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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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走馬灯のように

 
過去を語るとは、それぞれの時に応じて、都合のよい過去だけを思い出し、たったひとつのことがあたかも全ての場合に当てはまるがごとく思わせる巧妙な営業トークのようなもので、詐欺師との違いは、「語っていること」が本当にあった出来事かどうかということのみである。全体像を歪めることにおいては、どちらも同じだ。
全ての過去を陳列すれば、騙されるものはいない。

死ぬ間際に、走馬灯のように過去を思い出すなどというが、本当にそんなことがあるのかどうか、死ぬ間際というものを経験したことはないし、経験したことのある人にも会ったことがないので、確かめようもないのだけれど、もし本当にあるのだとしたら、その走馬灯は、人生の最後に、自分の真の姿を知りなさい、自分で自分を騙していたことに気づきなさいという、神から与えられた思し召しなのかもしれない。だとすれば、大概の人間にとって、それは耐えがたい試練となるであろう。
しかし……。

死ぬ間際に見る走馬灯の過去は、きちんと時系列の順番を守って訪れるのだろうか。なんだか、そうではないような気がしてならないのである。

「死ぬ間際」よりもだいぶ手前で書かれる自伝的な文章がたくさん世に出回っているが、その多くは、「耐えがたい試練」などからは遥かに遠く鼻につく。それは、神とは関係なく、自らの思い出を手前味噌に取捨選択して勝手な構成を加えているのだから当然とも言えるのだが、どうもそれだけではないと思うのである。
本来バラバラであって然るべき「出来事」なのに、それを時系列に並べて接続詞で繋ぐという作業が、否応無く原因と結果の連鎖という非可逆的な時間の論理の中に「出来事」を組み入れることとなり、本来はそれぞれ単独に完結していたのであろう「出来事たち」から、精気を奪い取っていく。そうして辻褄を合わされた人生は、色褪せた無縁仏として葬られていくのである。
しかしながら、人生とは、きっと、そうしたものなのである。人は神ではない。非可逆的な時間の論理から、逃れることは許されない。だからこそ、この世の我々にとっての問題は、自分の人生のひとコマひとコマを、どのような接続詞を選択して繋いでいくか、自分の人生を、どう解釈するのか、ということ以外にはないのである。

だからこそ、「死ぬ間際に見る走馬灯の過去」は、きっと時系列には並んでいない、と思いたいのだ。全ての接続詞から切り離された過去たちは、「過去」であることからも解放され、神が気まぐれに振ったサイコロの目によって、フラッシュバックのように現れては消え、消えては現れ、それぞれが鮮やかな悠久の今となって立ち現れてくるのだ。死に行く者は、その走馬灯を静かに眺めながら、全てが許されたのだと深く実感して、黄泉の国へと旅立つことができるのである。

これは、この「ブログらしきもの」の解釈であり、改めての予告であり、そして、色褪せた無縁仏たちの為の「弁明」でもある。
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