社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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生物多様性と自然淘汰

 
生物多様性なることばを、最近よく聞く。だが、決して新しい話ではない。

岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。

最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。

だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。

種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。

実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。

受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。

人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。

自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。
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