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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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歌舞伎と言葉と俳優と。

 
歌舞伎を観た。
かのスタニスラフスキーの俳優修行、その一部だけが訳されて、スタニスラフスキーのシステムは、新劇のバイブルとなった。「俳優修行」を読んだことのない若い役者たちは、畳の上で秋刀魚(さんま)になって、這いずり回って見せた。それができなければ一人前の役者にはなれないと、彼らは思い込まされていたのか。しかし、自分が秋刀魚であると信じることができるような巫女的能力の持ち主は、女性以外にはいない。
鈴木忠志は、女性は全て根っからの名優だが、男でまともな俳優などみたことがないと言った。確かに、俳優にはゲイが多かった。今は知らぬが。

今、畳の上で秋刀魚になれる思い込みの激しい役者など、女優にもいない。どうやら、現代人は分裂病気質というものにとても寛容になった。全身全霊を賭けて秋刀魚にならなくても、秋刀魚を演じることは出来る。いや、むしろ分裂し白けた自分がいなければ、秋刀魚などになれるわけがない。
そうして、男性にも上手い役者が増えた。多分、自分の中にある何パーセントかの女性的才能を発見し、そしてそれを容認してうまく使いこなしているのに違いない。100%の女性も、100%の男性もいないのだから。

モスクワ芸術座の役者が、畳の上で秋刀魚になるような訓練をしているのかというと、全くの大間違いである。出番寸前まで、袖で馬鹿話をしている。だが一度舞台に出れば、彼らのリアリズムの演技は、見事であると聞いたことがある。それが伝統の力なのだと。

言葉が先にあり、まずはともかくその言葉を発してみること。感情は後からついてくる。感情があったからといって、演じることはできない。それが俳優修行の、訳されなかった続きである。

しかし、いったい言葉とは何なのか。「俳優修行」は俳優論・演技論であるから、言葉の根源を問う必要はない。言葉の根源を問うには、まず肉体を切り離して思考せねばならぬのだが、肉体不在では俳優論も演技論も成立しない。だが、敢えてそれを問いたいと思う僕の性癖は、どうやら昔とあまり変わってはいないようである。

つまり、アイヌを考えること、沖縄を考えることは、形而上の課題を一向解決することのできない僕にとって、やはりとても扱いにくい重荷なのであるということを、どうやら僕は言いたかったらしい。アイヌや沖縄の問題は、肉体を除外しては考えることはできない。

歌舞伎とどういう関係があるのか。新春に歌舞伎を観たくらいで、なんでこんなことを考えているのか。芸談風なことだけを語っていれば、もう少し笑って理解してもらえるだろうに。
ともかく、歌舞伎を観て、当然のことながら離れがたく肉体に支配されている自分を発見したということらしい。
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