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社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)

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《1985年8月29日のノート》

 
真理の探求は人間存在そのものの要求であり、その根底には自由たらんとする人間があるとフロムは言う。僕はそれに同意するのだが、しかし僕は「自由たらんとする人間」の代わりに「永遠の生を求めて止まぬ人間」を置く。すると途端に、懐疑的なニュアンスとなる。
人は「死」から自由でいることはできない。ここに真の自由の不可能性があるのだが、そこに言及しないフロムのペテン。

しかし。

自由の論理のペテンを理由に、悠然と蟄居しているのだとしたら、それこそ自由から逃避していると罵られても仕方が無い。フロムの厳密性をとやかく言う前に、自分自身の「弱さ」を、凝視すべきである。
ただ楽しく生きていくために、やがて訪れる「死」など考えずにいたい、それが正直な感覚であることを自覚しながら、なお「死」の理論を並び立てている。この分裂は何なのだろう。いったいどちらが「ニセの自己」なのか。というより、権威主義的な論理の「弱さ」を隠す甲冑、それを現実に動かしているのは平板な感情に規定された自動機械である、という何ともお粗末な二面性、それは分裂などからは程遠い、要するに真の自分などどこにもない無力感に満たされた存在というに過ぎないのではないか。

孤独について。
しかし明日の舞台のために、いい加減に眠らねばならぬ。

人から期待されているであろうことを僕はする。彼らの期待する像から頑なに自由でありたいと思うのだが、結局僕は、彼らの期待する者になろうとする以外に術はない。何と大袈裟な物言いだろうと呆れるのだが、しかし僕は、思いやりという至極普通の美徳と、自我の喪失の境界を、全く見極めることが出来なくなってしまったのだ。何かが狂っている。
(1985/8/29)
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