FC2ブログ

社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

RSS     Archives
 

朗読の形而上学(第二回)序章(2)

 
さて、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を考えていく前に、ちょっと役者の話をしたい。

すまけい という名優が語った言葉。
台本を貰ってセリフを読む。他人の言葉は、臓器移植をした時のように、彼の中で拒絶反応を起こす。他人様の書いた言葉なのだから、拒否反応が起こるのがあたりまえ、むしろ拒否反応が起きない方がおかしいというのだ。それを克服し、他者のセリフが肉体に定着した時、初めて舞台に立てるのだ、つまり、台本の言葉を真に自分のものにすること、それが役者の作業であると。
これは、拒絶反応を起こさない安易な役者が多すぎることへの苦言でもある。

でも、これは役者の事情であって、はたして朗読にも当てはまることなのだろうか。「朗読の形而上学」で考えたいのはここのところである。
朗読でも拒否反応は避けがたい。ただ役者ほど切実に感じることはない。だからこそ、朗読する者には、微かな拒否反応も見逃さない鋭敏なアンテナが、役者よりもずっと必要なのかもしれない。そしてその拒否反応をどう扱うのか、ここからが問題なのである。役者は乗り越えるが、はたして朗読はどうなのだろうか。

言葉は、その性質上、あくまでも「道具」であり、それ自体が目的には成り難い。文体というものがあるにしても、それは「内容にとって」という但し書きがいつでもつきまとう。
朗読は、さらにその言葉の下僕である。テキストという具体的な言葉を抜きにして、朗読を語ることは、本来はできないはずなのである。あくまでも朗読は、テキストとの関係においてのみ論じられるべきものなのだ。
だが、それを言うならば演劇も同じことではないか。演技は、戯曲の世界を具現化するための「道具」にしか過ぎず、戯曲から離れて演技の良し悪しを語ることは虚しい議論ではないのか。
しかし、多分これは間違っている。演劇で語られる言葉は、初めから語られることを想定して構築された言葉なのであり、演劇台本の中には、特定の役者を生かすためだけに書かれるものもあるくらいなのである。時に台本は、役者の下僕である。そうではないにしても、芝居の台本は、役者の言葉とならなければ、その存在価値はない。
ところが、朗読のテキストはそうではない。その多くは、最初から文章だけで完結することを前提として創造されたテキストである。だからこそ「作者の意図をはずれない」とか、「本から一歩も出ない」というような金言が、演劇より遥かに重要事として顔を出してくるのだ。
「朗読」が、表現の世界で確固たる地位を得るためには、この問題を一度徹底的に考えてみる必要がある。

従って、この「朗読の形而上学」は、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」ということを100%受け入れるところから始めなければならないのである。そしてその上で、「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」という朗読を、完璧に実現するとは、いったいどういうことなのかを、敢えて厳密に思考するのである。オバサマ方の井戸端会議的な感覚的論理は、決してあってはならない。
そのために、ここでは「言葉」からは具体的な要素の全てが排除され、その結果「言葉」という概念は、「質量」のない単なる「形式」として扱われることになる。

ここでひとつ押さえておかなけらばならないことがある。
「本から一歩も出ない」ような朗読のどこがおもしろいのかという議論。それに対して、「だってこんなことが…」というようなオバサマ的発言には、一切耳を閉ざすことである。これを許すと論理とはいえない感覚的な議論に落ち込み、マンマとオバサマの思う壺、これより先へは進めなくなる。だからここでは、「本から一歩も出ない」ような朗読は、全く価値がないということを、甘んじて受け入れた上で論を進めたいと思う。というより、「本から一歩も出ない」朗読に価値があるかないかを、ここで問題にする必要はないのである。

そこで、あらためて問う。「作者の意図をはずれない」、「本から一歩も出ない」朗読は、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきものなのだろうか。
関連記事
ページナビ




ツリータグリスト

カレンダー
05 | 2021/06 | 07
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -


来訪者

検索フォーム

RSSリンクの表示