う「倫理」とは何か。なぜその「倫理」をこそ疑おうとしなかったのか。
サルトルは言った。「ナチスの占領下においてわれわれは自由だった」と。一方、太宰はがんじがらめの自分に陶酔しているのだ。

「斜陽族」などという風俗、「放埓に苦悩のない、馬鹿遊びを自慢する、ほんものの阿呆の快楽児たち」が、デカダン文学の生み出した産物ならば、それはこうした日常的作品の中に、「正しい愛情」だとか「蘇生したヒューマニティ」などという得体の知れないものを、密かに、そして巧みに織り込んだ作家たちの罪である。「ほんものの阿呆」は、やがて「天皇」を補完する存在に変質していくに違いない。

だが、所詮小説なのである。
「小説とは非日常である」、これを「小説とは非日常でなければならない」と言い換えてみると、「あらゆる現実的行為は悪である」という形而上学的ドグマと、妙な反応を起こして、僕はおもしろがっている。

「人間はみな同じものだ。この言葉は実に猥褻で、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、光栄はひきずりおろされ、所詮『世紀の不安』は、この不思議な一語からはっしている」
僕は「太宰」ではなく、そして尚も「太宰」である。
(1984/3/26)
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