FC2ブログ

社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

28年の時を隔てて【小金井芦州のこと】

 
今日、いわゆる朗読会なるものに出て、短編を読んだ。そのことに特段の思いがあるわけでもなく、むしろ朗読というものが何だかよく分からないから、どうも落ち着かない。失礼な話だと思いながらも、前日までろくに原稿を読むこともしなかった。どうやら他の出演者の方々は、きちんと読み込んでいらっしゃるらしいのだが、僕は朗読の正しいあり方というものがさっぱりわからないので、読み込むことに全く意味を見出せない。というより、いくら読み込んでみたところで、どちらへ向いて歩き出せばいいのか分からないのだから、読み込む作業は、ただ単に流暢に読むためという効果しかない。流暢に読むだけなら、商売柄半日あれば十分だ。それに、朗読は流暢であるほうがいいというわけでもあるまい。むしろ、読む作品と読み手の新鮮な出会いというシチュエーションを如何に作り出すか、そのほうがずっと効果がありそうな気がして、それなら流暢でないほうがよっぽどいい。

それにしても、プロとして、たった一人でお客様の前に立つということが、今まであったかなと思い出してみた。スタジオ録音や、たとえ舞台でも、司会や映画の弁士のような仕事を除外すると、あの頃を最後にして、以来そういう仕事を全くしていないことに気が付いた。

1983年4月。僕は小金井芦州の独演会の前座として、数日間上野本牧亭の昼席の高座に上がった。前座から観る客など殆どいない。畳敷きの客席には数人の常連。中央に寝そべるたった一人の他は、みな脇の壁にもたれて足を投げ出している。座敷の後ろには下足に続く板の間があって、その中央に、もう何十年も講談の高座を見続けてきた売店の名物おばちゃんが、売り場を離れて腕組みして立っていた。
気の利いた枕を語ることなど芦州が許してくれるはずもない。ひとこと「勉強させていただきます」と頭を下げて、目の前に置かれた講談本を読み始める。
「頃は元亀三年壬申年十月の十四日、甲陽の大僧正信玄、甲府において七重のならしを整え…」
三方ヶ原の物見、いわゆる修羅場である。
考えてみれば、その時だって何のために高座に上がっているのか分かっていたわけではない。

ただ役者の修行のためと劇団から金を出してもらって芦州に講談を教わりにいったのだが、何故か気に入られて三日で芦晃という立派な名前を頂いた。以来、芦州は劇団から金など取らなかった。どこへでも僕を連れて歩いたが、いつも僕の都合を優先してくれた。
稽古は昼前と決まっていた。赤羽の愛人の家の二階を使った。家の主はいつも留守だったので会ったことはないが、どこかの高校の教頭だと誰かから聞いた覚えがある。芦州の本宅は都営だか公団だかの古いアパートだった。早稲田に受かった息子に、金がないからと進学を断念させたという話も聞いた。愛人の家は立派であった。

まず、芦州が見本を語ってくれた。さあ今度はお前だと横になる。僕が語り始めると、間もなく芦州は二日酔いの酒臭い息で鼾をかき始める。僕が語り終えると、途端に目を開けて、もう一回とだけ言って、また高いびきである。

稽古が終ると、浅草へ向かった。昼飯は大概蕎麦である。一枚は野暮、だから二枚づつ頼む。卵焼きを肴に酒を飲む芦州は一枚の蕎麦さえ食べきれない。僕は昼から酒を飲まされ、蕎麦を三枚食わねばならない。
名前を貰ったといっても、着物さえまともにたためないのだから、前座など務まるわけがない。芦州の高座が終るまで、僕は浅草をうろついた。ここで待っていろと言われたスナックで、フランス座の支配人に会った。その時、よほど人がいなかったのか、うちでやらないかと誘われた。

夜は御贔屓さんとの会食に付き合わされた。御贔屓さんがタバコをくわえる瞬間を見逃さず、そのタバコに火をつけるのが僕の仕事であった。名前しか書いていない名刺をよく貰った。

そんな生活がストレスだったのか、芝居の旅先で僕は血を吐いた。そこから東京の病院に直行し、そのままひと月入院した。真っ先に見舞いに来てくれたのは芦州であった。

ある日、稽古に行ったら、渋い着物が置いてあった。
「お前にやる。今度、俺の独演会で、前座をやれ」
独演会なら、着物がたためなくても他の師匠方に迷惑掛けることなく使うことができる。それでもその日、くれた着物を使って、芦州はたたみ方を教えてくれた。

芦州が独演会で最後の演目を終える頃には、楽屋はすでに夜席の出番の早い落語家さんたちで賑やかだ。いよいよ幕が降り始めると、ひとりの落語家さんの声がした。
「おいおい、おん出しの太鼓も叩けねえのかよ」
そういって長バチを持って太鼓をたたき出した。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
僕はただ居心地悪く眺めていただけだ。芦州は、そんな情けない前座にも、ワリをくれた。

帰り際、売店のおばちゃんに呼び止められた。
「久しぶりに、いい修羅場を聞かせてもらったよ」
涙が出てきた。

それからどのくらいたったのか。あんまり昔のことなのでよく覚えてはいないのだが、芦州と若手売出し中の講談師と、三人でどこかのスナックで酒を飲んでいた。酔いが進むうちに、若い講談師が、僕に絡みだした。お前はどうするつもりなんだ。ちゃんと講談をやっていくつもりなのか。僕は、講談を仕事にするつもりはない、あくまでも役者の修行だと正直に答えた。それは、普段から芦州とも話していることだった。しかし、いつも饒舌な芦州が、その時は、ただ黙って聞いていたのだ。僕はその日、芦州の元を去ることに決めた。

その後、どこかの現場で、ある講談師の方と一緒になったことがある。
「あれからどうした、おやじさんに詫び入れたのか。行ってやんなよ。喜ぶから」
僕は曖昧な返事をした。

体を悪くして、講談協会の会長を辞したという噂を聞いて、ものすごく会いたいと思ったが、結局、一度も芦州と会うことはなかった。

今日、朗読会から戻って、僕は、書斎の押入れのダンボールの中から、28年前、芦州の独演会で使ったガリ版刷の講談本を引っ張り出した。稽古を重ねて、何度も何度も読み返した数枚の紙切れ。あの頃の思い出が鮮やかに蘇ってきて、真夜中だというのに、つい、声を出して読んでみた。

もしかしたら、若き日に教わったこの修羅場を、今日のような小さい朗読会でなら、再び語ることを、あの世の芦州も、きっと許してくれるのではないか、そう思ったのであるが、やはりそれも、失礼は話なのだろうか。

(今日の短編、読み込んでおけば違う何かが見えてきたのだろうと、いまさらながら反省もしているが、あの頃のように時間が取れればいいけれど、暇無く中途半端になるのなら、やっぱり新鮮なほうがいい。これも、お客様に対するひとつの責任の取り方なのだとも思っている。来月の朗読会も、修羅場を語るわけにはいかないのだから、「新鮮」という、奥の手でいくしかなさそうだ。)

《追伸》
ほんとは、講談では「師匠」とは言わない。「先生」と呼ぶ。それについては、またいつか書こう。でもいきなり「先生」と書いたのじゃあ、知らない人は妙な感じがするのではないか。そんな気がして、あえて「師匠」にしておいた。
関連記事
ページナビ




ツリータグリスト

カレンダー
04 | 2021/05 | 06
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示