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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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朗読の形而上学(第一回)序章(1)

 
今、密かな朗読ブームらしい。カルチャーセンターにもちょこちょこと朗読教室なるものが現れてきた。僕の親戚のおばちゃんも、何をとっちらかったのか、「お茶」をやめて朗読教室に通おうかしらなどと言い出した。お金がかからないというのがその理由。声を出すから健康にもいい。編み物が流行ろうが、絵手紙に人気が出ようが、いっこうに関係ないが、小さな朗読会があちこちで開かれるに到って、喋ることを生業にしてきた僕としては、この朗読ブームはいったいどういうことか、ちょいと気になってきた。

だからというわけではないのだが、僕は、ある場所で、こんな問いかけをしてみた。

 日本には話芸がたくさんあります。
 落語・講談・浪曲・浄瑠璃、活動写真の弁士とか説教節やごぜ歌など。
 それらと「朗読」と、いったい何が違うのでしょうか。

この僕の問いかけに、ある人が答えてくれた。

 文章や文字を目でみることを前提として表現されたものを、声にする。 
 ここが、落語、浪曲などとは決定的に違うところ。
 だから、作者の意図するところをはずれてはいけない。

なるほど、しかし「作者の意図するところ」に触れたいならば、原作を読むのが一番、それなのに、それをわざわざ「朗読」するのは、いったいどうしてなのか。
どう考えても、作品を朗読することによって、「作者の意図するところ」に付け加わる何ものか(+α)を期待しているに違いなく、お客さんは、《「作者の意図するところ」+α》の総体を聴かされているはずなのである。

にも関わらず、「朗読は本から一歩も出てはいけないのです」と、まことしやかに語る朗読界の大御所のオバサマたちがいるらしい。そういうオバサマ方は、お客さんが「朗読会」に求めているものをいったい何だとお考えなのだろうか。

“作品を忠実に再現する(だけの)朗読の価値”について、最初のある人とは別の、あるオバサマが語ってくてた。

 知らない作品と出会いたい人のために
 自分で読むのは好きじゃない人のために
 想像力・理解力・音感が足りない人のために

僕は考えてみた。まず、「知らない作品との出会いたい」について。
わからないでもないが、これでは書籍の販促活動と区別ない。知らない作品に出会うためだけに朗読会へ足を運ぶ人がいるとは考えられない。それなら書店に行って背表紙を眺めていれば済むこと。書評、電車の中吊り、なんでもある。情報が多くて何を選べばいいのかわからないというならば、信頼できる友人にでも聞けばいい。たとえ「知らない作品に出会えてよかった」という人がいるとしても、これはあくまでも「おまけ」としか思えない。朗読会を、文学的サロンの集まりのように使われているのなら別だが、しかしそれは朗読の楽しみではなく、サロンの楽しみである。

お次の「自分で読むのは好きじゃない」、ということは、読んでくれるなら誰でもいいということなのか。「自分で読むのは好きじゃないが聞けるなら聞きたい」ということは、要するに「読みたいけれど読めない」ということだ。今はね、テキストデータと音声変換ソフトがあれば、読まずに聞くことが出来ますよとお教えしたいのだが、しかしそんなことを言おうものなら、「私たちの朗読と、視覚障害者への朗読を一緒してはいけません」なんてことになる。ということは、やっぱり作品を忠実に再現しているだけではなく、別の要素があるということでしょう。
(ちなみにある視覚障碍者のお話をご紹介したいと思う。その方は、通常、雑誌の記事などは、テキストを音声データに変換して8倍速で聞いているという。いわゆる斜め読みならぬ斜め聞き。一般の人には全く不可能な神業。そしてきちんと読みたい(?)場合は3倍速。さらに小説など、雰囲気を楽しみたい場合は2倍速で聞く。
つまり、音声の送り側が雰囲気を付け加えなくても、聞き手の頭の中で、世界は奔放に作られるということを、オバサマ方に伝えたいのだ。シンプルな朗読などというけれど、テキストから機械的に変換された音声データほどシンプルなものはない。オバサマたちは「本から一歩も出てはいけない」といいながら「視覚障害者への朗読と一緒にするな」ともおっしゃる。なにか勘違いされてはいませんか?)

さて、どうやら厄介なのが最後の「想像力・理解力・音感が足りない人のために」ということ。つまり、本来、優秀な読者ならば黙読していても沸きあがってくるものを、読書力のない方々は感じることが出来ないのだから、それを朗読によって補ってやるのだという理屈。
確かにこれならば「本から一歩も出てはいけない」という戒めを破る事もない。
(とはいえ、読書力のない方々のためだけに朗読があるというのはなんともお客様に失礼な話ではあるが。)
しかし、ならばどうして、同じものを読んでも、読む人によってまったく違うものになるのか。「人それぞれ声が違うのだから当たり前でしょう」というオバサンの御意見が聞こえてきそうではある。この「声」のことは重要なので後で触れるけれど、今ここでそれを持ち出しては今までの論理の展開が全てズレてしまうのでいったん無視させていただくとして、さらに表現力という最も重要な問題をも棚に上げて、さてそうすると、残された要素は、どうやら読み手によって作品に対する理解が違うからこそ音が違ってくるのだとしかいえないのである。(何度でもいうが、オバサマ方が、理解をそのまま表出できるだけの表現力をお持ちであるということを前提とした上での論理的な話である。)
では、そういう「個性」と、「本から一歩も出ていない」という戒律との間に、オバサマ方はどのような整合性をおとりになるおつもりなのだろうか。

どうやら、「作者の意図するところをはずれない」とか、「本から一歩も出ていない」とか「シンプルな朗読」とか、分かりやすそうで実際ちっとも分かりやすくないものを、もっともっと考えて見る必要がありそうである。

趣味で楽しんでいるオバサマたちに喧嘩を売るつもりは全くないのだが、あまりに根の浅いことを、さも分かったように語られる向きもあり、ちょっと冷や水をふりかけてみたくなったのである。他意はない。
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